Galicia Page
Updated (更新情報): (2.3) 数学者 バナッハ (03年3月7日)
§1 ガリチア(その1)(02・1・27〜)
(2.1) ボリスラフ(Borislav, Borislaw, Boryslav)
「Kon Pana Boga(主なる神の馬)」の舞台となったボリスラフ(ポーランド語表記では、ボリスワフ)は、石油産出で賑わった街。「カルパチアのカリフォルニア」とも、「カルパチアのオクラホマ」とも称されたことがあった。
20世紀初頭の地図・写真(ギヌナジウム、パィンスカー通り、油井など)や、現在のドロホヴィチ、ボリスラフ、トゥルスカヴェッツ周辺の地図を下記サイトから入手しました。米国などに移住したかつての住民の子孫の方々も、祖先が暮らした街、ボリスラフにノスタルジアを感じているとも記載されていました。
http://members.tripod.com/~Gurnicht/old_world/boryslav.htm
http://www.io.com/~emiller/map/04-modern.html
http://matisse.ceu.hu/students/97/Roman_Zakharii/lviv.htm
http://www.shtetlinks.jewishgen.org/Drohobycz/histoil_con.htm
(02年1月27日)
§2 ガリチア(その2)(01・11・25〜02・1・13)
(2.1) ガリチア(ガリツィア)について
Galicia(ウクライナ語では、「ハーリチナ」)という地域は現在は、ウクライナ(東ガリチアが所属)とポーランド(西ガリチアが所属)にまたがっているが、かつては、ハプスブルク家の領土として結合していた。この地域には迫害を逃れて移り住んできたユダヤ人が多数居住していた(中世に西欧でのユダヤ人迫害を逃れて東に逃げてきて住みついたのが大きな要因)。東ガリチアのドロホビッチ(ドロゴビッチ)(中心都市であるリヴォフ(リヴィュ)の南西約70km)はユダヤ教の一大中心地となっていた。もちろん、19世紀のガリチアでもユダヤ人差別・迫害はあり、例えば、ヘルツルの「ガリチアの劫火」という短文に記述されている。
それでも、彼らユダヤ人は「オーストリア国民」として、祖国をもつユダヤ人の幸福を享受していた。第1次世界大戦の勃発によって、ガリチアのユダヤ人は、戦乱やロシア人による迫害・ポグロムを恐れ、大量の難民となって帝国の後方(主としてウィーン)に殺到した。ウィーンでは、ドイツ人にも(既にウィーンに住みついてドイツ化していた)ウィーンのユダヤ人にも歓迎されず、辛酸をなめた。ガリチアの国土は、帝国軍による奪回、ロシアによる最侵攻を経て、1917年夏、帝国領に戻ったが、1918年11月、「オーストリア=ハンガリー帝国」は崩壊し、ポーランド人、チェコ人等が民族自決・独立する中、ガリチアのユダヤ人の祖国は失われる結果となってしまった。
「オーストリア=ハンガリー帝国」が崩壊したのちは、何国かが東ガリチアの領有に関して争ったのち、1921年3月、ポーランドとソヴィエトとの「リガ条約」によって、東ガリチアもポーランド領とされた。ウィーンやボヘミア、モラビア等に避難していたユダヤ人の多くが、戦争の傷跡も生々しいガリチアに追い返された。そののち、東ガリチアの「ポーランド化」が進み、住民はポーランド語を話すようになり、カトリックへの改宗が行われた。
第2次大戦の勃発、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に伴い、1939年9月、東ガリチアにはいったん、コサック、そしてナチスドイツが入った。しかしすぐにソヴィエトが入ってきて、東ガリチアはソヴィエト連邦の一部とされた。住民は今度はロシア語を勉強する破目となり、当然のことながら、「社会主義」の思想教育も行われ、さからう者はシベリア送りとなった。
ナチスの侵入によって、西ガリチアのユダヤ人は皆殺しとなり、かろうじてブク(Bug)川を越えて東ガリチアに逃れることができた者だけが、「抹殺」から免れることができた。ロシアにもよく知られていように、ホロコーストの歴史があるが、東ガリチアをソヴィエトが支配した時期、「ユダヤ人差別」はあったが、ユダヤ人であるからといって、即、死刑を宣告されるというほどのことではなかった。(「人生万事塞翁が馬」というべきか、高額の税金を払ってウィーンに本籍を得たユダヤ人よりも、東ガリチアに追い返されたユダヤ人のほうが生き延びる可能性が高かったわけだ。)
