Re) Alma Mahler-Werfel

2001/ 5/13 2:05

メッセージ: 148 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

この時代のオーストリアの音楽事情を語る時に避けては通れないのがアルマの存在ですね。 とにかく才気溢れる女性であり、物の言い方も大変はっきりとしていますし、洞察力のある人のようです。 しかもあの時代に多くの著名な音楽家、芸術家との交際があり、特に彼女の日記体の回想(Mein Leben)をめくると、これでもかこれでもかと有名人の名前が出てきて(Max Brod の名前の出てきます)、貴重な記録といえましょう。

 

ただしかしこの Mein Leben に限らず、彼女の意見というのは少々注意して受け取る必要があるでしょうね。 彼女が、その時その時にどう感じたかということの正確な記述であればいいのですが、私がこの本をめくっていくと、どうも彼女は年数が経ったあとになっての自分の意見・感想を、あたかもその当時にそう感じた、というふうに言い換えているのではないか、という懸念が拭いきれないのです。

 

とは言うものの、アルマは当初から嫌いであったものを、後年好きになるなどとは考えにくい性格の女性であり、「好き嫌い」に関する記述は文句のないところでしょうね。

 

1943年にコルンゴルトが彼女を訪ね、ひとしきり音楽の話をしたようですね。 彼は、世紀の変り目の音楽で「強さ(表現力)」をもつ音楽として以下をアルマに挙げています。

 

R.シュトラウス  「エレクトラ」

マーラー     「大地の歌」

ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」

シェーンベルク  「ピエロ・リュネール」

 

そして、アルマはコルンゴルトの意見に賛成しているのです。 ただ彼女は、フフィッツナーの作品も加えたかったようですが.....。

これは bernardsstar さんの 147 に対する返信です

 

RE: Re) Alma Mahler-Werfel

2001/ 5/13 10:02

メッセージ: 149 / 1465

 

投稿者: Bea_Smy (28歳/jp)

 

 またお邪魔します。

 

<ただしかしこのMein Lebenに限らず、彼女の意見というのは少々注意して受け取る必要があるでしょうね。彼女が、その時その時にどう感じたかということの正確な記述であればいいのですが、私がこの本をめくっていくと、どうも彼女は年数が経ったあとになっての自分の意見・感想を、あたかもその当時にそう感じた、というふうに言い換えているのではないか、という懸念が拭いきれないのです。

 

 私は、まだ日記が公刊される前に、アルマ・マーラーについて調べたことがあります。『女性作曲家列伝』の項目は、アルマに心情べったりで恥ずかしいけれども、海外の良識的な研究者は、michaelさんの発言と同意見の指摘をしています。

 例えば、マーラーはブルックナー作品のうち、自らの編曲した《第4番》しか指揮しなかったのに、高年のアルマは具体的な番号まで挙げて、「夫はブルックナーの熱心で献身的な指揮者」と言っていたが、これは自分のブルックナー崇拝を夫のそれと取り違えるようになったのだろう、など。

 

<とは言うものの、アルマは当初から嫌いであったものを、後年好きになるなどとは考えにくい性格の女性であり、「好き嫌い」に関する記述は文句のないところでしょうね。

 

 これもどうなのでしょうね。確か、《ピエロ・リュネール》や《心のしげみ》を初見で歌ってシェーンベルクを驚かせたけれど、アルマ自身はどちらも好きになれなかったのでは?

 コルンゴルトの言葉に同意したのも、亡夫に対する後輩作曲家の畏敬の念が、素直に嬉しかった(ことに加えて、ウィーン風の生活をアメリカでも続けていたという彼女にとって、身内以外でウィーン訛りの来客に逢えることが、楽しみだった)という状況も手伝ったような気がします。

 彼女は権威やファシストに靡きやすいメンタリティだったので、アルマの男性遍歴と音楽遍歴を、一度きちんと突き合わせてみないことには……。

 

 と言うのも、下種な好奇心からではなく、譜面を調べてみたところ、1900年代に彼女が書いた歌曲はツェムリンスキーに、1910年代から20年代に書き綴った歌曲は、プフィッツナーに、様式上・書法上の影響を被っているように見受けられるからなのです(旋律の着想はヴォルフに近いけれど)。

 

 アルマの遺した歌曲のうち、1点だけ(?)出版・録音されていないものがあるそうですね。

これは michael_oskar さんの 148 に対する返信です

 

アルマ・マーラー=ヴェルフェル

2001/ 5/13 12:12

メッセージ: 150 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

昨日、「マーラー 愛と苦悩の回想」(石井 宏 訳。音楽之友社)を借りて、読み始めています。この本の存在自体は、この日本語版の出版(1971年)当時から知っていたわけですが、読むのは初めて。コルンゴルト、ツヴァイク、リヒャルト・シュトラウス、また、ユダヤ人問題などに関する(あるいは、・・によって書かれた)様々な著作を読んだあとで読むと、感慨極まれり、といったところで、1行1行を何度も読み返しながら読みすすめております。

 

55 ページから56ページにかけて、婚約中のマーラー夫妻、シュトラウス夫妻(リヒャルト&パウリーネ)、シャルク、シェーンベルク、プフィッツナーが一堂に会するくだりは、興味尽きない部分ですね。リヒャルトが恐妻家かつ金勘定にうるさい人物であったことは、ショーンバーグの「大作曲家の生涯」にも書かれていますが、アルマもしっかりと記載していました。

以下、少しばかり、引用します。

*************

彼(bernardsstar注:妻パウリーネに叱られて打ちひしがれた後、金勘定をするヒャルト・シュトラウス)のそうした振舞は、まるで行商人のようにみえた。指揮者のフランツ・シャルクが私(bernardsstar注:アルマ)に耳打ちした。― 「あれで悲しいことには、てれかくしの戯れではないんです。至ってまじめなんですよ。」

シュトラウスは、あらゆる機会に利益を秤にかける、恥なき物質主義者と化していた。株の相場を張るギャンブラーであり、≪オペラ≫で利殖をする人間であった。その夜、柱頭の苦行僧のようなシェーンベルクとプフィッツナーの立っている間にはさまって、シュトラウスはいかにも俗物に見えた。

*************

この本、読了しましたら、また感想を投稿したいと考えております。

 

ところで、かくのような、マーラー、シュトラウス、シェーンベルク、・・・・登場し、からまりあう、19世紀末、20世紀初頭のウィーン音楽界って、それ自体がドラマであり、新作オペラの題材になりそうですね。誰か天才的な脚本家・作曲家が現れて、歌劇「19世紀末・20世紀初頭 ウィーン」を創作してくれないかな。もちろん、登場人物である、マーラー、シュトラウス、・・・は、それぞれの動機を背負って舞台に登場することになります。

 

Bea_Smyさま。

>私は、まだ日記が公刊される前に、アルマ・マーラーについて調べたことがあります。

28歳の若さとは、お見受けいたしませんけれども。ともかく、色々と教えてください。

これは michael_oskar さんの 148 に対する返信です

 

追伸:アルマ・マーラー=ヴェルフェル

2001/ 5/13 12:42

メッセージ: 151 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

アルマに関しては、マーラー「交響曲第10番」(クック復元版)に関する以下の2点も興味深い事柄だと思っております。

 

第4楽章からフィナーレにかけての不気味な軍楽太鼓は、「ニューヨークでの消防士の葬儀に着想をえたもの」とアルマは説明しているそうですが、この情報の源となった出所は何か?

