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since 10th August 1999
「武蔵中原=ウィーン」説の検証のために
二ケ領用水 400年 〜よみがえる水と緑〜
かなしん出版から出ている本。神奈川新聞に連載された記事を編集・再構成したものです。99年3月刊。本体価格 1857円。
二ケ領用水は、上河原(南武線の稲田堤駅付近)で取水し、また宿河原にも取水口をもつ、もともとは農業用水の取水を目的に建設された用水。
「記録によれば、徳川家康から新田開発の命を受けた代官小泉次太夫が、二ケ領用水の開削工事のために、当時の川崎領で測量を始めたのが1597(慶長2)年。」(10ページからの引用)
ご多分に漏れず、高度成長期にはどぶ川となり、また、埋め立てられて消失した箇所もありますが、昨今のアメニティを希求する気風のもとで、親水公園として、せせらぎとしての機能を回復しつつあります。
川崎の歴史を研究するうえでも参考になる本です。
(01年9月11日)
シュテファン・ツヴァイク 「昨日の世界」
シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」を、みすず書房から出ている全集の中の1冊(原田義人 訳)で読んだ。
この自伝を読むこと、すなわち、ウィーンとは?、第1次・第2次世界大戦とは?、ユダヤ人問題とは?、といった深い謎の「読み解き」という行為は、我々日本人に対して、必然的に、日本とは?、東京とは?という問題を提起する。
以下に、「1914年、戦争の最初の頃」から、印象深い部分を引用させていただく。有名なサラエボ事件(フランツ・フェルディナント殿下、妃殿下の暗殺)のときの話である。平和な2001年の世界が再び世界全面戦争の暗黒に突入しないことを祈る。 (01年5月6日)
**********
1914年の夏は、それがヨーロッパの土の上にもたらしたあの禍いがなくても、同じようにわれわれにとって忘れえぬ夏であったろう。というのは、私はこの夏ほど豊かな感じで、美しい、そしてほとんどこう言いたいのだが、夏らしい夏を体験したことは稀れだからである。空は毎日毎日絹のような透明な青で、大気は柔らかだが蒸し暑くはなく、牧場はかぐわしく温かく、若緑の森は鬱蒼と茂っていた。今(注:執筆時は1940年頃)でもなお、夏という言葉を口にすると、私は思わず知らず、私がウィーンの近くのバーデンで過ごしたあの輝く7月の日々のことを思わざるを得ない。 (中略)
柩のなかの死んだ大公が私の生活と何の関係があろうか。夏はこれまでになく美しく、もっと美しくなることを約束していた。憂慮もなくわれわれは世界を眺めた。私は思い出すが、バーデンの最後の日にも一人の友人と葡萄山を通って散歩した。一人の年老いた葡萄つくりがわれわれに言った、「こんな夏はずいぶん前からあったことがありません。このままでゆけば、いつにない良い酒がとれます。この夏のことを人々はきっと覚えていることでしょう!」
しかし、酒つくりの青い仕事衣を着たその老人は、何という恐ろしいまでに真実な言葉をこれによって口にしたのかを、知らなかったのである。
インスブルック経済
松本、甲府の活性化(現在、このテーマに注力中)を考えるうえで、インスブルックの経済がどのように成り立っているのかを調べることは、有意義なことと思えます。いろいろと検索した結果、ドイツ語のHPですが、
http://www.innsbruck.at/wirtschaftlich/m6_2.htm
(入口は、http://www.innsbruck.at/innsbruck_intro.htm
です)
が、インスブルック経済(インスブルック市、およびその周辺地域)の実状を最もわかりやすくまとめていることがわかりました。
内容の要約を下記に示します。
(1)企業数でみると中小企業が最大のシェア
従業員数9人以下が4813社(全体の82.6%)、10人以上49人以下が791社(同13.57%) (インスブルック市に限定したデータ)
(2)総生産額でみるとサービス業(金融、保険など)がトップ
資産運用(管理)すなわち、銀行・保険・不動産(分譲、賃貸)、税務コンサルタントなどがインスブルック市の総生産額において最大のシェアを占めている。これら金融サービス業は、国際化が進んでいる。
市の総生産額に占めるシェアは、
資産運用(管理): 32%
公共サービス: 14%
交通、マスコミ等: 13%
なお、インスブルック市の周辺地域では、
地域産業(製材、鉱業): 22%
公共サービス: 15%
建設: 13%
他(商業、倉庫業、宿泊業、レストラン): 11%
(3)自営業・手工業製品
