第3章 黒死

 

 時は既に十一月になっていた。私は野草を食べたり、昆虫を食べたりしながら、死の彷徨を続けていた。頭はフラフラで、時折何を見ているのか判らなくなった。栄養不足から来るものらしかった。十一月ともなると、紅葉もすっかりはげ落ち、森の中でも食料は少なくなってくる。やがて雪でも降ってくれば、私の餓死は確実だった。私は、しばらく住んでいた森を出てみたくなった。歩き続けて樹木のベールから解放された時、私の目前に出現したものは、以前より一層凄みを増した町の惨状だった。そのわけは知らないが、家々の庭先には必ず一つはつっかい棒の上に干上がった人間の死体がひっかけられてあった。それは、するめの様でもあったし、私がかつて一度見たことのある、三味線用の猫の皮を軒先に干したものにも似ていた。生きた人はあまり見かけなかったし、たとえたまにそれを見つけても、こっちから逃げ出した。なぜなら、皆、化け物のような身なりをしていたからだ。私は、たぶん自分もそうなんだろうと、自分の姿を人に見られることも嫌った。だが、歩いているうちに、生きている人間の実態をいやがうえにも見せつけられる事になった。かつて自分の同級生だったSの立派な庭で、Sが父と一緒に母と妹の肉に喰らいついていた。私は物陰に隠れ、恐怖の眼差しでその光景を凝視していたが、Sは目ざとく私を見つけ、その鋭い視線で私を睨んだ。しかし、彼はすぐ何事もなかったかのように、またがぶりと肉の味を堪能し始めた。彼は肉親の肉をどの部分でも容赦なく食べ続け、眼球や脳でさえ、むしゃむしゃと美味しそうに食べた。私は、もう彼をSと思わなかった。学校では生徒会の役員となり、弁証法を力説していた彼の姿はもうなかった。

 私は、自分の家に向かった。その途中で、何人かの苦しみ悶える人に遭遇した。そのうちの幾人かは体じゅうドクシダの菌糸に包まれ、人間の形状をとどめていなかった。またある者は、餓死直前で、地面をはいつくばって、石に必死にかじりついていた。私はかれらに対して何もしてやれることは無かったし、また、そうしようとも思わなかった。家に着いたとき、予期していたこととはいえ、その無残なありさまは目を蔽うばかりだった。父は母に半分かじりついたままで、互いに腐り合いながら死んでいた。冷蔵庫の中は空っぽで、米櫃には何と一粒の米もなかったのだ。庭の草木にはことごとくかじった形跡が見受けられた。父母も必死に生きようとしたのだろう。食べられそうなものは、何でも食べようとした努力の跡がそれだった。再び室内に戻ると、私は父母の死に顔をしみじみと見つめた。威厳のあった父の顔は、ここ一か月の間に、八十の老人のようになっていた。顔の皺の一つ一つから地獄の責め苦のような苛酷な苦悶の一つ一つが浮かび上がって来るように思えた。そうして、私は三十分ほどそこを動かなかった。

 私は再び歩き始めた。今度こそ本当にどこにも行くあてがなかった。ただ空をみつめて歩くだけだった。その空は昼ながら暗緑の暗やみに時々サーチライトにでも照らされたかのように、まことに頼り無い日光がさして来るような空だった。暗雲は常に嵐の前ぶれのように不気味な鼓動を繰り返し、時折、肌寒い疾風が身を刺すように通り抜けた。天空で最も不安な部分は紫色に輝く地平線で、よく見ると、ずっと向こうで何かが燃えているように感じられた。ずっと向こうの町では町全体が燃えているのかも知れぬ。私にはそう思えた。その炎のような輝きは、時折、地平線よりも少し上のところに、だいぶ拡大されて映り、この天空全体が巨大なレンズなのではないかと思えた程だった。なぜだか知らないが、周りの町や全世界がこの町よりももっと残酷な異変に遭っていることを想像することは、私を落ち着かせた。どうせなら全宇宙が滅びてしまえばいいと思った。

 次の日、私が目を覚ました所は、前日に寝込んだ道端ではなく、どこだか判らぬ得体の知れない洋館の一室だった。私は荒縄で縛りつけられていた。そんな様子から、私はすぐさま自分が食われそうなことを察知した。食われてはいけない、食われるくらいなら自殺したほうがましだというのがその時の私の生活信条であったから、私はすぐに逃避の方法を考えた。だが、縛っている縄は非常に頑強でどうすることもできない。あちこちころげ回ったりしているうちに、やがて遠くから、死刑執行人のような残酷な足音が聞こえてきた。二、三人いる様子に聞きとれた。そして扉が激しいきしみをたてて開くと、そこには不気味な顔付きをした、二人の男と一人の女が立っていた。三人とも片手に出刃包丁を持ち、恐るべき目付きをしていた。やがて一人の男がきりりと腕に力を込めてこちらに駆け込んで来ると、すぐさま残りの二人も後を追った。その時の私の恐ろしさといったら一口では言い表わせない。とにかく全身に戦慄がどよめき、目からは涙が溢れた。もうこれでおしまいかと思った。だが、私は助かった。一人が私を突き刺そうとして、あわてて手を滑らせ包丁が宙を舞った時に、体を動かしさっとよけると、それが女の頭上に突き刺さった。室内に響き渡る断末魔の絶叫。その瞬間、私が一人の男を縛られた両足でもう一人のほうに蹴りつけると、二人は見事に同士討ちとなった。私は、三人の唸り声をよそに、そばに落ちていた包丁で首尾よく縄を切り落とすと、全速力で外に逃げ出した。