 

この曲は、1924年にフランツ・シャルク指揮VPOによって、第1・3楽章のみ初演された。第2次大戦後、クックの復元作業を巡って、アルマとクックとの間で軋轢が生じる。しかし、1960年のクック復元版のラジオ放送(第2・4楽章は抜粋のみ)の録音を聴いて、アルマは一転してクックの仕事を高く評価し、全面的なゴーサインを出すようになる。

 

以上の過程を、CD解説書程度の知識ではなく、文献探索によってさらに究めていきたいと考えております。

これは bernardsstar さんの 150 に対する返信です

 

Alma の種々の「回想」

2001/ 5/15 1:08

メッセージ: 152 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

私は少々混乱してきました。

 

bernardsstarさん、Bea_Smyさん、そして私の3人がそれぞれ別々の本(回想)のことを話題にしているようですね。 私の持ているのは、Mein Leben (Alma Mahler-Werfel) Fischer Taschenbuch Verlag GmbH, Frankfurt am Main, 1960 です。この本は「コルンゴルトとその時代」の巻末参考文献欄によりますと、邦訳題名が「わが愛の遍歴」(筑摩書房)となっています。

 

bernardsstar さんの読まれたのは、邦訳名「グスタフ・マーラー  愛と苦悩の回想」(中央公論社)*Erinnerungen an Gustav Mahler, Ullstein,Berlin 1978 ではないでしょうか?  また、Bea_Smy さんがおっしゃられている公開前の「日記」というのは、1997年に出版された、Tagebuch - Suiten 1898-1902, のことではないでしょうか?

 

私の持っている Mein Leben は、一応日記体裁をとってはいますが、かなりあとから編集を加えたもののようです。1902年からスタートしていますが、その前の部分で Alma 自身がそれまでの自分の生い立ちを語っています。 1997年に出版された日記については、1898年から1902年までのもののようであり、そうすると Mein Leben が1902年から日記体裁をとる理由がわかります。 となると、1997年出版の Tagebuch の続編にあたるのが Mein Leben なんでしょうか?  また、Erinnerungen .....と Mein Leben の関係はどうなるのでしょうか?

 

どうも Alma という女性には、回想することがあり過ぎて、いくつものversionが必要なのかも知れませんね.....。

これは bernardsstar さんの 151 に対する返信です

 

ワルター指揮のマーラーの第9交響曲

2001/ 5/15 1:57

メッセージ: 153 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

ここのところ硬い話が多いので、少々気分を変えて、ワルター指揮のマーラー9番について書きます。

 

ワルターのマーラーの第9番には、あの1938年の Anschluss 直前にウィーンpo.を指揮した演奏、そして後年アメリカでコロンビアso.という録音用オケを指揮したステレオ録音の2種があります。 特に前者は、いろいろな意味で「歴史的録音」というのにふさわしいもので、ファンならば持っておく必要のあるものでしょう。 音自体もあの時代、あの条件のもとで録音されたことを考えると、驚異的にいい音だといって差し支えないでしょう。 後者は、ステレオ録音でもあり、大変条件のよい録音になっています。

 

こうやってこの録音の双方を聴いてみると、私は大方のファンの方々の意見とは、かなり違う印象を持つのです。 まずその第一は、ワルターという指揮者の神経の強靭さなのです。 といいますのも、Anschluss 直前のウィーンにおいても、戦後のアメリカ西海岸においても、ワルターの表現しようというマーラー像は常に軸が定まって一貫しており、外部の政治状況などには左右されない芯の強さを感じるのです。 とはいっても、さすがにウィーンpo. のあの状況下の音には、どことなくかすかに詠嘆の響きがしていますが....。

 

第2に、ワルターのマーラーの恐るべき洗練さ、ということなのです。 この曲のスコアには各パートごとに細かく指示がなされておりますが、ワルターは、そういうもの(特にテンポに関して)を全体に抑制して音にしており、バーンスタインのように、決して音楽に過度にのめりこむようなことはしていません。 さらにテンポといったら、バーンスタイン、バルビローリ、ジュリーニ、カラヤンなどという指揮者の名演と比較すると、ワルターの音楽はよく流れ、そしてテンポもやや速いのです。

 

こうやって演奏される戦後の彼のマーラーの9番には、アプローチこそ戦前のウィーンでの演奏とは違わなくても、長い困難な道程を歩んできたワルターというユダヤ系指揮者が、苦しみも痛みも悲しみも経験し、そしてそれを経てもなお失わない、師マーラーの音楽への確かな信頼感なのでしょう。 文化的に高度に洗練され、そして強靭なマーラー演奏なのです。 ワルターという指揮者の音楽の本質は芯の強さと、そして高度の洗練の両方が見事に調和している点が特徴なのです。

 

これこそ、「ウィーン世紀末、20世紀初頭の音楽」を代表する音楽と、その演奏と言えるでしょうね。 

 

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

   

Re: Alma の種々の「回想」

2001/ 5/15 22:44

メッセージ: 154 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

小生が読んでいるのは、間違いなく、

音楽之友社「マーラー 愛と苦悩の回想」(アルマ著 石井 宏 訳)(1971年7月1日 第1刷)です。

 

この本の「訳者あとがき」には、この本の原題が「Gustav Mahler: Erinnerungen und Briefe」であること。また、本来、著者の生前には出版されるはずのない書籍(悪口を書かれている人に気を使って)であったが、ヒットラー&ナチスに抗議する意味をこめて1940年にオランダで出版されたこと(英語版の出版は1946年)が書かれています。

また、「彼女はこの書のほかにもう一つ、And the Bridge is Loveという本を書いている。こちらのほうはワルター・グロピウス(注:アルマの2番目の夫)との生活の記である」という記載もあります。

 

以上の「訳者あとがき」と、michael_oskarさんの情報とを見比べてみると、不一致が生じますが、このことは、

「1971年時点の日本では、アルマ・マーラーに関する正確な情報を得られなかった」ことを意味しているのでしょうか?

これは michael_oskar さんの 152 に対する返信です

 

レーガー:

2001/ 5/19 7:55

メッセージ: 155 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

シュテファン・ツヴァイクの文学作品をテキストにした音楽作品としては、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「無口な女」(元ネタは、ベン・ジョンスン)ということになります(ツヴァイクの作品が焚書に巻きこまれた時にあって、ヒットラーの肝いりで初演と再演のみは果たされた)。

 

ツヴァイクはもともと詩人としてデビューしておりますが、彼の詩に基づく歌曲は多くありません。

 

その中で、「Ein Dra"ngen ist in meinem Herzen 」(「衝動は我が心の中に」とでも訳すのでしょうか?) には、レーガーと、ヨゼフ・マルクス (1882-1964)が曲をつけています。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

レーガー&ツヴァイク

2001/ 5/19 8:04

メッセージ: 156 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

この詩の内容を掲載しているサイトは、下記となります。

 

http://www.recmusic.org/lieder/z/zweig/reger97.3.html

これは bernardsstar さんの 155 に対する返信です

 

オスカル・ネドバル(Oskar Nedbal)

2001/ 5/20 13:21

メッセージ: 157 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

オスカル(オスカー)・ネドバルに関しましては、既に、@マーラーの交響曲第8番の初演(1910 ミュンヒェン)に出席したこと、Aヤナーチェクの葬儀(1928)に、マックス・ブロートとともに参列したこと、の2点を報告しております。

 

アルマ・マーラー=ヴェルフェルの「マーラー 愛と苦悩の回想」(1971 音楽之友社)に拠れば、オスカル・ネドバル(1874-1930)は、チェコの作曲家・指揮者。1903年6月にバーゼルの寺院で、マーラー自らの指揮で「第2交響曲(復活)」が演奏された際の描写は以下のものでした(引用いたします)。

**********

寺院での何回かのリハーサルや本番に居合わせた人でそれらを忘れる人がいるだろうか。建物、満天の星のような蝋燭の火、高い天井、そして音楽、それらはみな一つに結びついて、忘れることのできないような印象を作り出した。オスカー・ネドバルは外でひざまずき、マーラーの手にキスをしたが、だれも驚いた様子はなかった。(ネドバルは才能ある音楽家であり、すでに良い音楽を幾つも書いていた。)

**********

「OPERA v PRAZE(1987)」には、1箇所だけ、オスカル・ネドバルに関する記載があります。・・・・・ネドバルは、1925年にバリトン歌手、ズデニェク・オタヴァ(1902-1980)をスロヴァキア国立劇場(ブラチスラヴァ)の歌手として雇った。そして、オタヴァはヤーン・レヴォスラフ・ベラ(ブラチスラヴァ(プレスブルク)出身という点で、フランツ・シュミットの先輩にあたる作曲家(*))の歌劇「鍛冶屋ヴィーラント」の初演で、タイトルロールを勤めた。

 

(*)ドイツ表記では、ヨハン・レオポルド・ベラ

http://www.classical.net/music/recs/reviews/m/mpl23644b.html

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

 

