ヒンデミットとシェーンベルク

2001/ 8/ 5 23:03

メッセージ: 262 / 1464

 

投稿者: HORNKONZERTE (39歳/男性)

フリッカ様>ちゃんとした四角形をおさえて平行四辺形にしたような音楽というか、ひずんだガラス越しに美しい景色を眺めているような、不思議な5曲でした。 ヒ ンデミットはなかなか気になる作曲家です。どの曲も「ヒンデミット的」という以外ないような独特の「味」がありますね。旋律線はなんとも奇妙です。聴き手 が期待するような自然な動きに反しているような感じを受けます。調性音楽と無調性音楽の狭間で揺れ動くような。「擬調性」という言葉も使われるようです。 リズムもなんだか快適には進みません。しかしそれが聴いていくうちにだんだん気持ち良さになっていくのです。シェーンベルクの「浄夜」は 私の好きな曲の一つです。「ピエロ・リュネール」までいってしまうと「?」なのですが、「浄夜」は弦楽器のグラデーションがことのほか美しく、ヨーロッパ 世紀末の空気をそのまま精妙な音のヴェールに包み込んだかのような世界に魅了されます。オペラティックな要素がありますのでヴァーグナー・ファンであるフ リッカ様なら、なおさら楽しめたことでしょう。演奏についてはカラヤンが何と言っても評判が良く私もあの響きには陶然となってしまいます。メータ 盤は聴いたことはありませんが、「シェヘラザード」やブルックナーの「第8番」等を聴くと弦楽器の響きに特に素晴らしいものがありますので「浄夜」も良い 演奏と想像します。他にはサロネンもなかなか評判がよいようです。非常に積極的な表現で響きも美しいのですが、その反面カラヤンの風格には及ばないと感じ ました。

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ウェーベルン

2001/ 8/ 6 16:45

メッセージ: 263 / 1464

 

投稿者: fricca1115 (女性/愛知県)

弦楽四重奏のための5つの楽章(Op−5)これも、3度は聴かないと馴染みませんね!(笑)でも何度も聴くうちに(全部で10分ほどで助かった)暗い洞窟に入り込んだような気がしてきました。映画に使われる効果音のような感じで・・・驚き、不安、動きまわる小動物、びっくりして跳び上がった心臓。 ピタピタと天井から落ちてくる水滴、光り輝く水晶・・・そんなものが浮かんできました。 普通に音楽を聴くところとはちょっと違う感覚を刺激されているような気がします。 楽器が単独で奏されるところも多くて、今までの弦楽四重奏のイメージとは大分違いました。これに比べるとバルトークは(何の作品か忘れましたが、弦楽四重奏だったと思います)すごくマトモです。(爆)bernardsstarさま:>とにかく、優れた作曲技法ではありますが、尋常ではないです。(←ヒンデミット)本当にそんな感じですね! でも、今日のウェーベルンよりは体に染み込みやすかったですよ。 ヒンデミットのあの小品はひずんでいても、音の重なりがとても美しいものでした。HORNKONZERTEさま:「浄夜」のお薦めはカラヤン盤ですか。 これは前にもお薦め盤として挙げられていました。 Bea_Smyさんお薦めのスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ盤も魅力がありますよね。【不思議なくらいねっとりとして、むせ返りそうなほど強烈な雰囲気を作り出していながら、それでいてもたれることなく、清々しささえ醸し出しているように感じられます。】 今まで、ブーレーズ盤は外せないと思っていたのですが、皆様のお薦めはどれも聴きたくなるので困ります。 まだまだクラシック貧乏が続きそうです。(笑)

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ヒンデミット

2001/ 8/ 6 21:35

メッセージ: 264 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

といえば、ドイツの20世紀前半の詩人ゴットフリート・ベンが彼の友人でしたよね。ベンとヒンデミット(夫妻)とは、1冊の書簡集となるほどの手紙のやり取りがあります。LIMES VERLAGという出版社から出されています。題名は正確のは覚えていませんが、Briefe aus Benn an Paul und 妻の名ヒンデミットという感じです。

これは fricca1115 さんの 259 に対する返信です

 