チロル地方で、136億シリングの規模があり、うち81億シリングは卸売り・小売業が占めている。
(4)観光業
100年の歴史をもち、個人旅行・団体旅行のノウハウをもつばかりでなく、大きなイベント(2回の冬季五輪など)も実行している。
95/96年のシーズンに訪れた宿泊客は、
チロル全体:3900万人
インスブルック市、並びに周辺:630万人
インスブルック市のみ:110万人
インスブルック市、並びに周辺には、1446社の観光業を営む会社があり、約9000人の従業員を雇用している。多くの文化施設・見所とともに、人気のある「悪天候日のためのプログラム」も、インスブルック観光の特徴である。
(5)公共施設
インスブルックはチロルの行政の中心であり、州・市の庁舎、裁判所、大学病院、中央政府の地方出先機関、団体の代表部、大学などが立地している。勤労者のうちの24%が公共セクターに従事している。
(6)輸出指向の経済
1995年のEU加盟以来、EU諸国への輸出が容易になり、チロル地方からの輸出額(400億シリング超)のうち65%はEU諸国向け。他は、米国(7%)、アジア(10%)、東欧(5%)。
なお、インスブルック市の人口は、13万638人です。
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以上のインスブルック経済情報を概観して、日本の山岳地方都市である、甲府・松本と共通する項目は、(1)、(5)であり、甲府・松本にはあてはまらないのは、(2)であります(インスブルックは、この点で、ジュネーヴ、チューリヒ、バーゼルなどと似ています)。
(4)に関して言えば、甲府・松本も観光都市ながら、歴史の長さにおいてはとてもインスブルックに太刀打ちできません。(これから、良き観光地としての伝統を積み重ねていこうではありませんか?)
(4)、(6)から、甲府・松本が学ぶ点は以下に集約されると思います。
国際化を推進するために、まず近隣国との交流を深めること: 「信州地域で生産された基幹電子・精密部品を松本空港または富山港から韓国・台湾・中国に出荷し、そこで機器にアセンブリーする」といった経済交流を今後深める必要があります。
また、上海のような平野部に居住する人にとっては、上高地や立山、八ヶ岳の自然は興味深いものと考えられますから、松本空港(または、富山空港)着の国際便でダイレクトに訪問できるようにすべきでしょう。道沿いの様々な標識は、当然、日本語・英語・ハングル語・中国語の4か国語で表記すべきです。
以上、今回はちょっと文章が長くなりました。
最後に、セント・メリー大学がインスブルックにもつ「Institute on World Legal Problems」のホームページで、インスブルックの美しい光景をお楽しみください。このHPの中でも、「インスブルックは中世以来、商業・教育・芸術における重要な結節点である」と書かれています。
http://204.158.207.3/innsbruc/stminnsb.htm
(00年12月30日)
「日本の近代化遺産」 (岩波新書695)
伊東孝 著。00年10月に刊行されたばかりです。拙HPの「呑川の緑道を下る」の内容に興味をもっていただける方には、ぜひお薦めします。駒沢や馬込の配水塔に関する記載もあります。
CDは最近値下がりしておりますが、書籍は依然として高い!そのため、ついつい図書館や古本屋のお世話になるわけですが、この「日本の近代化遺産」は、税抜き価格で700円であり、その点からも、買う価値ありと、考えます。 (00年11月26日)
今日、特にご紹介したいのは木曾川水系に7つの(建築物としての価値が高い)水力発電書を築きあげた、福沢桃介です。彼の旧姓は岩崎であり、福沢諭吉の次女の入り婿となりました。サラリーマン生活ののち、肺結核にかかり退社。療養中におぼえた株相場で大儲けし蓄財、電力事業に乗り出しました。
川上貞奴とのロマンスの話は、NHK大河ドラマ「春の波涛」で紹介されております。
彼の建設した優雅な発電所の写真は、岩波新書で楽しんでいただくとして、
僕は、これらの発電所を訪れたことはまだありませんが、近くの馬篭・妻籠には行ったことがあります。多くの皆様におかれましても、恐らくそうだと思います。でも、この本を読んで、今度、馬篭・妻籠に行くときには、ぜひこれらの発電所にも立ち寄りたいという気になりました。馬篭・妻籠は、(その文化的価値が高いことは当然のこととして)地域活性化のシンボルでもあり、商業的な価値追求の観点から、アンナのパパの漬物屋も出店しています(馬篭・妻籠に行ったのは10年ほど前でしたから、近況は不詳ですが)。