ヤーン・レヴォスラフ・ベラ

2001/ 5/20 13:25

メッセージ: 158 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

の経歴をよく読むと、

 

リプトフスキー(聖ミクラーシュ)で生まれ、バンスカー・ビストリツァで音楽を学んだ、と書かれておりました。

これは bernardsstar さんの 157 に対する返信です

 

真珠湾攻撃とシェーンベルク

2001/ 5/21 3:12

メッセージ: 159 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

ドイツの批評家シュトゥッケンシュミットのシェーンベルクに関する著作のなかで、以下のようなエピソードが報告されています。

 

「.....シェーンベルク家の庭師をしていた Yoshida と Mia は、(日米開戦が理由で)収容されてしまった。 ある夜、2人の少年、Ronny と Larry ,そして年が上の Nuria は、一匹の白ウサギを連れてシェーンベルク家を訪問した。 この白ウサギは Mia からの贈り物なのだった。 シェーンベルクはこの日本の白ウサギを家に入れるのをためらった。 そこで彼と子供たちは口論になったが、Nuria が、このウサギはアメリカ生まれであり、日本のウサギではないから家に入れてもいいのだ、といわれ納得したのだった。 そのウサギは、皇帝フランツ・ヨーゼフと呼ばれた.....。」

 

いかにもウィーン出身のシェーンベルクらしい、と思います。

 

 

bernardsstar 様

このところ、

The Glenn Gould - Reader (edited by Tim Page) Vintage Books,New York 1990

という本をめくっています。 この本は、グレン・グールド生前の彼の雑誌寄稿などの文章や、インタヴューを集めた本ですが、グールドがシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、コルンゴルト、F.シュミットなどに対して、非常に個性的かつ示唆に富む文章を多く書いていますので、数回にわたってその内容を紹介させていただきたい、と思っています。特にコルンゴルトのピアノソナタに関してのグールドの論文は、大変におもしろいものですので、グールドトピではなく、本トピにて紹介させていただくことをお許しください。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

Re:真珠湾攻撃とシェーンベルク

2001/ 5/21 23:04

メッセージ: 160 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

ブラジルで大歓迎されたツヴァイクが自殺に走った原因は、日本軍の攻撃によるシンガポール陥落のニュースだったそうですね。

 

ところで、小生は例のアルマ・マーラーの自伝を読んでいるのですが、いろいろなエピソードが登場する中で、作曲中は他のことをすべて忘れてしまうブルックナーが、入浴しながら作曲していて、玄関に来客があったことに気づき、真っ裸で客の面前に出てしまう話もありました。この話、以前、どこかで読んだことがあります。アルマ・マーラーの自伝の流れの中では枝葉末節の話にすぎないと思われるこの話が、一般には結構反響を呼んでいるということでしょうか?

 

「The Glenn Gould」 に関する情報、どうぞよろしくお願いいたします。

これは michael_oskar さんの 159 に対する返信です

 

アルマ回想のブルックナーのエピソード

2001/ 5/23 1:14

メッセージ: 161 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

アルマの回想において bernardsstar さんの触れていらっしゃる、裸のブルックナーのエピソードについて補足させて下さい。

 

以下の本に、このエピソードに関して注目すべきことが書いてあります。

Bruckner Remembered (by Stephen Johnson)

faber & faber, London 1998

(p.61 を参照しました)

 

このエピソードにおける玄関の来客とは、ブルックナーの弟子でありマーラーにとっては友人である Hans Rott(1858-1884) の母親である、とアルマは記述しているはずです。 このエピソードは、ブルックナーの死後、何度が少しずつ違う形で流布したものですが(だから有名になったのだと思います)、この来客が具体的に誰であったかの名前を挙げているのは、アルマの記述しかないようです。

 

ところが、この来客が本当に Rott の母親であるかどうかについては、上記の本の編者の Stephen Johnson は、確認はまったく不可能であると書いています。 その理由として Johnson 氏が書いているところによりますと、Hans Rott の母親は 1860 年にすでに死亡しており、ブルックナーがウィーンに居を定めたのは、それから8年もたった後のことであるからだ、と書いています。 そしてさらに続けて、この母親が亡くなった時には、Hans はわずか2歳であった、と書いています。

 

ですので、後年 Hans Rott がブルックナーの弟子になったのは事実としても、それ以前に Hans そして彼の母親がブルックナーとつきあいがあったはずがなく、従ってアルマの挙げている「来客は Hans Rott の母親だ」という記載の信憑性はほとんどない、ということのようです。

 

ただ、いずれにしても、いかにもブルックナーらしいエピソードであり、来客が実際誰であったかは別として、このエピソードは多分事実だと私は思います。

 

*(追伸)bernardsstar 様

グレン・グールドのコルンゴルトのピアノソナタ論、かなり本格的なものですので、できれば全訳が望ましいとは思うのですが、Copyright の関係もあり、簡略化した要旨での御紹介とさせていただきたいと存じます。 また、グールドは本トピ関係の作曲家に対して相当な分量を音楽雑誌へ寄稿しており、それらがまとめられているこの本を簡単に参照したところでは、非常に得るものも多く感じますので、それらも可能な限り、その内容を紹介させていただきたく存じます。

これは bernardsstar さんの 160 に対する返信です

 

アルマが書いた消防夫の葬儀

2001/ 5/24 22:00

メッセージ: 162 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

アルマが書いた「マーラー 愛と苦悩の回想」(石井 宏 訳。音楽之友社)の233ページに、マーラーが交響曲第10番・終楽章の太鼓のところを着想するに至った日のことが書かれておりました。引用いたします。

******************

若い美術学生のマリー・ウヒャティウスが、ある日私をホテル・マジェスティックに訪ねてきた。騒がしい物音がするので窓から首を出してみると、セントラル・パークぞいの大通りを、長い行列が来るのが見えた。それはある消防夫の葬式の行列で、彼の英雄的な死は、新聞で読んで私たちも知っていた。葬儀の近親関係者は行列が止まった時私たちの窓のほとんど真下にきた。そして式の司会者が前に進み出て短い挨拶をした。十一階の私たちのところでは、何を言っているのか推測するほかはなかった。ややしばしあって、ふたたび、消音を施したドラムが一つ鳴り、やがてまたしーんと静まりかえった。そして行列は動き出し、すべて終わった。

これを見ているうちに、私たちは涙がこみ上げてきた。そっとマーラーのほうを見ると、彼も窓から乗り出していて、その顔には涙が流れていた。消音を施したドラムの短い響きの印象は、深くマーラーの心に焼きついて、のちに≪第十交響曲≫に使われることになる。

これは bernardsstar さんの 151 に対する返信です

 

マーラー指揮のスメタナの作品

2001/ 5/25 3:07

メッセージ: 163 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

チェコ生まれのイギリスの指揮者、Vilem Tausky の回想に、おもしろいことが載っていました。 Tausky と言う人は1910年、モラヴィアの小都市 Prerov に生まれ、ブルノのヤナーチェク音楽院に学んだ人で、マルティヌーとパリで深く交際のあった人であり、その時の想い出についてもいろいろと語っていますが、とりあえず本日はマーラーについての記載のみ紹介いたします。

 

「.....マーラーはスークを崇拝していました。 どういうわけか、スメタナの歌劇 Dalibor を再発掘したのはマーラーなのです。 私は、パルジファルの初演でタイトルロールを演じたヘルマン・ヴィンケルマン (Hermann Winkelmann) Dalibor よりのアリアを歌ったレコードを持っていますよ、もちろんドイツ語でですが。.....マーラーは終結の部分だけは省略しましたが、あとはスメタナの書いた通りの形で、ウィーンで上演しました。 つまり、Dalibor の死のところを省略しての上演ですが。 当時はマーラーがチェコ出身だということを実際に知っている人はほとんどいなかったのです。 モラヴィアの生まれなのですよ、彼は。 ですから、この音楽はマーラーの血を感じさせるものだったのですね....」

Vilem Tausky tells his Story

(Stainer and Bell, London 1979)

 