シュレーカーとグルリット

2001/ 8/ 8 23:52

メッセージ: 265 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

グルリットがブレーメンのGMD時代、シュレーカーの室内交響曲をブレーメン初演したことは、拙トピ「マンフレート・グルリットのトピ」あるいは、ここの トピでも述べたかも知れませんが、それ以外にもグルリットはシュレーカー作品をブレーメン、ハンブルク、ベルリン、ブラウンシュヴァイクで指揮したようで す。ま た、グルリットのシェークスピア交響曲、「ヴォツェック」には、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる独創的、室内楽的手法がみられます。アルブレヒト氏 は「ヴォツェック」のほうについては、この手法を「ヴィブラテェル」というと、昨年のグルリットトークの中で述べられていました。その一方で、シュレー カーについては、長木誠司先生監修の、音楽の友社から出版された「クラシック音楽の20世紀1 作曲の20世紀T」という本のシュレーカーの項で、長木先 生は、シュレーカーの歌劇「クリストフォルス」の中で、弦楽四重奏曲が音響的に象徴的な位置にあると述べています。シュレーカー、グルリットにはこのよう な作品の類似もみられます。ちなみに、このオペラはシュレーカーの生存中には初演されず、彼の生誕100年、あるいは僕の生まれた年、1978年にフライ ブルクで初演されました。フライブルクは、マンフレート・グルリットの従兄である、古楽の復権で有名なヴィリバルト・グルリットが当地の大学で長らく研 究・教育した場所です。この地の州立音楽大学は戦後になって、彼と、その町の市長により設立されました。 グルリットはベルリン時代、シャルロッ テンブルクの音楽高等学校で(ベルリン音楽大学でも教えてたかどうかは僕自身はわかりません)、指揮者、オーケストラ演奏の教師として、オペラのクラスの 指揮者として働いていましたが、このきっかけとなったのは、他ならぬ当時ベルリン音楽大学のシュレーカーからの呼びかけがあったからだと、グルリット自身 は述べています。シャルロッテンブルクの音楽高等学校では、ツェムリンスキーも同時期に教えています。

 

フランス嫌いと愛国

2001/ 8/10 9:55

メッセージ: 266 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

プフィッツナ−が、誰かがフランス語の詩を朗誦した時、それになぜかキレテ、その部屋を飛び出したのはよく知られています。また、彼は国粋主義的な発言も多かったです。ベッ クリーンは、文明や文化に対しては逃避的態度をとったけれども、三元社より出版された「作品とコンテクスト」シリーズの「ベックリーン 死の島」(フラン ツ・ツェルガ−著 高阪一治訳)の46ページでは、「このとき彼の心に、生涯にわたるフランス嫌いが芽生えたのであった」とあります。ベックリーン自身 は、兵役について、戦争のおぞましさを感じたというところから、国粋主義の考えはないといえるでしょう。マックス・レーガ−は、長木先生の「第三帝国と音楽家たち」によれば、第一次世界大戦中に愛国的な「祖国序曲」というのを書きました

 

Re: フランス嫌いと愛国

2001/ 8/11 17:29

メッセージ: 267 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

長木先生の「第三帝国と音楽家たち」も、アドルノ「マーラー」も、まだ未読であります。ぜひ読んでみたいのですが、その前に、「ウィーン精神 1」- ハプスブルク帝国の思想と社会 - (ジョンストン著。みすず書房)を読もうと思っております。多趣味ゆえ、掛け声倒れに終わることのないようにと思っています。(現 在は、音楽からチョイと離れて、独伊英仏米ソの政治力学を復習すべく、チャーチル、ド・ゴール、ルーズヴェルトの伝記を読んでいるところ。本当に、第2次 大戦は、「反ファシズム、反ヒトラー」ということで、ようやく英仏米ソはまとまりましたが、ヒトラーの存在がなければ、(少なくとも、政治家・軍人の世界 では)「どの他国も敵」というようないがみあいをしていたと言えますね。音楽家であるプフィッツナ−が反仏的であっても仕方がないというのが、ヨーロッパ 内での国家関係と言えます。)情報、どうもありがとうございます。

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プフィッツナーの国粋主義

2001/ 8/11 23:40

メッセージ: 268 / 1464

 