 十一月十日。私は、再び森の中にいた。この日になって、初めて、私は自分の体躯が腐り始めたことを知った。一番栄養の行き届かぬ、足や手の指先や耳たぶの感覚がなくなって、みるみるうちに肉の色がなくなり、やがて悪臭を感ずるようになった。その夜、私は一人いつものように寂しい床に伏して、いつもになく悲しげに夜空を見つめた。私は、懐かしい過去の事を思った。夢のような幼年時代、小学生時代。思い出の級友。優しい母、厳しいが素敵な父。それぞれの思い出の断片が走馬燈のように私の脳裏を通り過ぎていく。中学校に入学して、さらに高校に入り、そして、Y子との出会い。図書館にいっしょに行って勉強したこと。遊園地でブランコに揺られたこと。映画を見にいったこと。何もかもが懐かしかった。私の目蓋からは、涙がとめどもなく溢れ出て、とどまるところを知らなかった。私のこれまでの生涯、ひとくちに十八年といっても、そこには悲喜こもごも、とにかく色々のことがあって、私は、それらの幾多の事に励まされ、教えられてここまで生きてきたのだ。こんな今になって、私はそれらの人生の道しるべがいかに貴重なものであったのかが、心の底から理解できる気持ちになっていた。しかるに、今は、両親もY子も級友も、ごく僅かを残して、ことごこく死に果て、私はひとりぼっちでしかない。そればかりではない。私は恐怖の監獄に完全に幽閉され、脱出は不可能だ。私には未来がない。いや、未来がないからこそ過去があるのかも知れぬ。私はこんなことをとりとめもなく考えた。自分をいつもになく可哀想に思い、感傷の呼吸は肺をうならせ、悲嘆の血は、からだの中を渦巻いた。星一つない夜空をながめながら。

 次の日、私は、森の中を何事もなく散歩していた。その森は不思議にドクシダ等の被害が少なく、かなり寒くなった今でも、食べられる植物がそこそこ残っていたので、少しでも長く生きたければ、そこから離れないのが得策だった。私はしばらく歩いて、木の切り株に美味しそうなキノコを発見した。毒キノコではなく、しかもかなりの量があった。私が喜んでそれを摘み取っていると、背後から人の気配がするのを感じた。私がちらりと振り向くと、それはすっかり窶れ果てたSの姿であった。私は、きりりと目を上げてそちらを睨んだ。

 「親父を捨てて来たのか。」

 「死んだよ。」

 「食ったのか。」

 「いや、あの植物の胞子を全身に浴びて狂い死にした。そして、この俺も。よく見ろ。」

 彼は背中をこちらに向けた。見ると、何と驚くべきことか、ドクシダの幼生が所狭しと張りついていた。もう手の施しようがないことは一見して明白だった。

 「見てわかる通り、俺の命もあと幾何もない。ただ死を待つだけだ。」

 「俺だってだ。俺だって雪が降れば餓死してしまうんだ。」

 「嘘をつけ。そのキノコは何だ。お前は何日だって生き残るぞ。」

 「食いものばかりではない。この指を見ろ。どす黒く腐り始めている。」

 「そんなの切り落とせば、すぐ治る。俺はまさか背中を切り落とす訳にはいかない。」

 Sは、やるせない表情でこう言ったあと、しばらく黙りこくってからこう言った。

 「俺は何もお前に死ねと言っている訳じゃあないぜ。ただ俺はお前に死の苦しみから救済してもらいたいだけだ。俺は楽に昇天したいんだ。」

 「この俺に何故、お前が救済できるんだ。そうしてもらいたいのは、こっちの方なんだからな。」

 「お前の読書量は俺のとは比べものにならない程、べらぼうに多い。仏様なり、キリスト様なり、そこらへんはよく知ってるんだろう。」

 「馬鹿言え。いくら格言、箴言を読んでみたって、自分を救うのは、結局自分自身の信念しかないんだぞ。」

 「うるさい。何でもいいから早く言え。」

 「お前を救ってはやりたいが、少なくとも俺には出来ない。」

 するとSは、力なく地面に倒れ伏した。そして食い入る様な目つきでこちらを見た。

 「早くやってくれ。俺は今にも死にそうだ。ああ痛い。狂いそうな痛みだ。」

 「すまん。だが、俺は…..できない。一人で苦しみに堪えてくれ。」

 「そんな残酷な。お前は鬼か。」

 その後、Sはわめくのをやめ、一人苦しみもだえた。それは一時間ほど続いたが、私は黙ってそれを見続けているしかなかった。そしてSは死ぬ直前に、最後の力を振り絞ってこう叫んだ。

 「お前も狂い死ねー。」

 Sは口から多量の血へどを吐いて絶命した。Sの死んだ後、森の中にはいつもの静寂が戻った。

 十一月二十日。私は、死期が近づいたことを悟った。体じゅうに不気味な黒斑が発生し、激しい発熱と下痢が続いていた。私は死ぬ前に何をしておくべきか考えた末、自分の今までの経験を、持っていた紙に書きつけておくことにした。その仕事は三日ほどで完成し、私は静かに死を迎える心境となることができた。

 十一月二十五日。決定的な激痛が私を襲った。空からは雪は降らなかったけれど、凍てつくような寒さのため、その痛さは空前絶後のそれとなった。全身がそぎ取られる様な、焼き切れる様な。私は寝床の中で1ミリも動くことができず、ただその痛みに堪えた。体からはすっかり水分が失われ、それなのに、寄生虫が皮膚の上にも巣食った。それは目にも入り、強烈な痛みのあと、私の目を見えなくした。音も間もなく聞こえなくなった。午後四時ごろだろうか。脊髄が引きちぎられるような戦慄を覚えたあと、体の各所から爆発したような痛みが発し、大脳も腐ったのを知った。ああ、痛い。痛い。痛い………..。あてどもない痛みの洪水の中で、私は死んだ。

 

        = END =