第1章 毒の華 

   そして彼らはやがて来る滅亡に向かって確実に一歩を踏み出していたのだ。

 

1976年9月26日の朝は異様な雰囲気に包まれていた。

誰もが戸口から出て東の空を見上げた。男も女も老人も子供も、みなそれぞれが恐怖に苛まれて口から一言も言葉が漏れず、聞こえるものといえば、いつもになく激しさを増した犬の遠吠えくらいだった。やがて、ある者は神の名を唱え、ある者は狂乱して喚き散らし、ある者は大声で地面に泣き伏した。そしてそれらの号泣や怒号の渦の湧き上がるままに、人々はあてどもなく、その場から動こうとしなかった。そして彼らはやがて来る滅亡に向かって確実に一歩を踏み出していたのだ。

私はその日、朝八時に起こされた。日曜日なので、普段は眠気に身を任せてぐっすりと寝込んでいる頃合、起こされた瞬間、何か不気味なことを感じ取っていたにちがいない。丁度、恐ろしい夢を見た間際だった。そして、その恐怖がすぐに現実化したのだ。

「浩一郎、起きなさい。今、お空が大変なのよ。」

私は、母の真摯な眼差しを見てとると、何も言わずに蒲団を飛び出した。一目散に廊下を走り抜け、玄関を突っ切って表に出た。そして、私の目前に現れたものは、毒物の皿の林檎とでも言うべき、恐るべき「緑色の太陽」だった。きのうまで、あんなに真っ赤に輝いていたそれではなかった。緑色、それは野山の木陰や茂みに感じ取るような、そんな爽快なものではない。それからは、どんよりと歪な光線のみが発せられ、まさに緑色の傷口とでも言うべきものだった。誰もがそれを見たら、絶望の深淵に突き落とされてしまったに違いない。まわりの家々の輪郭は、その不気味な光の屈折によって、まるで放射能にでも汚染されたかのように、異物の光沢を発し、吹き抜ける風もただ寒々としたばかりでなく、有害色素にでも満たされているかのように、吐き気を催さんばかりだった。私は、無意識に、近くに立っている向かいのTさんに尋ねた。

「これは一体、どういうわけなんですか。」

「馬鹿野郎、知る訳ないだろう。こっちが教えてもらいたいくらいだ。」

配管工のT氏は、吐き捨てるように言った。私は、そんなTさんを、その日初めて見たような気がする。それまでは、万事寛容的な「紳士」だった。ところが、あまりにも唐突な自然の異変に震撼させられた彼は、すっかり理性を喪失していた。彼がじろりとこちらを睨んだ時、その緑色の色合いとあいまって、まるで鬼のように思えた。私はそして二三歩後ずさりして、それから家に逃げ帰った。考えてみると、彼の態度はきわめて当然だったと言える。誰もが、事のいきさつについては知る由もなかったのだ。ただ、与えられた状況を感じとり、それに恐れを懐くほかなかったのだ。丁度、我々が死の理由を知らない様に。

この異変は、確かに私を頭の上から足の指先まで震え上がらせた。しかし、このような事を私が全く予想していなかった訳ではなかった。数年前から、私は地球の滅亡について確信を持つようになっていた。ただ、要するに、問題はその時期だった。また、その時、いかに死ぬべきかが、問題だった。人間は死が怖いのではなく、その条件が怖いのだと言った者がいる。確かにそれも一理あると思った。実際に自分の生活から死の状況を推察してみると、まず第一に、肉体的苦痛を忌避したい気持ちに捕われる。これは至極当然なことだ。だがもう一つ、捨てがたいこの世への執着、たとえば、名声、金、女、家族、友人、… がある。それは、実を言えば、肉体的苦痛よりもずっと厄介なものかも知れない。名声というその一つだけを取ってみても、私は、自分のその牢獄から抜け出すことができないのだ。私は、錆びついた鎖や足かせを幾重にもはめられ、重い鉄の錠を掛けられて、絶対にどうにもならないのだ。私は、そのとき、春に大学の現役合格に失敗して浪人中であった。それで勉強机の上には、参考書や問題集が山ほど積まれ、畳の上には、昨晩の −正確にいえばきょうの朝だが− 勉強のあとが窺われる、書き尽くされた計算用紙が重ねられていた。私は、その自分の勉強部屋に入ると、鉛筆の芯で薄よごれた机上からすべての本やノートを払い落とし、その上に顔を伏せて、おいおいと泣いた。

十分ほどたって、私は気を取り直して、玄関の方へ向かった。茶の間の方からは、さきほどとはうって変って、「あれは何でもなかったのよ。ただ空にスモッグがかかっただけ。」とかいった、安堵の声が聞こえてくる。皆、楽天的になっている様だった。玄関から空を見上げると、なるほど、太陽の光も平常に近くなり、空全体が陽気に満ちている。私は、大声で、「ちょっと行って来る。」と言って玄関を出た。後ろからは「気をつけてね。」という声が返ってきた。

私の行く先は決まっていた。一年歳下の女学生Y子の家だ。Y子。その名を思い浮かべるたびに、私の胸は浮き立たないことがあったろうか。華麗ななかにもまだあどけなさを残したその素顔。スポーツによって鍛え上げられたその均整のとれた姿態。優しい心と高い教養。その存在全体から、常に香り高い豊満の息吹が漂ってきた。彼女はまさに豊饒の極に達していたのだ。私は、Y子が初めて私に話しかけてきてくれた日のことを忘れることができない。半ば躊躇しながら、恥ずかしさでその可憐な頬を火照らせながら、静かに「平岡君」と囁いた、その日のことを。私は忘れることができない。そう言えば、彼女は私が大学に落ちた春も、優しく「来年はがんばって」といたわり励ましてくれた。その彼女も、今、受験の大切なときにあるのだ。私は、そう自分に説い聞かせていた。「今、行って彼女のショックを和らげてやらねばならぬ。」私はそう思うと、自然、自転車のペダルにも力がこもった。