その後、よく知られているように、ドイツはソヴィエトとの不可侵条約を破棄し、ソヴィエト領内に侵攻(この無謀なナチス・ドイツの戦略が、西部戦線における戦力低下となって現れ、米英仏連合軍(実質的には米英)の巻き返しを助けてしまうことになった)。ナチス・ドイツがレニングラード攻防戦での激しい戦いに敗れ、スターリンの軍隊によって一気に押し返されるまで、東ガリチアはドイツ占領下(1941-1944)となったが、ユダヤ人はやはり大量虐殺だけは免れている。
(この間の事情に関しては、ポーランド語で書かれた、ウィルヘルム・ディヒター著:「Kon Pana Boga(主なる神の馬)」に詳しい。なお、ナチス・ドイツはポーランド人のインテリ層を一掃し、ポーランド人を単純労働者としてのみ生かそうとした。「カチンの森」に象徴されるように、ソ連も、ポーランド人のインテリ層・将校の多くを殺害し、あるいはシベリア送りとした。)
第2次大戦後、東ガリチアに居住するユダヤ人は、イスラエル、米国などへの移住を行った。また、ウクライナのスラブ人にも、よく知られているように様々な試練があった。長いソヴィエト支配のもとで、住民はロシア語を母語とするようになっていったが、ゴルバチョフ政権によるソヴィエト解体により、ウクライナはウクライナ共和国として独立。その結果、ウクライナで高い地位を得るためには、ウクライナ語を身につける必要がでてきている。このことが、現在、ウクライナ国民(祖先がポーランド人、タタール人の人も多くいる)にフラストレーションの種として重くのしかかってきているとのことだ。
ウクライナ関連リンク集は:
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~abe/jaus6.html
なお、「ジェチ・ポスポリータ」(ポーランド士族共和制)という言葉があり、1386年にリトアニア大公、ヤギェウォと、ポーランドの王位継承者、ヤドヴィカが結婚してリトアニア・ポーランドが連合王国を作り、現在のベラルーシ、ウクライナをも含む広大な地域を支配したことは、問題点を複雑にしている。現在のベラルーシ、ウクライナにおける復興民族主義は、ロシア(ソ連)、ドイツによる迫害の歴史のみならず、ポーランドによる支配の歴史も問題視している。
なお、リトアニアも実は20世紀初頭は、ユダヤ人が多く住んだ地域であり、リトアニアの独自言語で出版が始まったのは、現在の国家「リトアニア」の首都、ビリニュス(ヴィルノ)ではなく、プロイセン領であったケーニヒスブルクだったとのこと。
なお、東部ウクライナに目を向ければ、クリミア半島は、1954年にウクライナ共和国に編入された。この半島地域は、1783年にクリミア汗国がロシアに併合されるまではタタール人が優勢を占めたがその後、ロシア化が進んだ。クリミア汗国はキプチャク汗国から分かれて成立した国。タタール人はは3つの部族要素(うち2つは、オグース系のトルコとキプチャク系のトルコ)。この半島は、カライム人というユダヤ教の聖典トラのみを信奉し、律法タルムードは絶対に認めない集団(世界中に離散)の故郷でもある。
§「ジェチ・ポスポリータ」以下の出所: 早坂真理(まこと)著 「ウクライナ 歴史の復元を模索する」(リブロポート 社会科学の冒険 18)
(01年11月25日 & 02年1月4・6日、03年2月11日)
ガリチアの歴史について、野村真理著「ウィーンのユダヤ人」(御茶の水書房)の18〜19ページから引用させていただきます。
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ポーランドのユダヤ人の貧困化は、ポーランド分割によってポーランドが消滅する以前から始まっていた。1648年のフメルニツキーの乱のさい、フメルニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。(中略)1772年にガリツィアがハプスブルク帝国領となった翌1773年6月、ヨーゼフ2世ははじめてガリツィアの視察旅行を行う。そしておびただしいユダヤ人の貧困に衝撃を受けた皇帝は、当地の役人に向かって、これらの者たちはいったい何を食べて生きているのか、と質したという。