投稿者: tachibana_hiromi

 プフィッツナーはドイツ人ですが、生まれはモスクワです。また、彼の経歴には、普仏の係争地であるアルザス(エルザス)はストラスブール(当時はドイツ語式にシュトラウスブルク)の歌劇場で指揮者をした、というのもあります。  私の考えでは、プフィッツナーはたぶんこういう点を劣等感(控えめにいっても、引け目とか負い目)に感じていたのではないかと思うのです。ドイツ(語圏) で生まれたかったのにそうではなかった。できる限り中央に近いところで活動したかったのに、僻地に飛ばされた、とかいうように。 そういう遺恨が、プフィッツナーをして右翼的・狂信的な愛国主義(ショーヴィニズム)へと駆り立てて、思想的にナチスに接近させる要因となったのではないでしょうか。  愛国主義にも様々な段階がありますので、一口に「愛国主義」の名の下に、レーガーやR.シュトラウス、新ヴィーン楽派の各人などの場合と同列に並べて論ず るのは危険でしょう。本トピでも、ヴェーベルンがナチ支持者で、第2次大戦中には日本の枢軸国入りを歓迎された胸の指摘がありましたが、あれほどウィーン の文化的・政治的保守主義を嫌い、独墺楽壇からフランス寄りと見られていたシェーンベルクでさえも、第一次大戦の勃発を世界の浄化として(初めのうちだ け)歓迎したり、オーストリア帝政の解体と共和国発足については批判的だったりしたのです。 こういう心情の評価は、つくづく難しいものですね。終戦記念日が目前とあって、なおのことそのように思います。

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Re:プフィッツナーの国粋主義

2001/ 8/12 10:05

メッセージ: 269 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

投稿いただき、ありがとうございます。小生、以前、このトピに、プフィッツナーの歌曲のCDを聴いた感想を投稿いたしました時に、彼の音楽は、ウィーン的というよりもインターナショナルな感触がするということを書きましたが、彼の経歴がそのことに影響しているのでは?と思っています。ま た、ブルーノ・ワルターの「主題と変奏」には、ナチス支配下のドイツにいたプフィッツナーから、(まだ、ナチス支配下に入っていないウィーンにいた)ワル ターに対して、かなり国粋主義的な失礼な内容の手紙が届いたけれども、当時、ドイツ国内の郵便物に対してはナチスが検閲の眼を光らせていたので、ワルター はその点を差し引いて手紙の内容を読み取ったことも書かれていました。そういった時代背景も考慮しなければならないでしょう。「第2次世 界大戦」を理解するためには、「第1次世界大戦」の内容を深く検討してみる必要があります(一朝一夕にはいきませんが)。「古典的」な戦争から、毒ガス・ 戦車を使用した恐怖の殺人イヴェントとしての戦争に転換したポイントとしての「第1次世界大戦」であり、ド・ゴールが2つの大戦、ならびに大戦間をひっく るめて「30年戦争」と呼んだ時期のスターティングポイントとしての「第1次世界大戦」についてです。「ジョニーは戦場に行った」とか、ヴィトゲンシュタ インとか、研究しなければならないテーマがあり過ぎて困るといったところですね。あと、もう1点、トピずれを許していただけるのであれ ば、現在、「靖国神社」問題は、日本の国内問題、ならびに、中国・韓国との関係維持の観点のみから議論されていますが、日独伊の三国同盟に加盟することに より、ユダヤ人虐殺などの非人道的行為を繰り返していたナチスに日本が協力したことに対する「責任」について、もっと議論されて然るべきでしょう。そうし ないと、(米英は)「勝てば官軍」という主張に、日本の戦争責任が覆い隠されてしまうからです。今後も、どうぞよろしくお願いいたします。