彼女の家には十五分ほどで着いた。行く間に、太陽がもとの光を取り戻して、やっと一息ついた街の人々の姿が何度も眼に映って、心も浮き立ち、はずむ心で呼び鈴を押した。

彼女はすぐ現れた。顔からは、さすがにいつもの快活さは抜けていたが、優しい心遣いは消えてはいなかった。私は彼女に導かれて敷居をまたぎ、応接室にはいった。

「すぐいらしてくれて、どうもありがとう。さっきは本当にどうなるのかと不安だったのだけれど、今はもう安心ね。」

「君が喜んでくれて、僕としてもとても嬉しいよ。」

私は差し出されたオレンジの生ジュースを一気に飲み干した。そうして、浮き立つ心を抑えながら、美しい彼女の表情に目を凝らした。すると彼女は少し怪訝そうに目をそらすが、やがて内心に溢れ出る喜びを隠し切れなくなって、愉快に微笑むのだった。私はそんな彼女を見るのがたまらなく好きだった。

かれこれ三十分ほど滞在して、Y子の両親にも挨拶を済ませ、私はY子の家を出た。彼女と別れる際に、何と大人びた事か。私は「困った時はいつでもいらっしゃい。」と彼女に言った。彼女はにっこりと微笑んだだけだった。私は、帰るときはゆっくりと帰ろうと思って、いつもは通らない裏道へと向かって行った。

突然、私はブレーキをかけて自転車を止めた。そして感じた。体全体に戦慄が迸るのを。「おお。」私は見た。そして絶叫した。おお。太陽がもとにもどりかけたのは嘘だった。見よ。あの上空を。あの黒紫色に輝く死の球を….。その表面からは、ありとあらゆる悪に満ちた色素が蠢くのが見てとれた。そして辺りは、一瞬のうちに真っ暗になった…。そればかりではないのだ。道端には、いつの間にか、黒い植物が芽をふいていた。(それは一本や二本ばかりではない。何百本もがこの道をずっと覆っているのだ。)黒い植物。真っ黒い植物。苔ともシダともつかぬ異様な形状。それは我々人類のために用意されていた「毒の花」だったのだ。私はそれを見た瞬間、それは触れてはいけないものだということがわかった。幸い、靴の上から触れただけでは何でもなく、しかもそれらはところどころ途切れていたので、比較的楽に進むことはできたのだが、道端で、それらに触れた為に激痛に襲われて、身を悶えさせる犬猫の姿を見るに忍びなかった。人は、みなその毒には遭遇していなかった。少なくとも私にはそう見えた。ほとんど誰もが靴を履いていたし、その植物を見ただけで、すぐにその危険を感じ取った様だった。

家に帰ると、二回目の異変がどんなに規模の大きいものかがわかった。テレビ・ラジオは全てストップし、スイッチをひねっても耳をつんざく雑音しか聞こえてこない。屋根の上に登ってまわりを見回すと、東西南北どの方向をとっても、みな、浅黒い霧に包まれて、視界はせいぜい1キロぐらいしかきかない。そしてその霧をつくる塵は絶え間なく上空から落下してくるのだ。その塵は一つ一つが直径0.5ミリはあり、素肌の上におりると、突き刺すように痛い。払いのけても払いのけても次々に肌の上に降りてきて、しばらくすると痛みにも慣れてしまった。しかも降りてくるものはそればかりではない。飛べなくなった鳥たちが悶え苦しみながら、地面や屋根や樹上に突進してきては、この世のものとは思えない絶叫を残して、皆、悉く息絶えた。からすもすずめもむくどりもひよどりも、赤くただれた翼をたよりなくばたつかせては、地上への果てしない怨念を叫んで絶命したのだ。そして、地上のあちこちには、かれらの赤い鮮血が飛び散り、見るも無残な死骸がごろごろところがっていた。しばらくすると、鳥も落ちてこなくなった。

さて、第二の異変で生じた黒い植物は、一時間ほどでみな枯れ果て、塵もほとんど降らなくなって、それは一応一段落した。しかし、人々はさきほどのようにすぐに楽観主義にもどることはできず、皆、その次に来る異変を恐れてびくびくしているしかなかった。第二の異変は、少なくとも人命にはたいした影響を及ぼさず、それだけから考えてみれば、人類は幸福だったのかもしれない。だが、私は、このことが却って一層人類の苦しみを増すのだということを信じて疑わなかった。何故人間は、あの犬や猫や鳥たちのように一瞬に死ぬことができなかったのだろう。神は人間にそれをさせなかった。そして、そのあとに来る、永続的な苦痛、人間同士の闘争による苦痛を人類に強制したのだ。そうだ。いわば人間は目先の快楽に捕われて恐るべき冷酷な負債をその全身に背負わされたのだ。これからは、人類は、 −男であろうと、女であろうと− その苦の返済の為に、恥辱と憤懣の中で生きていかねばならぬ。生き恥をさらさなければならないのだ。外では、黒い植物に替わって、さきほどと違って、まばらにではあるが、背丈が1メートルほどの「シダ」が繁茂し始めた。それは、地球上にもとからあったシダではなく、形は似ているが、全体が黒紫色を帯びた陰鬱な毒草だった。それは、時折胞子を吹き出し、それが動物の皮膚に触れると、そこから新しいシダが芽をふいた。私はその植物を仮に「ドクシダ」と呼んでおこう。死んでも忘れることの出来ないその植物の名を。