(2.2) ガリチアに魅せられて
ガリチアは、ウクライナ南西部からポーランド南東部(中心都市:クラクフ)にかけてのカルパチア山脈一帯のことを指しますが、この地域の小都市サイトへのリンクも含む「超オタク的な」「ガリチア・サイト」を見つけました。
http://members.xoom.it/zakharii/galicia.htm
このサイトの冒頭にある山岳集落の写真にはまってしまいました。日本からは遠く離れた場所ですが、いつか行ってみたい。日本の東北地方の山地集落に、どこかしら似た表情を感じませんか? (01年11月17日)
東ガリチアの地図は、下記サイトをご参照ください(キリル文字で書かれています)。
http://members.xoom.it/zakharii/halychyna-zakarpattia-karta.jpg
(http://members.xoom.it/zakharii/galicia.htm の中の地図:
「Map above: General map (in Russian) of Galicia (Western Ukraine)」という記載の上の地図
をクリックしないとダウンロードできないこともあります。)
(2.3) 数学者、バナッハ(バナッフ)
リボフ(現在は、西ウクライナの中心都市)の工科大学校を卒業し、クラクフ(現在は、ポーランド領)のヤギェヴォ大学で偽学生をしたこともあるバナッハは、「ルベーグ積分」の研究で知られる数学者。「測度」という術語は、彼がポーランド語で思いついた言葉が数学用語として定着したとのこと。(http://www.mcc.pref.miyagi.jp/people/ikuro/koramu/rubergu.htm)
バナッハの著作は、「線型作用素」という表題で、岩波書店から刊行されたこともあるとのことです。
(02年1月3日)
バナッハの生涯・業績を解説した英国のサイト:
http://www-groups.dcs.st-andrews.ac.uk/~history/Mathematicians/Banach.html
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日本評論社が刊行した、「無限からの光芒 ポーランド学派の数学者たち」 (志賀浩二著 ISBN4-535-78161-3 C3041)という本には、20世紀初頭からナチスドイツによって崩壊させられるまでの間、リヴォフ(ルヴフ)およびその周辺で実り豊かなエポックを築いた数学者たち・・・、シェルピンスキ、ヤニシェヴィスキ、マズルキェヴィッチ、クラトフスキ、シュタインハウス、バナッハ、ウラム、シャウダー・・・の業績・生涯が詳しく解説されています。
彼らの多くはユダヤ人であり、リヴォフがいったんソ連に占領されていた時期には重用されますが、ナチスドイツの侵略によって、悲惨な状況に置かれました。特に悲惨だったのは、シャウダー。この本の184ページには以下の記載がありました。
「1941年6月にドイツ軍がルヴォフに侵攻してくると、ユダヤ系ポーランド人であったシャウダーは、身に迫る危険を避けるため、田舎に移り、偽名で隠れ住んでいたが、しかし結局、夫人と一人娘とともにナチスによって捕えられた。1943年、ユダヤ人根絶を夢みたヒットラーの狂気の中で、シャウダーは殺され、少しおくれて夫人も命を絶たれた。娘さんだけが生き残った。」
また、「バナッハは、1941年、ドイツ軍がルヴフに侵入してから’細菌研究所’でしらみの飼育をすることを強いられた」(114ページ)
数値計算に「モンテ・カルロ法」を導入した業績で知られるウラムは、米国に渡っていたため無事で、ロス・アラモスで研究し、フェルミやフォン・ノイマン、ファインマン、ガモフとも親交を結ぶ。彼の著書「Adventure of a Mathmatician」(志村利雄訳「数学のスーパースターたち」という日本語版も刊行された)には、ワルシャワ、ルヴォフにおける、この時期の数学研究の興隆が詳しく描かれているとのことである。
(2.4) クラール家、シフマン家、などなど
野村真理著「ウィーンのユダヤ人」(御茶の水書房)の37ページによれば(以下、引用させていただきます)、・・・・