桃介が木曾川の自然景観にある程度手を加えて発電所を建設した時も、景観保護・水利権などをめぐって様々な議論が交わされたと、この本には書いてありました。でも工事によって日銭が入るということで、基本的にはこの工事は地元に歓迎されたとのことです。
また、木曾川水系の合計100万キロワットの電力は、中京地区の経済にとっても大きな財産です。
(00年12月2日)
クリュイタンス(1964 Tokyo)を聴きながら
NHKで放映されて大反響を呼んだ、1964年5月のクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団の来日公演が、このほどCD化された。
「音楽」のページではなく、「都市景観」のページにこのことを書きたくなったのはなぜかというと、この演奏の中でも白眉とも言える、ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ(第2組曲)」の冒頭を聴いていると、何故か、パリの街並みもさることながら、東京の広尾とか、神宮外苑・絵画館あたりを思い起こしてしまうからだ。(同じく、ラヴェルの「亡き王女ヘのパヴァーヌ」は、不忍池・上野の山を思い起こさせると、以前、私は何かに書いたが、これは多分に私の思いいれによるものだ。)
クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団の演奏は、楽員の自主性・名人芸を重んじ、指揮者はそれをまろやかにブレンドして聴衆に送り届ける、そういった感触のもので、今のクラシック音楽界では全くお目にかかれないものだ。「古き良きパリ」のイメージが「古き良き東京」のイメージと交錯したと言ってしまえばそれまでだが、・・・・・・・・「英才教育と称して、子供にテクニックのみを教え、その結果、音楽以外の世界に無知な楽員ばかり集まった現在の世界のオーケストラの楽員に、自主性・名人芸を重んじた演奏を期待しても、それは難しいというものだろう。」・・・・・・そういった感慨が、もう戻っては来ない過去(パリ・東京)の幻影を追い求めさせるのだ。
クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団の演奏は、時にアインザッツも合わず、時に管の「ハズシ」があったりし、また、録音状態も良くないもの(モノラル)だったが、「巨匠性」が失われることは全くなく、「音楽の本質」とは何かを、無言のうちに語っているかのようであった。
さて、今の「東京(港区)」に眼を移してみよう。そういった感慨をあざけ笑うかのように、建築が進む高層ビル群。勿論、「いやそうではない。高層化によって、サントリーホールが誕生したではないか?」という反論も聞こえてきそうだ。クリュイタンスの芳醇を再現する、「明るい」TOKYOの未来を一応期待してみることにはしよう。 (00年11月18日)
田園調布4丁目・5丁目
尾山台から多摩川駅(旧名:多摩川園)にかけて、田園調布の中心部を避けるようにして、周辺の4丁目・5丁目を歩くのは、興趣にそそられるひとときである。起伏に富むこの一帯には、高額所得者の住宅が、古墳の緑を交えながら建ち並んでいるのであるが、
その家々ときたら、英国風、ドイツ風、北欧風、コロニアル風、ギリシャ風、そしてもちろん和風も交えて、住宅博物館とでも言うべきバリエーションだ。お金のかからない海外旅行といってもよさそうだ。
冷え冷えとした気候になってきて、散策するには、むしろちょうどよいくらいの気温だ。
歩きながら、弦楽四重奏曲でも作曲してみたいなあという気持ちになり、脳裏に現れてきたのは、シベリウス「交響曲第5番」エンディングの、ホルンが高らかに奏する跳躍進行(の、私の脳裏のみに存在する弦楽四重奏版)だった! (00年11月12日)
武蔵小杉、元麻布・・・・・雑感
武蔵小杉の駅近く、南武沿線道路に面したガソリンスタンドが改装して出来た、ケンタッキーフライドチキンの店に初めて入りました。雨模様のせいか、店の中は空いていて、ラフマニノフのピアノ曲や、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」をBGMとして流していました。米国の白人の多くも、そのルーツを中欧や、ロシアをはじめとする東欧にもっているわけですから、米国文化の典型とも言えるKFCの店内にこれらの曲が流れていても、ちっとも違和感がないわけです。