マーラーには、やはりその出自の土地の関係で、特別に好きだった曲があったのですね。

 

bernardsstar 様

グールドのコルンゴルトピアノソナタ論、もう少々お待ち下さい。 なかなか要約にそのものがやりにくい内容です。 なんとか週末には、と思っています。あるいは、本トピ関連の別の作曲家からスタートするかも知れません。

これは bernardsstar さんの 162 に対する返信です

 

マーラーと、チェコ、モラヴィア

2001/ 5/26 22:25

メッセージ: 164 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

michael_oskarさま

 

マーラーの故郷はモラヴィアですから、彼の音楽にはスラブの要素が確実に浸透しています。

 

例えば、交響曲第6番「悲劇的」の、アンダンテ・モデラートの楽章(第3楽章もしくは第2楽章)には、チェコ民謡から素材を取ったとおもわれるふしがあります。まさに、彼の音楽は、ドイツ・オーストリーと、スラブ、ユダヤの美しい融合によって成り立っています。

 

スークは、まだ、交響詩「夏の物語(真夏の御伽噺)」と、幻想的スケルツォ、管楽器のための8重奏曲しか聴いたことがなく、残念ながら、「アスラエル交響曲」は未聴です。「夏の物語」の第1楽章は、まさに、「ウィーン19世紀末、20世紀初頭の音楽」というべき趣きがあります。

 

ところで、michael_oskarさんは、ご自身がトピ主のトピで、カレル・アンチェルについて言及されています。

小生、最近、ある本屋の在庫処分で、徳間書店の「モーツァルトII・四大オペラ/序曲とアリア」(1990年の発売時、1950円。CD 1枚付き)が、自由価格本となって700円で売られているのを見て購入しました。CDに収録された演奏(スウィトナー指揮、ベルリン・シュターツ・カペレ)も悪くはなかったのですが、解説書にプラハ、そしてカレル・アンチェルのことが書かれていて(筆者:三谷礼二氏)、非常に興味深く思われました。以下に引用します。

*****************

 

ところで、1968年の例のドプチェクの自由化騒ぎのとき、自由化側に立った指揮者のカレル・アンチェルは、ソ連からにらまれ、結局カナダに亡命せざるを得なくなった。アンチェルは、若き日に、妻子をアウシュヴィッツで殺され、全盛時代には、手塩にかけたチェコ・フィルとも別れなくてはならなくなってしまったのである。カラヤンと違って、経済的な才覚などまるでないアンチェルは、20世紀有数の大指揮者であったのに、恵まれぬ受難の数々を受けつつ、カナダで客死してしまった。

 

実は、この国宝級の人物が、"プラハの春"に特に許されて、一回だけチェコ・フィルを振るために帰国した演奏会に、私はめぐりあえたのである。本当に、申し訳ないことだが、私個人にとっては、またとない幸せの日となった。

 

遅く着いた私は、超満員の客席に当然座れず、横で一時間もかかるスークの「アスラエル・シンフォニー」を、粛然と立ったまま聴いたが、これこそ私の音楽的生涯に、ほとんど決定的な影響を及ぼした、恐怖の緊迫演奏であった。オーケストラは、全員緊張のあまり顔面蒼白であり、客席もまた、凍りついた真冬の厳しさ ---すすり泣きの声も漏れ、私は大きな感動のうちに「音楽」のもつはかりしれぬ大きさ、深さを感じたのであった。

これは michael_oskar さんの 163 に対する返信です

 

マーラー作品へのスラブ的要素

2001/ 5/27 3:24

メッセージ: 165 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

マーラーとスラブ的東欧世界との触れ合いについて、ドイツの社会学者のテオドール・アドルノは以下のように書いています。

 

「.....交響曲と名付けられている<大地の歌>においてはじめて、主観的な抒情詩という理念はどうにかマーラーのものとなる。その点で彼はシューベルトからシェーンベルク、ウェーベルンに至るドイツ・リートの歴史からは外れている。彼はむしろ、こうした客観性が時折認められるムソルグスキーや、あるいはヤナーチェクの線上につながるのである。(中略) まさにこの契機においてマーラーは、市民社会以前の、いまだ完全には個人化されていないものとしてのスラヴ的東欧世界と本質的に触れ合っている。....」

 

マーラー 音楽観相学 (テオドール・アドルノ著)龍村あや子 訳

法政大学出版局 より

 

なかなか難しい文章で、瞬間的には意味がとりにくいのですが。

 

 

bernardsstar 様

「The Glenn Gould」 の本、みすず書房より邦訳されているようです。「グールド著作集」(上下)とのこと。 としますと、私の予定していた紹介もあまり意味のないことになりかねず、ちょっと思案の最中です。

 

アンチェルの件、ありがとうございました。彼が「亡命」後、一度チェコフィルを指揮した、ということは初めて知りました。アスラエル交響曲はターリヒとチェコ・フィルの Supraphone 盤を持っていますが、音が冴えないですが、叙情的な感じはよくとらえた演奏です。あと、Kvapil の弾いたピアノ曲のCDを持っています。室内楽は聴いたことがありません。

これは bernardsstar さんの 164 に対する返信です

 

グールドの語る今世紀の作曲家 (1)

2001/ 5/28 1:32

メッセージ: 166 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

カナダの鬼才ピアニスト、グレン・グールドは KORNGOLD AND THE CRISIS OF THE PIANO SONATA という文章のなかでコルンゴルトのピアノソナタに関して書いています。 コルンゴルトのピアノ作品に関して、今世紀初頭の音楽の流れと関連させて論じており、ことコルンゴルトに関してだけではなく、他の作曲家のピアノ作品に関しても、演奏家という自己の立場をふまえて論じておりますので、その論旨に絞って紹介させていただきます。(すでにこの文章は邦訳がなされている関係上、そのCopyright は尊重させていただき、私は原文より趣旨を摘出する形で、若干表現を変更して紹介いたします)

 

まずグールドの見解では、コルンゴルトのピアノソナタはいくつかの点でウィルヘルム(Wilhelmian)様式の産物ではないか、と最初に問題提起しています。音楽におけるウィルヘルム様式とはどんなものかについてグールドは、ワーグナー以降(post-Wagnerian)にみられる音響の巨大さ、と簡単に性格付けしていますが、もっと具体的に以下の性格を列記しています。

 

・構造的な総合性

・過剰表現へのおちいりやすさ

・名技主義への嗜好

・各楽器の固有的性格の軽視

 

グールドはさらに、この時代でウィルヘルム様式の影響のない音楽として、ドビュッシー、ラヴェルの室内楽、スクリャービンのピアノソナタなどを挙げています。ドイツ・オーストリア音楽については、オーケストラ作品が主流となり、ピアノ音楽に対しては作曲家は必ずしも興味が大きかったとは言えない、と述べています。 ただし、一般に流布している意見、すなわち世紀の変り目には作品そのものの再現よりも演奏における名技性に力点があったという意見には、グールド自身賛成できない、という趣旨を述べています。

 

さらに以下4人の作曲家について、ワーグナー以降におけるピアノ音楽展開の観点から評価を下しています。

 

(1)マーラー(点描主義のパトロンであり、改革者)

グールドの意見によれば、ウィルヘルム様式を乗り越えようとする改革者たらんとし、それを実践した作曲家。ただし成果はオーケストラ作品に限定された。ピアノ固有の可能性については、結果として無視した形となった。

 

(2)ウェーベルン(時として素晴らしいミニアチュリスト、場合によっては旋律家)

グールドによれば、マーラーの精神的後継者。ウェーベルンの変奏曲Op.27においては、彼の関心はモンドリアン的な幾何学形態に絞られている。したがって音色の変化には関心がない。ピアノ5重奏はマーラーの4重奏よりはピアノの可能性を示唆している。

 

(3)シェーンベルク(保守的、もしくは過激な改革派)

グールドによれば、シェーンベルクのピアノ作品は、新音楽への出発点的性格を持ち、そのあと彼はオーケストラ作品によって自己の信じる「新音楽」の道を進んだ。

Op.11はドラマ「期待」への露払いであり、Op.19はウェーベルンを予感させる。 Op.25は12音技法を実践した意義がある。

しかし、ことソナタ形式のかかえる問題ということについては、この3つの作品は精神的にも技法的にも直接の関係はない。

 

(4)R.シュトラウス(ロココ趣味への嗜好)

グールドによれば、シュトラウスのブルレスケはピアノの面でも、オーケストラの面でも、最上の作品とはいえないとのこと。

 

さて以上を考えると、この時代のドイツ(オーストリア)音楽においてピアノ作品の意味するところといえば、オーケストラ作品の作曲のための前哨戦であるか、もしくはオーケストラ作品を簡素化したものである、とグールドは展開します。

 

さて、コルンゴルトのピアノ作品についてなのですが.........