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Eine Pfitzner-Anekdote

2001/ 8/13 3:44

メッセージ: 270 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

周知のことですが、プフィッツナー(Hans Pfitzner,1869-1949)は、思想的にはショーペンハウアーから強い影響を受けました。このことはただ伝記的事実としてではなく、彼の創作 活動や思想形成、行動決定にも決定的役割を果たしたものとして、深い意味で注目される必要があります。彼は全集として刊行された複数の版を所持するなど、 相当なショーペンハウアー通でした。また、長年にわたって独ショーペンハウアー協会の会長を務めたヒュープシャー博士とも親交があり、その研究にも余念が ありませんでした。以前わたしはあるトピで、プフィッツナーがショーペンハウアーに宛てて書いた信仰告白を、デタラメながらに訳したことがあります。あと で調べてみると、彼がショーペンハウアーについて書いた文章の中には、その弟子フラウエンシュテットの文章に由来するものがあることもわかりました。いず れにせよ、彼にはショーペンハウアーに関して並々ならぬ執念があったことは事実のようです。さ て、今日はそうしたプフィッツナーの一面を窺い知ることのできる興味深いエピソードを紹介したいと思います。Bernhard Adamyという人が、当時プフィッツナーの友人で指揮者のフォンデンホフ氏(Bruno Vondenhoff、「パレストリーナ」の初演も彼が手掛けた)の未亡人、エレオノーレ夫人から聞いたというお話です。1932年11月、ケーニヒスベルク(現在はロシア領のカリニングラードですね。カントが生涯を送った町としても有名です)での出来事です。

プフィッツナーは「パレストリーナ」を上演するため当地にしばらく滞在し、14日間にもわたるリハーサルに精を出しました。本番の二日目はプフィッツナーが自ら指揮をとり、大成功を収めました。そして公演が終わると、なが〜い打ち上げです。プフィッツナーはこうした打ち上げがとても好きでした。ワインとシャンパンがたっぷりと振舞われ、とうとうその打ち上げは翌日の明け方まで続きました。普通の人なら疲れ果ててしまって昼が過ぎるまで爆睡するのが自然ですが、プフィッツナーはその日の朝早くに汽車で当地を離れる心積もりでいました。打ち上げが明け方まで続いたのでとてもこうしたことは考えにくいのですが、彼はそこに居合わせた全員が駅にやってきて彼を見送ることを希望しました。「わたしは一言だけ言うことにしよう」プフィッツナーは彼ら全員に言い伝えました。「わたしを愛する人であれば、その人はそこにいる」彼らは常々プフィッツナーを尊敬しておりましたので、仕方な「カルメン」から引用されたこの言葉に従うことにしました。眠さをこらえつつ、もちろん不満に思う気持ちもありましたが、何はともあれ、彼らは汽車が出発する時間に駅にやってきました。さて、汽車が出発するというその間際になって、フォンデンホフ夫人はプフィッツナーにさりげなくお別れの挨拶をしました。「さすがに先生も汽車の中で少しお眠りにならないと・・・」これに対してプフィッツナーは強い口調で言い返しました。「わたしが眠るのですって!!?わたしはこれからショーペンハウアーを読むところなのですよ!」

 

ショーペンハウエル

2001/ 8/13 22:15

メッセージ: 271 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

はじめまして、reine_Anschauungさん!(「謹慎中」とのことですが、もしかして?)それはさておき、ショー ペンハウアー(ショーペンハウエル)は「厭世哲学」を奉じていた学者であり、「国粋主義」とは無縁の人間であると考えます。小生、学生時代には、「意思と 表象としての世界」をよく読んだものでしたが、この本は、「ギリシャ・ローマ哲学」の入門書としても好適で、著者の教養の深さには感心させられるばかり。 この本の中で触れられていた、ルクレティウスの言葉「怒りを抑えよ」は、今でも脳裏に焼き付いています。この言葉、政治家・軍人にも聞かせたいものです。 そうです。怒りを抑えれば、紛争・戦争は起こらないのであります。一方、小生は今、「戦争の記憶 日本人とドイツ人(TBSブリタニカ 刊)」という本を読んでおります。この本の著者は、イアン・ブルマ氏という1951年生まれのオランダ人。日本・ドイツ両国の国民の意識に「戦争責任」が どの程度浸透しているのか、また、正しい戦争認識を後世に伝えるために両国政府がどのような努力をしてきたかを比較検討するのに、最も好適な本といえるか も知れません。この本の中では、噴飯ものの「ドイツが侵略の罪を犯したかどうかの判断は後世の歴史家が下す」という竹下首相(在任当時)の言葉についても 触れられていますが、このトピに関連して引用しておきたいのか次の箇所です。

 