ジョージ・クレアの回想録『ウィーン最後のワルツ』(#)に描き出されたクラール家の繁栄と崩壊の歴史は、1816年に東ガリチアの小さな町スタニスラウ(現在のイワノ=フランコフスク)で生まれた曽祖父ヘルマンが、その帝国のアジア的部分」を抜け出し、ウィーン大学で医学博士の称号を取得した時から始まる。
(#)邦訳は、兼武進 訳、新潮社(1992)
・・・・
イワノ=フランコフスクは、上記のイタリアにある「ガリチアサイト」の地図にも載っている交通の要衝で、この地図では、キリル文字で、「ИВАНО-ФРАНКОВСК」と表記されている。
(02年1月3日)
さらに、「ウィーンのユダヤ人」の37ページから、・・・・
とはいえヘルマンは、ブコヴィナの州都チェルノヴィッツ(現在のチェルノフツィ)で開業したため、ヘルマンの息子、すなわちジョージの祖父も、その二番目の妻もチェルノヴィッツの生まれであり、またジョージの母方の祖母と母自身も、東ガリツィアの州都レンベルク(リヴォフ、現在、独立したウクライナのリヴィウ)の生まれである。
・・・・
この、「ウィーンのユダヤ人」でもしばしば引用している、シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」(和訳書は、原田義人訳(みすず書房))には、ツヴァイクがベルリンに遊学した際に出会った画家、E・M・リーリエンが「ドロホビチの貧しい正統派ユダヤ教徒のろくろ細工師の息子」であると書かれている。
イタリアの「ガリチアサイト」の地図を御覧ください。チェルノフツィは、ЦЕРНОВЦЫ。リヴォフは、ЛЬВОВ。ドロホビチは、ДРОГОБЫЧです。リヴォフ、イワノ=フランコフスク、チェルノフツィは大きな都市なので、地図上ですぐ見つけられると思いますが、ドロホビチはそれほど大きくありません。地図上では、リヴォフの南南西、約70kmのところにあります。
ドロホビチ(ドロゴビチ)は、ガリチアにおけるユダヤ教布教の中心地となっていた街。GとHの交替が起こるのは、スラブ語に特有の現象です(「山」が、チェコ語では「ホリィ」、ポーランド語では「グラ」)。なお、ドロホビチの南西方向にある小さな街、ボリスラフ(ВОРИСЛАВ)(ポーランド語では、ボリスワフ)は、「神のもとの馬」の舞台となった街であり、石油を産出したため、20世紀前半には、フランス系の石油資本が採掘を行い採掘関連産業が集積して、結構にぎわっていました。 (02年1月4日)
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・
(p.110) 東ガリツィアのトレンボーラに住むユダヤ人、シフマン一家の父親は、東ガリツィアにあるオーストリアの大石炭企業の一つで取締役を務め、(中略)彼のウィーン行きの決断は早かった。7月28日に戦争(第1次世界大戦)が始まると、すぐに馬車を仕立ててガリツィアを脱出する。
・・・・
この、トレンボーラという地名ですが、イタリアの「ガリチアサイト」の地図からは見つけられませんでした。ТЕРЕБОВЛЯ(チェリェボヴリァ)という街が、イワノ=フランコフスクの北東、約80kmのところにありますので、この街のことなのかも知れません。
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・
(p.155) 1916年6月から9月にかけてのロシア軍の再反撃で、ガリツィアでは新たな難民が発生した。ブコヴィナに間近い東ガリツィアのユダヤ人町ザブロトフに生まれ、後年フランスに帰化したユダヤ人作家マネス・シュペルバーの一家の難民生活は、この時期に始まる。
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ザブロトフは、ЗАБОЛОТОВ(ザボロトフ)(イワノ=フランコフスクと、チェルノフツィの中間に位置する街)のことでしょう。
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・(出所は、1917年11月30日 「オーストリア週報」の記事にあった、東ガリツィアへの帰還を強要された難民から寄せられた手紙。ヴォルフ→シュタイン)