KFCのチキンを食べ、南武沿線道路を行き交う車や、高層ビルを眺めていると、部分的ながら米国とほとんど違いない都市景観だと感じます。手軽で安価な米国旅行です。最近、とある雑誌で、米国に留学した女子院生の体験談を読みました。その中で、彼女は、「米国人はフレンドリーだと思っていたが、初めて行ってみると、皆、個人主義で自分にかまってくれず不安だった。しかし、半年もして、自分の中に独自の情報が蓄積されるようになると、彼らは自分のところに来て、その情報を聞くかわりに、彼らの情報を提供してくれるようになった。まさに情報はGive and Takeだと感じた。」と記述していました。この彼女の言わんとすることは、決して「米国人の特質」に限定されるものではなくて、日本の企業社会において、転職した際に体験することと何ら違いがないものと思います。KFCでチキンをかじりながら、そんなことを考えていました。
そのあとで、東急・東横線の武蔵小杉駅から、都営三田線乗り入れ車両に乗り、目黒線経由で白金高輪まで行きました。「白金高輪」は、「清正公前(せいしょうこうまえ)」という仮駅名で建設が進められましたが、開業してみると、このような2つの地名を合体させた名となりました。「清正公前」は都電が行き交っていた頃、その場所にあった停留所の名を受け継ぐ由緒ある駅名であっただけに残念です。東町小学校のところから路地に入り、仙台坂を過ぎて、元麻布の高台へと歩きました。この辺りは私も初めて歩いた一角です。暗闇坂という、車がようやく一方通行できるほどの幅で、しかし歩行者用の舗道は確保されている、オーストリア大使館脇の坂を下るのは、まさに「東京再発見」とでも言うべき面白い体験でした(このHPを御覧の皆様も、ぜひ試しに歩いてみてください)。
この暗闇坂の一角には、現在、元麻布・六本木周辺で進められつつある、森ビル主導の再開発を批判する看板が掲げられていました。「再開発」という行為を批判しているのではなく、再開発後に誕生する超高層ビルが高すぎて、元麻布の景観に合わないことを批判していました。森ビルの社長は、「マンハッタンは東京都心4区並みの広さだが、居住者は150万人(都心4区の3倍)。でも、1人あたりのスペースは東京の1.5〜2倍」ということを、港区高層化プロジェクトの根拠としております。私が考えるには、ニューヨークも、香港も、シンガポールも、摩天楼で埋め尽くされた街区と、低層住宅を主とし、自然に恵まれた街区とをきちんと線引きして都市計画を行っています。元麻布は、どちらかというと後者に当たるのではないでしょうか。巨大な高層ビルから見下ろされ、監視されることを嫌がって、芸術家が馬事公苑あたりまで逃げていく心配はありませんか? (00年10月9日)
不夜城のようになった武蔵中原
武蔵中原はもともと、富士通の工場や、いろいろな大企業の寮・社宅が骨格をなしている地域でした。(戦前の、下小田中地区を碁盤目状にした区画整理の労を忘れてはならないわけですが、)
どとらかというと静的な住宅地で、果樹園・花卉栽培用の温室が今もそれなりの面積を確保しています。私が中原に転居した10年弱前に、南武線の武蔵小杉・武蔵溝ノ口間の高架化が完成しましたが、武蔵中原駅近くの高架下は、これまでずっと用途が定まらずに、不動産会社のモデルルーム用に一時貸しなどに供されてきました。
その高架下が、9月8日以降、不夜城のように輝きはじめました。武蔵中原駅の改札口を抜けて、階段を降りてくるとき、その印象を強くもちます。「アルカード武蔵中原」のテナントの中で、特に、マクドナルドの燦然と黄色く輝くMマークや、夜11時まで営業している回転寿司屋が、中原駅の「ブロードウェー化」を強く印象付けるのであります。 (00年9月15日)
呑川の緑道を下る
蛇崩川の源流地帯が気になって、世田谷区の中央図書館に再び赴いた。蛇崩川の本当の水源地は、弦巻中学校から新町の方向(南側)に向かい小高い丘を登りきったところと聞いた。その頂上は、レトロな給水塔のある「都水道局 駒沢給水所」であった。
この給水所から、南西方向に、いかにも水道の上を塞いで小道にしたところがあり、その道(緩やかな下り坂)を辿ると、玉川通りの旧道にぶつかって、本祠大神の立派な境内が見えてきた。この辺りは、かつて、品川用水が馬事公苑から来て、野沢、鷹番と続く、水道の結節点となっていた場所である。世田谷・大田・品川・目黒区を流れる河川の源流は、神社・仏閣となっていることが多いのである。
玉川通りの旧道の南側に渡り、下り坂をめざすようにして(また下水を流れる水音がだんだん大きくなっていくようにして)、住宅街の中をジグザグ状に進行していくと、いつしか、呑川の最上流部(道の脇を暗渠にして歩道にしている)に行きついた。ここから呑川沿いに下る。玉川通り(246)は、呑川との交差部は横断できないので、100Mほど渋谷寄りの歩道橋を渡る。再び呑川に戻ると、そこから下流に向かってしばらく、駒沢通りとぶつかるまでは、暗渠にせず、小川をはさむ街路(親水公園?)となっている。カルガモが泳ぎ、川沿いは、三菱重工の社宅など、閑静な住宅地である。