 

(以下続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ウィルヘルム様式

2001/ 5/28 22:29

メッセージ: 167 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

michael_oskarさま

 

(1)リストのピアノソナタは、ウィルヘルム様式というべきなんでしょうか?

 

(2)確かに、ピアノ曲よりも交響作品に力を入れている作曲家は多いといえます。ショパンやラフマニノフは、その中の例外でしょう。ショパンのオーケストレーション力はレベルの低いものでした。一方、ラフマニノフのオーケストレーション力は、「交響曲2番」が示すごとく秀でています。「交響曲2番」は傑作です。それでも、小生は、ラフマニノフの作品としては、「24の前奏曲」「音の絵」「ピアノソナタ第2番」のほうがより完成度が高いと思うし、愛好しています。ただ、ラフマニノフは、ピアノ作品の完成度・演奏効果を高めようとするあまり、その作品の演奏には超絶技巧を要求するようになってしまいました。「24の前奏曲」の中には、一般的には指が届かない曲もあり、4手用にも編曲されています。

それでは、スクリャービンは?という問いに対しては、あまりスクリャービンを聴きこんでいないだけに、コメントできません。

 

(3)グールド

曲の好き嫌いの激しいピアニストだったのでは?という印象をもっています。(水とビスケットしか口にしなかったとか?)

彼の演奏にはあまり接しませんでしたが、バッハ作品の演奏には興味を覚えました。「ウィルヘルム様式」を否定した後、いったいどんな作品を創作したらいいのか?という問いに対しては、彼が生きていたら、「バッハに帰れ?」と言うことになるのでしょうか?

コルンゴルトのピアノソナタの件、どうぞよろしくお願いいたします。

これは michael_oskar さんの 166 に対する返信です

 

リスト、スクリャービン、etc.(物干蛍)

2001/ 5/29 2:15

メッセージ: 168 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

bernardsstar 様

 

ちょっと一服させて下さい(物干し場でホタルの一服)。

 

なにしろグールドの文章は非常に凝っており、日本語に要約しようとすると極めてやっかいです。 彼独特の奇抜な比喩やら特殊な言い回しやらが邪魔して、迷子になりかねませんので。

 

休憩ついでに一言。 

 

(1)まずリストですが、実はグールドはこの文章でリストのピアノ曲には触れているのです。 彼はリストのピアノ曲を構成する重要要素に対して、

the hand-is-quicker-than-the-eye tricks

という表現をしています(私の能力では訳出不能!)。 前後のコンテクストから判断しますと、turn-of-the-century pianism の代表例としてあげられている関係上、リストのピアノ曲はウィルヘルム様式(pianistic product of the Wilhelmian era)であるとグールドはとらえているようです。

 

(2)スクリャービンについては、実はこの本の別の文章(Piano Sonata by Scriabin and Prokofiev)でグールドは論じております。ここでもスクリャービンの音楽の性格を、

a fondness for languorous cantilenas and noodling alto-tenor figurations

とか、

almost Pavlovian insight into psychology of denial in this music

などと、とても日本語になりにくい表現をしております。 機会があれば、本トピとの関連で紹介いたしたいと考えています。

 

(3)ウィルヘルム様式を否定して、「では後はなんなのか?」と言う点ですが、グールドは具体的に「こうあるべきだ」とは述べておりません(私が他の文章を拾い読みした程度の限りでは)。 しかし、コルンゴルトピアノソナタ論のなかでのコンテクストでいきますと、ある箇所でバッハの「フーガの技法」に触れており(これは私の要約からは割愛されているのですが)、この「フーガの技法」が、ウィルヘルム様式と正反対なものである、と認識してよいのではないでしょうか?

 

とにかくこのグールドの本、ベートーヴェンに関しての文章はレトリックが少なく簡単なのですが、新ウィーン楽派あたりは日本語摘出が非常に「しんどい」です。

 

グールドのコルンゴルトソナタ論、少々お待ち下さい。 準備の最終段階に入っています。

これは bernardsstar さんの 167 に対する返信です

 

グールドの語る今世紀の作曲家 (2)

2001/ 5/30 1:24

メッセージ: 169 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

さて、いよいよグレン・グールドがコルンゴルトのピアノソナタをどうとらえているか、とういことに入ります。 彼が語っているのはピアノソナタ第2番(1910年作曲)です。

 

グールドは、コルンゴルトの驚くべき早熟さがこのピアノソナタに関しても、いかんなく発揮されていると述べ、その理由として、ピアノの奏法の技術面の熟知、及び鍵盤のタッチの変化が及ぼす的確な演奏効果を会得しているからだ、と述べています。 ただ一方においては、当時慣習的であったとさえいえる傾向、すなわちテクストを過剰に装飾したり、あるいはあえて演奏不可能なまでに難しくしたりするような作曲のやりかたについては、そういうものを踏襲している面が多分にある、とグールドは述べています。 この作品における因習的ともいえる傾向について、グールドはさらに追加して、音をワーグナー的に織物のように編み合わせて低音を充実させたり、また鳴き声のような中弱音で木管楽器的な響きを出し、結果としてシンコペーションのような効果を出している点なども指摘しています。具体的には、このソナタの第3楽章を挙げているのです。

 

このグールドのコルンゴルトソナタ論では、この本の他の文章と違って残念なことに楽譜がまったく引用されておらず、彼は文章のみでコルンゴルトのソナタにおける因習を踏襲した箇所を述べていきます。 しかし、彼の文章だけでは具体的イメージがよくつかめず、私としても大変残念に思いますが、この具体例は省略させていただくこととします。

 

次にグールドは、コルンゴルトのソナタについて、その作曲技法上の難点を挙げていくのです。まず第1点としてグールドは、音楽の素材の配置に難点あり、と指摘するのです。 彼はこの点について、複数の素材が同時に展開し、背後に引っ込むことがないという点を指摘しています。グールドは、この点がウィルヘルム様式とも呼ぶべき一連の作品に共通する要素である、と関連付けているようです。 彼の言うところによれば、ウィルヘルム様式の一連の作曲家たちは、聴き手が自分達の想像力を働かせることによって、楽譜情報に何かを付け加えるような聴き方をすることを強いるのではなく、単なる指の動きの面が先行して聴き手を惹きつけようとしたのだ、と述べます。 その結果として、この一連の作曲家たちは、ピアノの音楽が固有に持っていたはずの構造面での創造性を犠牲にしてしまった、と論じるのです。

 

グールドは最後に述べるのです。コルンゴルトがピアノソナタを作曲したのは幼少の時である。しかし、このソナタは、おそらくもし作曲されたであればもっとよい作品になったであろう交響的エッセーとも言うべきオーケストラ作品の、試作的青写真にしか過ぎなかったのだと。

 

要するにグールドは、コルンゴルトのピアノソナタは、音楽的にピアノ音楽そのものであるという意義よりも、やっぱりオーケストラ作品作曲のための準備的スケッチとしての意義、あるいはすでに作曲されているオーケストラ作品をピアノ用に縮小編曲した作品ででもあるかのように聴く意義、この両方を指摘したいようです。 やはりピアノソナタであるべき音楽的素材ではなく、オーケストラ作品として作曲したほうが、音楽的プロポーションが適切だった、ということのようです。

これは michael_oskar さんの 166 に対する返信です

 

グールドの論じたコルンゴルトについて

2001/ 5/30 1:44

メッセージ: 170 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

私が思いますに、このグールドのコルンゴルトピアノソナタ論は、彼が書いた一連の作曲家論、作品論のなかでは、残念ながらあまり成功していない文章だと思います。

 