「私 (著者のブルマ氏)は夢中になって天皇崇拝者や、歴史見直し論者、日本の独自性を追求する浪漫主義者たちの本を読みあさった。それらはいずれも抽象的なも のだったが、日本の名のある雑誌や新聞で広く取り上げられたり、著者はそのせいでテレビ討論会のゲストに招かれたりしていた。私は彼らの婉曲な美文調の表 現のなかに同一のドイツ人の名が繰り返し出てくることに気づくようになった。シュペングラー、ヘルダー(民族主義的哲学者)、フィヒテ、そしてワーグナー まで飛び出してきた。日本の浪漫主義者が日本の独自性を論じれば論じるほど、彼らはドイツの形而上学者に似てきた。(中略)日本では19世紀ドイツの影響 がいまなお顕著なのである。」この文章を読んで、小生が思ったことは、シュペングラー、フィヒテ、ワグナーは、日本の国粋主義をも助長し たが、やはり、ショーペンハウアーは国粋主義とは無縁だったのでは?ということです(異論がありましたら、お寄せください)。ただ、「デカンショ」が旧制 高校で愛読されたわけですから、ショーペンハウアーを読みながら「愛国心」を募らせていった方々が存在したことも事実でしょう。ブルマ氏によれば、第2次大戦後のドイツ(特に西ドイツ)においては、こういった(日本のrightistが今なお、想いを寄せる)ドイツの過去の遺物は忘れ去られているとのことです。以下、引用です。「い まやかくも「文明化され」、自由で個人主義の傾向の強い、要するに西洋人となった西ドイツ人の一部の人間にとって、集団的規律と権威を重んじ、軍隊のよう な働き方をする日本人は、自分たちがようやく脱皮できたイメージに今なおまみれている、救いのない存在に見えるのだろう。これにはそれなりのわけがある。 日本は19世紀から20世紀にかけてドイツから多くのことを学んだが、それはもはや西ドイツのリベラルな気質とは相容れないものなのだ。」

これは reine_Anschauung さんの 270 に対する返信です

 

スコペンノーエル(中江兆民かく訳しき)

2001/ 8/14 22:00

メッセージ: 272 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

拝復今日は終戦記念日を間近に控え、時宜的な話題も含めてかの思想家について少しだけお話したいと存じます。まず、トピ主様がお書きになったことで、少し気になる部分を指摘させていただきます。「ショー ペンハウアーは<厭世哲学>を奉じていた学者」という部分ですが、やはり「ショーペンハウアー哲学は厭世哲学」という長年定着した見方がいまだに支配的な ため、一般にはこのように受け取られがちですが、そろそろこうした歴史の垢にまみれた評価を改めるべき時期が来ていると思います。いわゆる「ペシミズム」 という言葉は「厭世主義」「悲観主義」と訳されますが、ショーペンハウアーの場合、あくまでライプニッツのオプティミズムへのアンチテーゼとしての「最悪 観」であり、彼が直観し得た「意志としての世界」の本質を言い表しているに過ぎません。それは人生を厭う態度とは明らかに次元が異なります。ご希望であれ ばまた今度お話しますが、私に言わせますと、彼は「カント哲学を奉じていた哲学者」(学者になるのには失敗した)ではないでしょうか。それから、ルクレ ティウスの言葉はどの部分に記述がありましたか?少し調べてみたのですが見つかりませんでした。次に、日本の「戦争責任」に関してなど。昨 日、小泉首相が靖国参拝を済ませてしまいましたが、この問題はどうしても個人の歴史観と関わらざるを得ません。「歴史観」もいわば思想のあらわれですか ら、様々な種類の歴史観が共存してしかるべきでしょう。たった一つの歴史観しかないとすればそれは危険です。中国や韓国には概ね共有された歴史観があるよ うですが、日本の場合、戦後あれだけの大戦について国民的総括がなかったこともあり(「一億総懺悔」など空虚なスローガンに過ぎない)、国民レベルでの歴 史意識が熟成されないまま今日に至りました。建前上(表面上)は、われわれ日本人は「平和教育」によって「平和主義」という「歴史観」(どのようなものか 私にはわかりません)を身に付けていることになっています。しかし最近の「歴史教科書問題」で明らかになったように、それは浅薄なイデオロギーでしかあり ませんでした。私はこれが日本人特有の「思想性のなさ」に起因するものと考えています。話はトピ主様ご指摘の本に移りますが、私はこの著 者の主張はかなりあやしいのではないかと思います。特に、引用された部分、「天皇崇拝者」、「歴史見直し論者」、「浪漫主義者」たちとはどのような人なの でしょう。おそらく三島由紀夫や西尾幹二氏らのことでしょう。確かに彼らはヨーロッパの思想に造詣が深いですが、一般の日本人が「自分たち(西ドイツ人) がようやく脱皮できたイメージに今なおまみれている)というのは、全くの認識不足だと思います