駒沢通りとの交差より下流は、暗渠の上に植林した緑道。暑い日だったが、この道を都立大学駅まで下るのは、とてもすがすがしかった(都立大学駅の少し手前に、八雲の氷川神社があった。境内はなかなかいい感じ。東京ならびにその近辺に住んでいながら、この由緒ある神社の存在をこの日まで知らなかった)。目黒通りなど世田谷区を貫く幹線道路は、尾根伝いに進み、また尾根から別の尾根に渡るので、車で走ると、世田谷区の起伏を感じるのだが、こうして呑川沿いに進むと、(源流部の新町を別として)ほとんど平坦である。
都立大学の先の呑川緑道は、既に何度も歩いたことがある。東京工大の敷地を抜け、東急・大井町線・目黒線との交差部を抜けると、呑川は再び川面をさらし、さらに下って、蒲田を通って、羽田付近で東京湾に注ぐことになる。 (00年8月27日)
蛇崩川を遡る
今週は夏休みをとった。目黒区の守屋教育会館で開催されている、東横線の歴史の写真展(9月14日まで開催)を楽しんだあと、祐天寺駅前から東急バス(目黒駅始発)に乗って三軒茶屋に向かった。8月21日のことである。
三軒茶屋からは、徒歩で蛇崩川(蓋をして緑道になっている)をさかのぼった。蛇崩川(じゃくずれがわ)は、中目黒付近で目黒川に注いでいる川である。住宅街の中を縫っているこの緑道は、駒留陸橋付近で環7と交差し、弦巻に入ってバス道路の脇を進むようになる。弦巻中学校(後で調べてみたら、かつては、この辺りが蛇崩川の水源だった)を超えると、緑道はバス道路を離れ、また住宅街の中を縫うようになり(黒く塗装された鉄パイプ(エルボー)のオブジェで、親水公園化されている)、やがて、世田谷中央図書館(プラネタリウムを併設)に至る。
中央図書館の先は、東急バスの弦巻営業所で、いったん一般人が立ち入れなくなる。しかし、その先を辿ると、地下水路は、明らかにゆるい坂を登って小高い丘のほうに達している。そしてその先が馬事公苑なのであった。こうして、蛇崩川を遡ってみるとき、馬事公苑が世田谷の頂上なんだという認識が深まり、私は東京を再発見したような気分になった。
馬事公苑の中にたたずむと、その欧風の風情の中で、また馬のギャロップの響く中で、脳裏をかすめてくる音楽は、ラヴェルの「古風なメヌエット」。僕は、わずかながら起伏のある、馬事公苑の中で最も高い地面を探した。そこは、「馬積み下ろし場所」ではないかと考えた。東京オリンピックの馬術競技優勝者を称える碑が埋めこまれた石垣を除けば。
その「世田谷の頂上」から降りる道筋としては、東京農業大学の脇から千歳船橋へと通ずる素敵な並木道(バス道路にもなっている)を辿った。そこで発見したことは、この道(千歳通り)が、江戸期からしばらくの間、品川用水という用水路になって、烏山で玉川上水から取水した水を戸越の屋敷まで運んでいたということだった。この通りは品川用水の名残であり、馬事公苑よりも標高の低い千歳船橋では、(ポンプ技術もサイホン技術もなかった頃のことであるから)ローマ時代の水道橋のように、築堤が築かれていたのである。蛇崩川の水源が、もとの位置から馬事公苑付近に引き上げられた要因のひとつに、この品川用水の存在があったことは、じゅうぶんに考えられることだ。
(追伸A:このように、世田谷区のかつての中小河川=現在の緑道・暗渠 を辿る趣味の専門サイトも既に存在しています。 http://member.nifty.ne.jp/riverside/)
(追伸B:川崎市 多摩区・高津区・中原区を流れる二ケ領用水は、市の方針で暗渠化されず親水公園的な箇所が多く、川筋を辿るのに、そんなに苦労はありません。久地(平瀬)の取水口も整備されて、印象の良い公園となっています。でも、平瀬川が津田山を潜り抜けるトンネルで多摩川に注がれているために、かつての平瀬川(北見方で二ケ領用水に注ぐ)の川筋は、溝の口駅付近で辿るのが困難な場所が生じています。江川(武蔵新城から矢上川に注ぐ)は暗渠化された公園になりました。)
(00年8月22日)
川崎駅前の「スターバックス」
川崎駅東口の広場を取り囲んで、直方体の機能性だけを考慮したビルが建ち並んでいる。その中で、「OKADAYAモアーズ」の2階に位置するカフェ「スターバックス」の一角だけは、煉瓦造り風の壁面にして、欧風の外観を呈している。このカフェーの席からは、京浜急行の真っ赤な電車が高架線上を行き交うのが見渡せ、その席でくつろぎながらコーヒーをすするのは、中々いい感じだ。僕は「スターバックス」(サザビー)の関係者・シンパでも何でもないが、このチェーン店の本郷三丁目の店には入ったことがあり、その時も、いい雰囲気だと思った。新宿サザンテラスの店は、大人気でいつも混み合っているため、入ったことはない。