(p.178) シュタイン様 私たちは、この手紙をコロメアで書いています。私たちは昨晩ここに到着したのですが、この先、クティへ行くのは、目下、非常に困難です。ヴィツニツまでの無料乗車券をもらったものの、何もかもが破壊されて、汽車はまだそこまで行かないのです。
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コロメアは、イタリアの「ガリチアサイト」の地図上では、КОЛОМЫЯ(コロムィヤ)(ザボロトフの西北方向の隣り街)と記載されている。その南南東方向に、ВИЖНИЦА(ビジュニツァ)とКУТЫ(クトゥイ)がある。きっと、イワノ=フランコフスクとチェルノフツィとを繋ぐ幹線から支線が出ていて、支線にビジュニツァ駅があり、ここで降りて馬車などでクトゥイに向かうのが、第1次世界大戦勃発前にはクトゥイに行くメインルートだったのだろう。
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・(出所は、1919年3月12日 キリスト教社会党系の反ユダヤ新聞「ライヒスポスト」。第1次大戦終了後も迫害を恐れてガリツィアからウィーンに逃れてくるユダヤ人を糾弾。)
(p.193) 昨日、北鉄道で、8家族を下らぬユダヤ人がガリツィアのブレスコからウィーンに到着した。
・・・・
ブレスコについてはよく分からない。ワルシャワの東方、現在のポーランド・ウクライナ国境に程近いところにВРЕСТ(ブリェスト)という街があるが、この辺りはガリツィアの範疇ではない。リヴォフの東北東、約70kmに、ОЛЕСКО(オリェスコ)という街があるが、OをBとした読み間違えかも知れない。
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・(出所は、1920年10月9日 「ウィーン朝報」)
(p.227) (ウィーンの)第2区のオーバーミュルナー通5番地に住むヨーゼフ・ツェリンダーは、いまでは破壊されてしまった東ガリツィアの町ロハティンではパン職人であった。1914年に彼はオーストリア政府の命令により、家族を連れてウィーンへと避難した。彼は、ウィーンでは自分の仕事をすることはできなかった。というのも彼は営業許可証の発行を拒否されたからである。
・・・・
ロハティン: 恐らく、ロパチン(ロパティン。 ЛОПАТИН。リヴォフの北東、約70km)の間違い。
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・(出所は、1921年1月14日 「ウィーン朝報」。ユダヤ人が集中して住んだ第2区のレオポルドシュタットで区役所に押しかけた本籍取得申請者の様子。)
(p.242) 小柄で顔色の悪い婦人はリンツ出身なのに、突然おまえはセゲビンの者だといわれた。(中略)彼女は、追放されると見てとった。
・・・・
セゲビンについてはよく分からない。СЕНКЕВИЧЕВКА(ツェンキェヴィチェフカ。ロパチンの北北東、約30km)のことか?
再び、「ウィーンのユダヤ人」からの引用・・・・
(p.252 - p.262) ウィーンに住むユダヤ教徒で、リスコに本籍権を持つ商人のモーゼス・デュムは、サン・ジェルマン条約第80条にもとづきオーストリア国籍を申請した。(中略)彼が提出したのは、東ガリツィアの町ブローディのドイツ語高等学校に在籍したことを証言する三人の人物による宣誓供述書であった。
・・・・リスコはよく分からず。上述のОЛЕСКО(オリェスコ)のことかも?ブローディ(Brody。БРОДЫ)は、リヴォフ - ロヴノ - ジトミル - キエフの幹線上、リヴォフ - ロヴノ 間にある比較的大きな都市。p.258の「シュメルル・メルツ氏とその家族が、サン・ジェルマン条約第80条にもとづきオーストリア国籍を取得したことを示す書類(1920.10.6)」にも、出生地/本籍地として、「Brody」が記載されている。
(02年1月4・6日)
(2.5) イジー・ムハ(ジリ・ミュシャ)の「Most(橋)」
イジー・ムハは、超有名な画家、アルフォンス・ミュシャの息子として生まれた作家(*)。イジーの小説「橋」は、第2次大戦中の1943年に発表された。この本(Eminent版。1999年)をプラハの書店で購入しました。ウクライナ共和国・ザカルパッチャ州の、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア国境近くの都市、ウシュホロト(ウシュゴロト) (УЖГОРОД)、フスト(ХУСТ)が筋書きに関係しているとのことで、読み進めたところで、追加情報を記載していきたいと考えている。