確かに、「ウィルヘルム様式」(正確にはウィルヘルム2世様式)などという、音楽の世界ではあまり用いないカテゴリーを用いて読者を驚かせたり、あるいは演奏技術と音楽イメージのどちらに聴衆の注意を喚起させるか、という問題設定にはグールドならではの議論の切り口の新鮮さを感じないわけではありませんが、やはりピアノソナタのみでコルンゴルトをまな板の上に乗せられるわけはなく、やや無理だったようです。

 

しかし、今世紀の作曲家のピアノ作品を考える上での、ある1つの frame of reference を提供してくれたことは間違いなく、その点ではなかなか面白い文章だ、と思っています。

 

いくつかの疑問点や、賛成し難い点もありますが、とりあえずこんなところです。

これは michael_oskar さんの 169 に対する返信です

 

ウィルヘルム様式

2001/ 5/30 23:12

メッセージ: 171 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

michael_oskarさま

 

貴重な情報、ありがとうございました。

そもそも、音楽を、バロック、古典派、ロマン派(前期・後期)、印象派、国民学派、表現主義、前衛音楽 等々に区分けしたのは、きっと誰かある著名な音楽評論家なのでしょうが、そんな通常の区分けを無視して、自分なりの物差しで聴いていいはず。グールドの意見も十分に尊重すべき、と考えます。

 

さて、「wilhelm style」というキーワードでネットサーチしたら、ポーランドのラスキにある建築物のサイトがでてきたので、ご紹介します。建築の世界では、「wilhelm style」は、「ネオルネサンス様式」と関連づけられるようです。ちなみに、プラハの国民劇場も、「ネオルネサンス様式」の建築物であり、僕の好きな建物です。

 

http://www.lasypanstwowe.poznan.pl/e_zab.html

これは michael_oskar さんの 170 に対する返信です

 

ウォルフ、シャルク兄弟

2001/ 5/31 22:50

メッセージ: 172 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

フーゴー・ウォルフのサイトを見つけました。

http://www.austria-tourism.at/personen/wolf/

 

その中に、シャルク兄弟に関する記載もありました。

 

http://www.austria-tourism.at/personen/wolf/wolf5_e.html

 

フランツ・シャルクは、マーラーの第10交響曲(2つの楽章のみ)のほか、リヒャルト・シュトラウスの「影のない女」の初演も指揮しています。

ただ、アルマの自伝によれば、指揮のテンポに安定性がなく、リハーサルの際には指揮するシャルクの真向かいにマーラーが立って指揮棒を振り、シャルクに正しいテンポを教えたとのこと。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

シェーンベルクと画家ゲルステル (1)

2001/ 6/ 2 3:35

メッセージ: 173 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

シェーンベルクを研究する上で忘れてはならないのが、画家リヒアルト・ゲルステル(Richard Gerstl)との間で起こった、ある事件と、それがシェーンベルクの音楽に与えた影響でしょう。

 

画家ゲルステル(1883-1908)はハンガリーの資産家である父と、チェコ生まれの母との間に生まれ、ウィーン美術アカデミーで学びました。しかしゲルステルは師であった Griepenkerl や Holosy の影響をほとんど受けなかったと言われ、また他の画家との交際もほとんどない変った学生だったようです。

 

シェーンベルク夫妻の住む同じ建物(Liechtensteinstrasse 68-70)にゲルステルはアトリエを持ち、やがてシェーンベルク夫妻との交流が深まります。 ゲルステルがシェーンベルクを描いた絵を御参照下さい。

http://igor.rz-berlin.mpg.de/cmp/schonberg_13.jpg

ところが、とうとう悲劇的事件が起こります。 シェーンベルクの妻マティルデは、ゲルステルと不倫の関係となってしまうのです。 彼女はシェーンベルクと2人の子供を捨てて家出をしてしまいますが、ウェーベルンの仲介でとりあえず家にもどることとなるのです。 しかし一連の結果として、画家ゲルステルは 1908年に自分の作品を燃やして自殺してしまうのです。

 

さて、この事件がこの後のシェーンベルクの作品にどのような影響を与えたかについて Leon Botstein 氏の論文の内容を紹介させていただくこととしたい、と思います。

 

(追記)ゲルステルの描いた自画像は以下でみることができます。

http://www.belvedere.at/english/jahr/jahr/gerstl.html

また、非常に作品数の少ないゲルステルの作品(自殺時に破壊された影響でしょう)は、以下で御覧になれます。

http://www.museumonline.at/1997/schulen/weiz/werke.htm

 

 

(次投稿に続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

シェーンベルクと画家ゲルステル (2)

2001/ 6/ 3 1:03

メッセージ: 175 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

(前投稿よりの続き)

 

さて.....現在ならばワイドショーにでも取り上げられそうなシェーンベルク夫妻と画家ゲルステルの三角関係と、そしてゲルステルの自殺という悲劇は、この後のシェーンベルクの創作活動に独特の影をおとすこととなります。この件に関して音楽学者の Leon Botstein 氏の論文の内容を紹介させていただきます。 ただし、その前に、作曲家シェーンベルクの画家としての側面を知っておく必要があると思いますので、少々お付き合い下さい。

 

私(michael_oskar)は、ここで思い切って「ひとひねり」入れて、1908年の一連の事件と、ゲルステルの自殺という結末がシェーンベルクに与えた影響として、まずシェーンベルクの画家としての作品に与えた影響から入りたいと思います。音楽からではなくて.......。

 

まず、この事件後、比較的早い時期に描かれた「夜の風景」(1910年)をご覧下さい。以下です。

http://www.usc.edu/isd/archives/schoenberg/painting/exteriorhtms/ritter194.htm

この絵では、なんともいえぬシェーンベルクの心の闇の世界と、彼の不安感を感じるのは私だけでしょうか? なにか、ノルウェーの画家ムンクの作品と似た印象を感じるといったら大げさなのでしょうか?

 

また、彼はこの事件の直後から何枚かの自画像に取り組んでいたようです。現存する彼の自画像のうち、この時期にあたるものが3枚残されているようで、次に以下の3枚をご覧下さい。

http://www.usc.edu/isd/archives/schoenberg/painting/selfportraithtms/ritter1.htm

 

http://www.usc.edu/isd/archives/schoenberg/painting/selfportraithtms/ritter2.htm

 

http://www.usc.edu/isd/archives/schoenberg/painting/selfportraithtms/ritter3.htm

 

シェーンベルクがこうして何枚の油絵の自画像をこの時期に集中して描いたのは、こうすることによって、自分の存在を再確認しようとしていたことの表れではないでしょうか? もしくは、傷ついた自己のプライドを取り戻したいという潜在意識があったのかもしれないと私は思うのですが。やはりシェーンベルクは私生活の面で、かなり自信を喪失していたのではないか、そして自分なりにそれを修復しようとして自画像を多く描いたのではないか、というのが私の考えです。音楽関係の本(特にシェーンベルクの伝記)などにはいろいろな情報が書いてあるとは思いますし、それも重要な情報だとは思うのですが、私はシェーンベルクの絵画作品の中に、この時期の彼の内面を窺い知るものがあると思い、音楽トピにもかかわらず、今回は絵画のことのみを話題にあげさせてもらいました (bernardsstar さま、お許しを!)。

 

さて、こうしてこの時期の「画家シェーンベルク」の作品を参照していただいたあとに、いよいよ音楽に入りたいと思います。

 

 

(追記)シェーンベルクの画家としての作品にもっと興味のある方は、以下のサイトでかなりの作品を観ることができます。

 

http://www.usc.edu/isd/archives/schoenberg/painting/painting.htm

 

また、シェーンベルクに関しては、とりあえずウィーンのシェーンベルクセンターのサイトがあります。

http://www.schoenberg.at/

 

 

(次投稿に続く)

これは michael_oskar さんの 173 に対する返信です

 

シェーンベルクと画家ゲルステル (完)

2001/ 6/ 4 1:07

メッセージ: 176 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

(前投稿よりに続き)

シェーンベルク夫人と画家ゲルステルとの不倫関係は、ゲルステルの自殺という結果をもたらしました(以下「ゲルステル事件」と略させて下さい)。このことが音楽家シェーンベルクの創作にあたえた影響について、音楽学者 Leon Bitstein 氏は、以下のように述べています。内容を要約します。

 