 

最後に、トピ主様が書かれたことについて少しだけ反論いたします(追い討ちではありません!)。戦 前の日本において、フィヒテ(あのセンセーショナルな本の翻訳はありましたが)、ワーグナー(一般には彼の反ユダヤ思想はショーペンハウアーに由来すると いわれる)らが「国粋主義」を助長したかどうかについては慎重に検討する必要があると思います。部分的に利用されることはあったかもしれませんが、「国粋 主義」が思想的に浅薄である以上、その関連は相当の留保付きでなければ結論できないと思います。ショーペンハウアーが「国粋主義」と無縁であったことにつ いてはその通りだと思います。ただ、旧制高校の生徒がショーペンハウアーを読んで「愛国心」を募らせたかどうかは疑問です(当時の旧制高校で最も読まれた のは、哲学書ではレクラム文庫のショーペンハウアーとヒルティで、「デカンショ節」は「愛唱」された)。ショーペンハウアーの哲学は明治以来、白樺派との 結びつきを除けば、時代を牽引する思想としては不適格の烙印を押されていましたので、このことは当然といえば当然でしょう。昭和14年にでた「西哲叢書」 『ショーペンハウエル』のなかにも、「ショーペンハウエルの哲学は現代を指導する力に於て欠くる」(218p)という記述があります。しかし、すぐその後 には、「未曾有の難局に直面せる我国の非常時に際会して、思想界の底流にも百年の大計に資し得る新しき理想を求めて、無気味な胎動が続いてゐる。全く思想 の重んずべきこと今日の如く喫緊なる時なく、又思想の軽んぜられること今日程甚しきはない」とあり、やはり日本人一般の「思想性のなさ」だ問題だったこと がわかります。

これは bernardsstar さんの 271 に対する返信です

 

Re: スコペンノーエル

2001/ 8/16 0:37

メッセージ: 273 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

reine_Anschauungさま>やはり「ショーペンハウアー哲学は厭世哲学」という長年定着した見方がいまだに支配的なため、一般にはこのように受け取られがちですが、そろそろこうした歴史の垢にまみれた評価を改めるべき時期が来ていると思います。彼の著作を読むと、彼の言わんとしていることは「厭世」ではないことはすぐにわかりますが、愛犬を友とし、生涯独身で通した彼の生き方が、小生には、「厭世」のイメージを与えます。>それから、ルクレティウスの言葉はどの部分に記述がありましたか?少し調べてみたのですが見つかりませんでした。白水社版の、正編(II)の、第57節、第58節に、有名な「楽しきかな、大いなる海に、嵐吹きすさびて ひとの労苦の多きを岸辺より眺むるは。・・・」を含む、ルクレティウスの引用がありますが、この近辺、第55節に、「胸のうちのおのれの怒りを強いて抑えつけ」の引用は、ルクレティウスではなく、ギリシャ語で、πολντελεστεραでした。何せ、20年近く「積ん読」になっていたもので、すいません。

 

>特に、引用された部分、「天皇崇拝者」、「歴史見直し論者」、「浪漫主義者」たちとはどのような人なのでしょう。今 日の日本の若年層の大半は、このような「浪漫主義者」と、無関係に生きています。ただ、日本人の全体主義的傾向(回りに左右されやすい)は根強く残ってい るわけですから、一部の人間に感化されて、再び日本全体が戦前に逆行することを警戒する必要はあるでしょう。この本の著者は、特に、「(日独の研究者のセ ンターで)日本側は神道の天皇崇拝とドイツ国民の神話の類似点を研究するセミナーの開催を提案した。そこには批判や皮肉の意図はまったくなかった。もとも とこれは東京のある神社の神官の発案だった。ドイツ側は丁重に辞退した。」(この本からの引用)といった事実にあきれて、日本の「浪漫主義者」の時代錯誤 をチクリと批判してみたかったのだと、考えます。