今日は本当に暑かった。でも、暑い中でも、川崎駅周辺の感じのいいところにいると、ヨゼフ・スーク(有名なビオラ・バイオリン奏者の同名の祖父)、マルティヌー、フランツ・シュミット、ニールセンの曲のような楽曲の響きが脳裏に現れてくるような気がした。ベートーヴェンやブラームスの楽想は絶対に思い浮かばない。日本にいる限り、(たとえ、その場所が日本で最良の場所であっても)3Bのもつ東洋とはかけ離れた楽想は、絶対に思い浮かぶことはないのである (ただ、過去の名曲・名演奏を頭の中で再現するだけで、3Bの楽想をもとにして、新しい楽想を再構築することはできないという意味)。 (00年7月2日)
世界の美しい建築と美しいファッションへの入口
http://www.greatbuildings.com/buildings.html
800超の美しい建築物の画像が見られます。リンクは貼っていないので、Copy、Paste、Enterをお願いします。
http://www.firstview.com/designerlist.html
がファッションのサイトだと思うのですが、ファッションのサイトは、世の中にいっぱいあるようで、宝島社の
http://www.takarajimasha.co.jp/
にもリンク集がありますし、韓国・Samsungグループの子会社でもファッションをやっていて、リンク集を開設していました。
http://www.sfi.co.kr/
ところで、最近、HANAKOの中吊り広告が、HP的なデザインに変わりましたね。 (00年4月27日)
「中原=マイナー」を主張する人に
場末こそ、本当の身近な都市生活の美点ではないかと思う。2年前に新装なったシュベッヒャート空港(ウィーン)に降り立った時に、空港施設の地下駅から列車が出発する時は、(日本の感覚で言えば)寂しくなるほど静かでした。歌舞伎街的な喧騒や、駅前の自転車の山こそが、真に反都市的な意味をもっているものと信じます。あなたは、どの交差点が好きですか?銀座?原宿(ラフォーレ)?表参道?僕は、それらの交差点もいいですが、中原街道のミニストップのある所(大戸小入口)の交差点のもつ場末的なところが好きです。ロンドンの盛り場(例えば、ピカデリーサーカス)などの密集地区を除けば、欧米の都市の印象は、大体、こんなものです。
チェコの作家、カレル・チャペックのエッセイ「自身の周辺について(O VLASTNIM OKOLI)」(大学書林刊の「K.チャペック小品集」、飯島周 訳 より引用させていただきました)に、以下のようなフレーズがあり、(チャペックの著作全てが好きなわけではないが)この部分は好きです。
******** 「わたしは、自分の定住地の最寄りの周辺の探検旅行を実施したのである。わたしは、何年か前には、乱雑な郊外の野原だったその場所に、今や、手入れのよい明るい家々の並ぶ新しい町通りが沢山できているのさえ発見した。場所によっては、まだきれいな赤煉瓦の家が建てられつつあり、」 ********
昨日、ぶらついた下高井戸で、地下にショッピングセンターをもつ新しいアパートメント・コンプレックスを発見しました。そのショッピングセンターに降りる階段にも赤煉瓦が敷き詰められていました。今や、ロサンゼルスのボナベンチャー・ホテル的なキンキラキンの未来主義ははやらず、懐古趣味的な渋さが好まれる時代になってきたと思われます(これは、全世界的な傾向だと思う)。中原でウィーン(?)を感じるのも、アール・ヌーボー的な色彩の建物がふえてきたためではないでしょうか? (99年10月17日)
中原や新城の住宅街のいいところは、マンション(集合住宅)の高さが、4〜5階建てに統一されていることです。これぐらいの高さが人間にとってもっともここちよい高さだと思われます(法律上の規制のためでしょう)。超高層の建物は、マンハッタンとか新宿新都心などはともかくとして、(通常の住宅街・商店街においては)人間の素朴な直感には好印象を与えないものと考えます。
魅力的な街と言える原宿(シャンゼリゼー的な表参道と、リージェント・ストリート(ロンドン)的な明治通りが直交)において、周囲と調和の取れない高層ビルが(ソロバン勘定のみによって)生まれてきつつあるのは、自家中毒(資源の食い散らし)のように思えてなりません。 (00年3月19日)
建築MAP北九州
TOTO出版から出ている「建築MAP北九州」(1810円+税)という本は、なかなか面白い本です。
説明書きは、ディレッタントを装う画一的建築評論で面白くはないが、北九州市に古くから残る数多くの美しい建築物の写真と、その場所を案内するマップは良く出来ています(福岡空港・北九州空港の位置(8、9ページ)には問題がありますが)。私は、北九州市には3度、立ち寄ったことがあります。でも、いずれも商用の旅行の際の通過にすぎず、小倉モノレールにはちょっと乗ったものの、裏道を含めて、じっくりと街自体を味わう機会には恵まれませんでした。この本を読んで、1週間くらい北九州市内をぶらぶらしてみたくなりました。