・「一連の不幸な出来事によって、シェーンベルクの内面には、不安と錯綜した感情の大きなしこりが残った。 彼は今までにもまして、音楽の心理的側面をことさら強調した作曲のしかたをした。 作品例としては、<グレの歌>の第2部、モノドラマ<期待>があげられる.......」

 

・「シェーンベルクは、この事件直後、特に絵画において、自分の内面の感情を表に出すような表現をした。 しかし次第に、音楽であれ絵画であれ、既成の枠組みのなかで自己を表現しようというやりかたでは、自分自身の内面の孤独を和らげてくれるものとはなりえない、という強い気持ちを抱くようになった......」

 

・「そして作曲家シェーンベルクは新音楽への道をひた走るのである。自分の居場所がないという一種の喪失感を解消・除去するだけではなく、彼の支持者からは、ヨーロッパにおける新しい芸術の創造者という役割を期待されるのである。....」

 

・「シェーンベルクの1933年以降のシオニズムへの強い共感も、彼の12音技法への執着と密接な関係がある。 19世紀から決別し、新しい地平線を開拓するという共通点があったのだ。 というのも、19世紀から継承された音楽の伝統技法と自分の不幸な体験とが同一視され、それを同時に克服しようとしたのだ。 そのやり方は、音楽にあっては12音技法、政治的心情としてはシオニズムである.....」

 

Schoenberg and the Audience : Modernism,Music,and Politics in the Twentieth Century (by Leon Botstein)

より

 

私(michael_oskar)は、音楽の専門教育を受けたわけではありません。ですので、シェーンベルク関係の本の多くにみられるように、その読者の対象が音楽プロパーの人のみであるかのような本は、かなり苦手です。 しかし、上記の文章がおさめられている下記の本

Schoenberg and His World

(edited by Walter Frisch)

Princeton University Press

Princeton, 1999

は、音楽プロパー向きの本ではないのもかかわらず、時代背景、社会背景などに非常につっこんだ内容の論文、エッセイが多く含まれ、参考になります。

 

私個人としては、「ゲルステル事件」が、シェーンベルクのその後の創作にどのような刻印を残したのか、という切り口から、シェーンベルクの音楽を、時間があれば今後研究していきたいと思っています。 なにか切り口がないと、正直いってシェーンベルクの音楽を聴くのはつらい気がしています。 

 

 

bernardsstar さま

今回は、シェーンベルクを「絵画」を入り口にしたのも、周辺部分からのとっかかりを見つけようとした私の悪あがきですので、お許しください。それから以前お約束したウェーベルンの件、なかなか前に進みません。ウェーベルンについても、「親ナチ心情」なるものを切り口にできれば、という魂胆だったのですが、なかなかうまくいきませんので、少々御猶予を。 

これは michael_oskar さんの 175 に対する返信です

 

「ゲルステル事件」の現場建物

2001/ 6/ 4 2:50

メッセージ: 177 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

ウィーンのシェーンベルクセンターのサイトをのぞいていましたら、「ゲルステル事件」の現場となった住居の建物の写真がありましたので紹介いたします。以下を御参照下さい。この事件についても触れられています。

 

http://www.schoenberg.at/1_as/bio/wohn4_e.htm

これは michael_oskar さんの 176 に対する返信です

 

シェーンベルク、ゲルステル

2001/ 6/ 4 22:10

メッセージ: 178 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

ゲルステルは第1級の画家。

一方、シェーンベルクの音楽作品は間違いなく第1級だが、絵画作品に関しては、残念ながら、とても第1級とは言えませんね。

・・・という印象を持ちました。

 

このトピでは、かつて、アーノルト・ベックリンに関して論議したことがあります。ご紹介いただいたサイトの別のページには、アーノルト・ベックリンのことも、ほんのわずかながら触れられていました。

 

http://www.belvedere.at/deutsch/jahr/jahr_text.html

 

シェーンベルク、コルンゴルト、ベルク、フランツ・シュミットはオペラも作曲しているわけですから、その舞台美術に関しても、今後、議論させていただきたいですね。ちなみに、「ヴォツェック」のプラハ初演(1926年)では、ヴラチスラフ・ホフマンが舞台をデザインしました。

これは michael_oskar さんの 177 に対する返信です

 

ゲルステル再評価、ベルヴェデーレ上宮 etc

2001/ 6/ 5 2:44

メッセージ: 179 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

ゲルステル(ゲルストルという日本語表示もあるようですが)の再評価はヨーロッパでは着実に進んでいるようです。 おっしゃられる通り、シェーンベルクとゲルステルとでは画家としてはちょっと比較になりませんね!  シェーンベルクはまあ日曜素人画家を少しよくしたもの、といったら怒る人がいるかも知れませんが。

 

この時代のオーストリア美術に関する本などを見ますと、「ココシュカのベルリン転居以降における初期表現主義絵画にとって、ゲルステルの自殺はとりかえしのつかない大損失だった。」などど書いてあります。

 

よく言いますよね、「ウェーベルンを射殺してしまったアメリカ兵の名前は、ウェーベルンを殺した人間という名前のみで後世に記憶されるだろう。」とかなんとか。 これを美術関係者にいわせれば、「シェーンベルクという名前は、ゲルステルを死に追いやった人間という名前のみで後世に記憶されるだろう。」などと美術関係者は言い出すかもしれません!(笑)

 

冗談はさておき、そのゲルステルの「笑う自画像」などは、なんとあのウィーンのベルヴェデーレ上宮の Oesterreichische Galerie に、クリムト、シーレ、ココシュカなどと一緒に展示されているのですから大変なものですね。 もっとも、あのベルヴェデーレ上宮 (Oberes Belvedere)の19・20世紀絵画館にたくさんいる日本人観光客は、みんなクリムトの絵ばかりに集中しているようですが.....。 まあ、ウィーンのベルヴェデーレ上宮に行ってきて、「今回一番おもしろかったのはゲルステルの自画像でしたよ。」などと帰国後吹聴しても、「何だ、この人?」というくらいの反応かもしれません。

 

ウィーンへ行って時間がなくても、以下の最低限二ヶ所は「定番」です。日本人がたいへん多いですけれども。とにかくこれらが最低線です。

1.美術史博物館(Kunsthistorisches Museum)

http://www.khm.at/

2.オーストリア・ギャラリー(Oesterreichische Galerie Belvedere)

http://www.belvedere.at/

 

 

.....ということで、観光宣伝は終わりです。 

 

舞台美術の話題、おもしろそうですね。 ただ私はあんまり情報を持っていないのですが。

これは bernardsstar さんの 178 に対する返信です

 

<グレの歌>

2001/ 6/ 6 23:10

メッセージ: 180 / 1465

 

投稿者: bernardsstar

 

"Gurrelieder"のCDを購入しました。演奏は、Janos Ferencsik指揮:デンマーク放送響、声楽はAlexander Young、Janet Baker他。余白は、「弦楽オーケストラのための組曲」(Norman Del Mar指揮:ロイヤル・フィル)。2枚組で1690円+消費税とは安い!

 

"Gurrelieder" の第1部は、ワーグナー(特に「神々の黄昏」)の影響が色濃く、曲の後半になると、マーラーの影響も感じられます。1899年にピアノ伴奏の歌曲として作曲され、大規模なオーケストレーションを施した作品としては1913年にシュレーカー指揮で初演された。このことは、その間の13年のブランク(シェーンベルクは金稼ぎのために、他人のオペレッタ作品のオーケストレーションなどを行っていた)に、マーラーが第4〜第10交響曲を作曲したことを考え合わせると、

 

当時のウィーンの音楽史が、マーラー→シェーンベルクという一方向の流れではなく、重層的な絡み合い・同時進行のドラマであることを感じさせる・・・という気がします。

 

マーラーの「大地の歌」は、中国の詩のドイツ語訳に曲をつけたものであり、"Gurrelieder"は、デンマークのJens Peter Jacobsen (1847-1885)の作品のドイツ語訳に曲をつけたものですが、いずれにせよ、ドイツ語訳されたときに韻はどのように処理されているのか興味深いところです。自由な作風の「大地の歌」と比較して、"Gurrelieder"には、ワーグナーの後継者たらんという気迫が感じられると私には思えますが、いかがでしょうか?