これは reine_Anschauung さんの 272 に対する返信です

 

ワインガルトナー

2001/ 8/16 21:52

メッセージ: 274 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

bernardsstarさまご迷惑ばかりかけております。いつもトピずればかりでは申し訳ございませんのできょうは、「ウィーン19世紀末、20世紀初頭の音楽」とゆかりのある音楽家、ワインガルトナーについて、しかも「あの思想家」との関連で!投稿させていただきます。といっても、ちょっとした記事を翻訳したに過ぎないのですが・・・プフィッツナーが受容したのとはまた一味違った内容になっています。執筆年代がちょっと古くて、1931年にRichard Gebhardという人が書いたものです。本日急いでしたためたものなので、めちゃくちゃな日本語、わけのわからない文章もあるかと思いますがどうかご勘弁ください。(ワインガルトナーの文章は直訳不能の部分が多くて往生しました)少しでしゃばりすぎましたのでまたしばらく謹慎いたします。またいつかヴィトゲンシュタインなども含めて報告できる機会があればいいなとおもっております。敬具

これは bernardsstar さんの 273 に対する返信です

 

Weingartner ueber Schopenhauer(1)

2001/ 8/16 22:31

メッセージ: 275 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

 1863年にダルマチア地方のザーラで生まれ、指揮者兼作曲家として有名となったフェリックス・ワインガルトナーは、さまざまな形でショーペンハウアー の影響をうけた。このことは、以前に出版された彼の著作や、最近では1928年に出版された『回想録』(Zuerich und Leipzig.Orell Fuessli Verlag)が示している通りである。  ワインガルトナーは21歳にして初めてショーペンハウアーを知った。リストの弟子でピアニストとして知られるアルトゥール・フリードハイムが、再三にわ たって彼にショーペンハウアーのことを示唆したのである。しかしながら、ショーペンハウアーを学ぼうとする彼の初めての試みは失敗に終わった。というの も、彼が手始めに取り組んだ学位論文『充足根拠律の四つの根について』は、当時の彼にとってまだ難しすぎたからである。当時ショーペンハウアーが彼の人生 の中にまだ深く入り込んでいなかったことを彼は幸運とみなしている。というのも、ショーペンハウアーの教説における「感覚を麻痺させるペシミズム、それが もたらす危険な後続現象」は、当時の彼に重度の障害を残したかもしれなかったからである。 しかしその後もワインガルトナーは再三再四ショーペン ハウアーについて触れられることになる。バイロイトのワーグナー家では、ショーペンハウアーが頻繁に話題にのぼり、「壁に懸けられたレンバッハによる ショーペンハウアーの肖像画が、仰々しく、無気味に近いほど生気に満ちて彼を見下ろしていた。」あるときワインガルトナーは、故ルードヴィヒ二世がバイエ ルンから彼のもとにやってきたことをコージマ・ワーグナー夫人に話した。すると彼女は蔵書の中から夫が所有していたショーペンハウアーの『パルエルガ』を 取り出してきて、特別な素振りを見せることもなく、ワインガルトナーも読んだことのある『視霊とこれに関するものについて』と、この本に含まれている他の 数篇を指し示した。それにたいしてワインガルトナーは実に率直にワーグナー夫人に語った。「偏見にとらわれぬ者であれば、誰一人として門戸を閉ざし続けた ままではおれない」この偉大な精神を理解できるようになる日が、いつか自分にもやって来るに違いない、と。 そして数年が経ち、1889年という年になってワインガルトナーがショーペンハウアーの著作を立ち入って研究しはじめることにより、ようやくこうした理解が現実のものとなった。彼はこの時の感想を次のように語っている。

 