北九州市は福岡や仙台よりも魅力的な街だと思います。小倉・八幡・戸畑・黒崎・門司・若松・・・と、いくつかのポイントに市街が分散しているところがよい。このことが、飽きのこない街を演出することになります。仙台は基本的に仙台駅を中心とする単一市街構造によって成り立っています(市電が廃止され、画一的な新幹線駅ができてから、ますます魅力が低下しました)。私は仙台よりも、魚市場・塩釜神社・松島遊覧船・造り酒屋のある塩釜市のほうが好きです。
それにしても、北九州市はせっかく数々の魅力をもった都市でありながら、地方自治体の単位としての「市」の名称がいただけない。小倉・八幡・戸畑・黒崎・門司・若松・・・といった名前にはイメージ喚起力・生命力があるのに、「北の九州」では、あまりにも工夫がなさすぎます。「玄海市」とか、何か素敵な名前に改名すべきではないかと、私は個人的に考えています。 (00年1月26日)
通勤電車の車窓から見渡す光景(中目黒にて)
東急・東横線の渋谷行きが中目黒駅近くにまで来たとき(その朝は、どんよりとした雲が垂れ込めていた)、学芸大学・祐天寺の丘陵から目黒川の谷あいに向け傾斜している穏やかな下り坂(その上に家々が建ち込めている)の傾斜は、カナダ・カルガリーの郊外住宅地の傾斜を思い起こさせた。もちろん、カナダの標準的な家屋の敷地面積とは、比ぶべきもなかった。でも、(中目黒近くの)傾斜した住宅地の中に所々佇立する、鉄筋コンクリート製のビルに、どんよりとした雲から漏れてきた朝の光が照り輝いているところは、なぜか北米大陸の緯度の高いところにある都市にいるような気にさせるのだった。カルガリーの傾斜した住宅地のHinter Landは、麦畑、大草原、そしてカナディアン・ロッキーの山々といった無人の地平へと続いていくことが明らかなのに、そして、祐天寺・学芸大学のHinter Landはずっと家屋の密集地が続いていることも明らかなのに、僕の心の中のカルガリーは、中目黒の近傍の光景を、より魅力的なものに見せようとすることをやめなかった。 (00年2月8日)
Nakahara is Wien (Vienna) !
私は、武蔵中原の北、等々力公園(アルテ・タマとノイ・タマにはさまれた一帯)を、新ドナウ・旧ドナウにはさまれたウィーンの一角(プラーターの辺り)とみなしていた。カールス・プラーツや、オペラは、等々力の「とどろきアリーナ」であってもよかったし、もっと南方の、エポック中原か富士通川崎工場(別名:富士通城)であってもよかった。
このデフォルメの前提には以下のような考察があった。
三浦半島はイタリア半島であり、鎌倉はローマであった。
伊豆半島はイベリア半島。熱海はカンヌ、ニース。湘南はリビエラ海岸。
横浜の「みなと未来」はベネチア?
洒落だが、リンツが立川(リッツー?。商店街と路面電車。立川はモノレール)。ザルツブルクは塩山。(吉祥寺の中道通りは、少しだけ、リンツの路面電車の走っている商店街、もしくは、ブラチスラバの聖マルチン教会に続く通りの感触。)
同じく洒落て、「武蔵新城は、南武線のグロスター・ノイブルグ!!」 この駅の南口駅前広場は、少しだけプラーツのような趣きがあるが、・・・放置自転車がなければなおよい。タンクのある久末の丘は、カーレンベルク!!
プラハは????
渋谷?青山?広尾?いや、もう少し考察を深めてみたところ、遠く北方の盛岡、一戸、二戸辺りということになった。
問題は、東京湾を黒海とみなすのか、東地中海とみなすかだ。もし東地中海とみなすのであれば、レインボーブリッジのところがポスポラス海峡となり、房総半島は北アフリカだ。
初めに、多摩川をドナウ川とみなしていることを語った。デフォルメはやはりデフォルメなので、ドナウ川が地中海に注ぐということになってしまうわけである。
また、御茶ノ水をパリのカルチエラタンかサンジェルマン・デ・プレとすることもでき(神田川がセーヌ川。湯島神社へと続く坂道がポンピドー・センターの辺り。上野の山がモンマルトル。もちろん、愛宕の山をモンマルトルと見る方もおられよう)、そうすると、このフランスの位置は甚だしくゆがんだものとなってしまう。また、三軒茶屋がロンドンのオックスフォード・ストリートに似てきたことは? こういう具合に挙げていくときりがない。
これらの難点に関しては、お許しを頂きたいのである。
I love TOKYO, also I love Wien, Linz, Praha, Bratislava, Paris, and London!