 

ところで、

ベルクの「3つの管弦楽曲」の作曲は、1914年、「ヴォツェック」のスコア完成は1922年ですから、1913年の"Gurrelieder"初演をもって「後期ロマン派」の命脈は尽きたという見方もできます。(第1次大戦中、シェーンベルクは 1915年から17年までの間に2回、兵役についている)

 

シェーンベルクの米国亡命後、初の作品である「弦楽オーケストラのための組曲」(初演はクレンペラー指揮により、1935年)は、堅実な作風の作品で、米国文化の影響を受けた乾いた作品となっており、「ウィーン」とは縁遠くなってしまったといった気がしました。

これは michael_oskar さんの 176 に対する返信です

 

MET公演「グレの歌」(7日)を聴いて

2001/ 6/ 8 2:20

メッセージ: 181 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

来日中のニューヨークのメトロポリタンオペラのメンバーによる特別演奏会で「グレの歌」を聴いてきました(6月7日 於東京文化会館)。 指揮はジェームズ・レヴァイン。 私はこの曲を実演で聴くのは今回で2度目ですが、今回はいろいろと考えさせられるところが多かったです。

 

まず1908年のいわゆる「ゲルステル事件」が、この曲の長い作曲時期の途中におきていることです。 そしてこの影響が、たとえば第3部に痕跡を残しているはずだ、という昨今の私の興味もあったし、数日前の紹介させていただいた Botstein 氏の見解によると、この事件そのものをシェーンベルクの新音楽への展開の動機とするような意見さえあるからです。

 

今回聴いた感じでは、やはり第3部がとても興味深く聴こえた、ということですね。 たしかに bernardsstar さんがおっしゃるように「後期ロマン派」の終末としての意義を感じたのはもちろんですが、私はむしろこの第3部に、シェーンベルクのその後の彼の音楽を予感させるものが予想以上にあったのにも驚いたというのが実感です。

 

1つだけ例をあげますと、道化と農夫の歌から、「ピエロ・リュネール」における「語る旋律」(Sprechstimme)との間の距離の意外なほどの近さなのです。 勿論「ピエロ・リュネール」は編成が室内楽であるし、かたや「グレの歌」はオケの編成が巨大ですので、安易にこういう比較ができないのは当然ですが。

 

また、不正確を承知でいえば、第1部では「オペラ的」「劇音楽的」であるのに対し、第3部では「カンタータ的」「オラトリオ的」という要素もありますね。

 

今回の演奏では、全体にウィーン的な響きは感じさせませんが、レヴァインの指揮も骨組みをしっかりと押さえた堅牢な指揮ぶりでしたし、全体に重厚で明るい演奏でした。 弦楽器はつややかだったし、金管楽器は強くそして鋭敏でした。 ただし木管の音は精彩がなかったのはどうしたものか?

 

しかしそれにしても、「語り手」(なんとこの日は、あのエルンスト・ヘフリガー !)が語りだすと、ヨーロッパの風が会場に吹き込んだのがおもしろかったです。

これは bernardsstar さんの 180 に対する返信です

 

はじめまして

2001/ 6/ 8 8:33

メッセージ: 182 / 1465

 

投稿者: fricca1115 (女性/愛知県)

 

ミヒャエルさんの書き込みで大分勉強させて頂きました。

シェーンベルクの音楽は馴染みがなく、多分一生無縁だろうと思っていましたが、貼り付けて頂いたサイトでシェーンベルクとゲルステルの多くの絵をつぶさに拝見し、俄然興味が湧いてまいりました。 一応は音楽も聴いてみようという気持ちになりました。 有難うございました。 

 

近々オーストリア・ギャラリーに行きますので、「笑う自画像」他にも数点を見逃さずにしようと思います。 このPCで見た範囲での感想ですが、「笑う自画像」もシェーンベルクの数多い自画像もそれから、二人が描いたマチルデの絵さえも悲しげに見えます。

 

マチルデという女性はこれらの絵から受ける印象から(写真も1点入っていましたね)、いわゆる女性的魅力ではなく、芸術家への理解、そういったもので二人を虜にしたのでしょうか。 

ワグナー夫人となったコジマを思い出します。

また、その心のよりどころに裏切られた作曲家、それにゲルステル事件の追い討ち・・・ムンクを思い出させる「夜の風景」青い顔の自画像・・・考えさせられますね。

これは michael_oskar さんの 179 に対する返信です

 

ウィーンでの心の余裕 (fricca さんへ)

2001/ 6/ 9 3:42

メッセージ: 183 / 1465

 

投稿者: michael_oskar (男性/横浜市中区)

 

fricca さん !

 

ゲルステルとシェーンベルクの絵画のサイトを紹介させて頂いたことが、幾分かでもfricca さんのお役に立つことができまして、大変嬉しく思っています。 そして、fricca さんが近々ウィーンに行かれるということを知り、私のゲルステル関連の投稿も非常にタイムリーだったと思っています。

 

おそらく fricca さんもウィーンは初めての訪問ではないと私は推察いたしますし、また今回のご旅行中にウィーンに何日滞在されるかがわかりませんので、私よりここであらためて申しあげることではないとは思いますが、ウィーンでは是非、オペラ・コンサートに行かない日を最低1日確保されることをお勧めいたします。

 

これは私の経験なのですが、夜のオペラ・コンサートの開始まで十分に時間があったとしても、実は昼間、心のどこかで夜の時間のことを気にしているものなのです。こうなっていますと、昼間の時間に心を開いてゆっくりと絵画と向き合うということ、そして絵画から得た印象を自分の内部で咀嚼することが、できにくくなる場合があるのです。 あのベルヴェデーレ上宮は庭園も大変素晴らしく、そこからウィーン中心部を見渡した景色もとても素晴らしいところですので、ギャラリーで絵画を観たあと、ゆっくりとその印象をかみしめながら、庭園の中を歩いて下宮まで下っていかれてはどうでしょうか?  こういうことは、まさにウィーンでなくてはできないことだと思います。「今晩はオペラはないので、思いつくまま後ろの時間を気にせず、ゆったりいこう!」という気持ちで散策するウィーンは格別のものがありますね。下宮から Rennweg を下り、マーラーのウィーン帝室オペラ監督時代の住居を横目に見て、Schwarzenbergplatz に出ると、カール教会が見え、楽友協会のホールが見え、いつのまにかリンク大通りに戻っています......。  この散策は、心に余裕のあるときに限りますね。

 

ちなみに、ベルヴェデーレ上宮には、ブルックナーの最晩年の住居(Kustodenstoeckl)が残っており、彼はそこで亡くなったのですが、ブルックナーオタクの人ならば訪問をお勧めいたします。

 

さて、トピ主さんの bernardsstar さんもまさにお書きになっていらっしゃるように、マーラーからシェーンベルクへの直線的系譜というのは、実はそう簡単には言えないと思います。 そして実はその前の、ワーグナーからブルックナー/マーラーの系譜というのも、まったくこれとは別の意味で簡単ではないと思うのです。

 

このことを別の言い方をしてみます。 まず、ある人がワーグナーファンだったとして、その人が全てブルックナーファンになるかといえば、私の経験ではそういうことば多くないようです。 ただし、ワーグナーファンならば、シェーンベルクの何曲かは、必ず好きになるのではないか、という曲があります。それは、「浄夜」「ベレアスとメリザンド」、そして「グレの歌」です。 この「グレの歌」はオペラではありませんが、ちゃんと筋があります。トピ主さんも指摘されているように、この曲(特に第1部)は、ワーグナーの影響を色濃く受けており(トピ主の bernardsstar さんは「黄昏」とおっしゃいましたが、私はむしろ音楽的には「ワルキューレ」と思うのですが)、シェーンベルクがワーグナーのような改革者たらんとした意気込みも感じるのです。以下が「グレの歌」の Key Word です。

許されぬ愛、静寂、森、黄金の杯、嫉妬、狩、罪、死、救済......

 

これはもう fricca さん好みのワーグナーの世界ですね!(笑)

 

最後に、fricca さんの今回の御旅行が実り多き素晴らしいものでありますよう、お祈り申しあげています。

これは fricca1115 さんの 182 に対する返信です