(*)Czech Pageで紹介した、夭折した女流作曲家、カプラローヴァーの夫でもあった。
http://www.martinu.org/vt2-nenpu.html
また、マルチヌーのカンタータに詩を提供している。
http://www.martinu.org/works3k-kantata.html
(02年1月4日)
(2.6) パウル・ツェラン (Paul Celan 1920 - 1970)
ブコヴィナ(当時ルーマニア領)のチェルノフツィに生まれたユダヤ系詩人。ナチス・ドイツの侵略による動乱の時代を生き延び(両親は虐殺)、戦後はフランスで活躍。1970年、セーヌ川に投身自殺。ツェランの本名は「アンチェル」であり、anとcelを逆にしたのがペンネーム。
代表作、Todesfuge(死のフーガ)(ドイツ語)は、下記のサイトで読むことができる。
http://www.celan-projekt.de/
(02年12月28日)
(2.7) ゴーゴリ
ゴーゴリ作の「タラス・ブーリバ」などを読むと、「これぞ、ロシアの小説の神様!」と言いたくなるが、実はゴーゴリは「ウクライナ出身のロシア人」ではなく、正真正銘の「ウクライナ人」とのこと。早坂真理(まこと)著の「ウクライナ 歴史の復元を模索する」(リブロポート 社会科学の冒険 18) の49〜50ページに以下のような記述があった。
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ゴーゴリの自筆原稿はすべてウクライナ語で書かれていて、保存されている。それを確認すれば一目瞭然だ。」 ゴーゴリとはペンネームである。ウクライナ風に発音すればホホル、これはロシア人のウクライナ人に対する蔑称である。こうしたことに文学者はもとより歴史家ももっと敏感にならなくてはいけないのかも知れない。
(03年2月10日)
(2.8) ブコヴィナ、ルテニア人
ウクライナ、ポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、そしてルーマニアが国境を接するザカルパッチャ州(イタリアの「ガリチアサイト」の地図上では、ЗАКАРПАТСКАЯと記載され、ウシュホロト、フストがその中に含まれる)には、現在もルテニア人が居住している。カルパチア山脈周辺地域は、ブコヴィナと呼ばれた地域である(チェルノフツィが含まれる)。これらの地域は、「オーストリア=ハンガリー帝国」領となったり、大戦間期チェコスロヴァキアの領土となったり(ザカルパッチャ)、ルーマニアに編入されたり、複雑な変遷を経て今日に至り、現状でも複雑な問題をかかえている。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/79/essay79-4.html
ブコヴィナに居住していたユダヤ人に対する迫害もすさまじいものであった。
http://www2.odn.ne.jp/~cbo44980/selma.htm
http://www.israelembassy-tokyo.com/mag/culture/970101_01_02.html
(02年1月4日)
「現代東欧史」(ジョゼフ・ロスチャイルド著、羽場・水谷訳。共同通信社)のp.69によれば、
・・・・・(第2次世界大戦中のチェコスロヴァキア亡命政府のリーダーであった)ベネシュは、1943年12月、保護者イギリスの勧告に逆らって、その(ソ連との友好・相互援助・戦後協力の特別条約)調印のためにモスクワへ飛んだ。ベネシュはこの機会に、ポーランドとハンガリーの「封建制」を根絶し、ルーマニア人とユーゴスラヴィア人に屈辱を与えるべきだとスターリンとモロトフに勧告することを適切と考えた。1年後に彼は、大戦間期チェコスロヴァキアの最東部ルテニア(カルパチア・ウクライナとも呼ばれた)の割譲を要求するスターリンに力なく屈服する。ここは、非常に貧しくはあったが、ウクライナからハンガリー平原につうじるカルパチア山脈越えのいくつかの道路を制する戦略的に重要な土地だった。・・・・・
(02年1月13日)