後記: 以上のような、都市のアナロジーのことを、専門的には何というのでしょうか?都市類比学とでもいうべきものなのでしょうか。でも、よく我々の脳裏に浮かぶ発想ではあります(「京浜急行は、もっとも関西私鉄的な雰囲気もつ関東の私鉄だ。」といった文章をあるHPの中で発見しています。書名は忘れましたが、何年か前、日本列島が世界の大陸の形状を全て含んでいると主張する本を読んだことがあります。九州=アフリカ、四国=オーストラリア、北海道=北アメリカ、本州=ユーラシアです。最後の「本州=ユーラシア」説を、詳しく説明しますと、佐渡=英国、中国地方=イベリア半島、紀州半島=アラビア半島、御前崎=インド、伊豆半島=インドシナ半島、房総半島=朝鮮半島、下北半島=スカンジナビア半島、津軽半島=ユトランド半島だったように記憶しています。
オーストラリアのパース近郊を走る車に乗っていた時、ふと、愛媛県あたりにいるのではという錯覚に襲われたことがありました。また、(ちょっと論点から、はずれますが)伊豆半島、三浦半島、房総半島のそれぞれの東岸を北に向かってドライブする時、よく、この3半島を混同するような気分になることがありました。大きな半島の形状を細かく分析してみると、その中に相似な形状の岬を含んでいる。この概念を、専門的には「フラクタル」と言いますが、このイメージは、私の脳裏には、小学生の時から浮かんでおりました。恐らく、そういう方は、いっぱいいらっしゃるでしょう。ロンドンのビクトリア駅と、南海の難波駅も、何となく似ております。(99年8月にこの文章の原案を書き、その後、少しずつ改訂しています。)
尻手・矢向付近の光景
南武線の尻手(しって)駅、矢向(やこう)駅の周辺を歩いた。この辺りは、川崎市幸区と横浜市鶴見区の境界部にあたるところである。工場・倉庫中心の一帯だったが、近年、住宅地としての利用が進みつつあるようだ。国道1号線・新鶴見橋付近の堤防からは、朽ちかけた工場の白壁が望まれ、まるで古城のような印象。(25万画素のQV11の実力のせいか、露出が不適切なせいか、デジタル写真の出来があまり良くないのが、残念だった。)
新川崎・鹿島田の遠景(だだっ広い操車場跡地の彼方)は、今後急速に変化していくであろう光景として、レンズ(CCD!)に収めておく価値のある画像だろうと思った。 (00年4月2日)
Restaurant "GUSTO" near Shitte Station |
Restaurant "GUSTO" near Shitte Station |
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A new housing complex near Shitte Station |
A new housing complex near Shitte Station |
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A collapsed factory near Tsurumi river side |
Shin-Kawasaki district beyond Tsurumi Yard |
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溝の口の欧州風ホテル
最近、竣工している多くの商業ビル・マンション・ホテルの外観には、ネオ・ルネサンス様式やバロック様式風に見せかける工夫が施されている。多くの日本人が欧州の都市で本場の建築をまのあたりにしてきて帰国し、建築美に対して眼が肥えてきた中で、従来通りの間に合わせ箱モノによる都市再開発では、満足しなくなってきたことが、その背景にあると思われる。
溝の口南口に間もなくオープンするホテル「メッツ溝の口」は、従来の箱型の設計ながら屋上に装飾屋根風の庇を配し、中欧風の外観を演出している。
開業間近の時のホテル「メッツ・溝の口」 (00年3月12日撮影) Mets Mizonokuchi Hotel to be opened in April next to Musashi Mizonokuchi station, taken on 12th March 2000. |
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武蔵新城駅近くの洒落た店
「HOME MADE CAKE」の店です。この店は変哲のない雑居ビルの1階に位置しているのですが、洒落た装飾で顧客をひきつけます。模範的な店だと思います。消費不況を嘆くのではなく、このような工夫でClientを集めていく努力が、今後、商店に要求されていくと思うし、それができない商店は滅びていくのでしょう。 (00年3月12日撮影)
このHPは「南武線」を中心としたHPです。品川宿など、他の魅力的な商店街についても、書きたいと思っているのですが、今のところ、優先課題にはなっていません。