  「私はショーペンハウアーが自分の後の著作を理解するためには不可欠であるとみなした『充足根拠律の四つの根について』の第一版を真面目に打ち込んで勉強 した。確かに、大変な頭脳労働だという感じを持ったが、それでも私の心に直接話しかけるものは比較的少なかった。しかし彼の主著『意志と表象としての世 界』(さしあたってはこれの第一巻をものにしようと努めたわけだが)は、最も深い部分で私に衝撃を与えた。「世界は私の表象である」という最初の簡潔な一 文からしてすでに、本から飛び出た稲妻のように、私の目と存在の中へ飛び込んできたのだ。したがって私は、ひとまずその先を読み進めることはやめて、この 主張がもたらした巨大な余韻の中に浸り込んだ。そして私がその先を読み進むにつれて、私が昔から気にしていた何かのヴェールが取り払われたかのように思え てきた。つまり、ここで説かれた真理や思想のつながりは、私にとって太古の昔から親しいものであったかのように思われたのである。何千年にもわたって地上 を歩き尽くし、眺めつくし、照らし尽くした預言者が、人目に触れず動揺のない気持ちで詩を詠むのと似て、この本に書かれたことは、鳴り響いて恐ろしいが、 それでも調和のとれた鐘の音のように、私の耳に聞こえてきたのである。その後、私はゆっくりと個々の文章をたどってみた。そしてその核といえる部分を完全 に捉えるようになると、私の目はまた興奮を覚え、頁から頁へと飛び移っていった。そこで告げられた知恵が、それを覆う雲からいよいよはっきりと姿を見せる ようになればなるほど、自分にはそれを看取することが許されているという恩恵を、私はいよいよ強く感じるようになった。この独特で憂鬱な哲学がもたらす認 識上の大きな衝撃は、私の新しいオペラの創造的な成長過程と結びついて、翼を得たような気持ちが持続するという幸福な状態の中に私を置いてくれた。私の目 つきは恍惚の表情を浮かべ、このことは私と交際していた人々の注意を引いたほどである。私はこの至福の状態が止んでしまうことを懼れて、突然の死が訪れる ことをよく望んだものだ。ワーグナーの音楽、詩作、著述が、私の芸術的活動に強い影響を及ぼしたように、長い、実に長い期間、ショーペンハウアーの哲学は 私の思索における基準であり続けたのである。」

これは reine_Anschauung さんの 274 に対する返信です

 

Weingartner ueber Schopenhauer(2)

2001/ 8/16 23:12

メッセージ: 276 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

 1895年に出版されたワインガルトナーの著述『輪廻転生と楽劇についての教説』(Kiel)は、ショーペンハウアーとワーグナーの影響下にある。その なかでワインガルトナーは、自らがバラモン-仏教的輪廻転生の支持者であることを認め、これが道徳的重要性において、罪と罰というキリスト教の教えを凌駕 するものであると考えた。そうすることによって、彼はショーペンハウアーに倣ってユダヤ-キリスト教的な神の概念を完全に拒絶したのである。「キリスト教 -教会的道徳と比べて、どれだけこの道徳は限りなく崇高であることか。われわれから遠く離れた無窮の天空にジュピターが一人端坐し、自らが作った被造物 を、自らの選択と誰も手出しすることのできない判断によって、自分の方へ近づけたり遠ざけたりするのだ。」ショーペンハウアーの「生への意志の否定」は、 実のところ、輪廻転生の過程の終わり、すなわち救済以外の何物でもない。「まずショーペンハウアーの哲学がわれわれに救済への道を示し、ワーグナーがその 偉大な発見により本物の楽劇が創出される可能性をわれわれに与えたのであれば、輪廻転生からの救済の理念を純粋に表明するような何かを持ち出すことは、芸 術家に課することのできる素晴らしい課題である。」ワインガルトナー自身、そのような作品を、すなわち巨大な神秘劇を創作したいという考えを長い間抱いて いた。それは「世界のはじまりで開始され、世界の終わりで閉じられ、その中心にはイエス・キリストがいることになっていた。」その上演には4夜が見込ま れ、「カイン」、「ナザレのイエス」、「アハスヴェール」で構成されていた。アハスヴェールは輪廻転生したイスカリオテのユダであり、イスカリオテのユダ は輪廻転生したカインである。大詰めでは、アハスヴェールは、他の多くの輪廻転生者たちや最後のブッダ(輪廻転生したアベル)とともに救済を手に入れる。 そして涅槃の合唱の調べでもってこの神秘劇は閉じられることになっていた。 音楽の本質に関する限り、ワインガルトナーは「無条件に」ショーペンハウアーの理論に賛同する。それによると、音楽は事物の模写ではなくて、事物の根底に横たわる「物自体」、すなわち意志そのものの模写なのである。(1)

 

  ワインガルトナーは後年になると、ワーグナー同様ショーペンハウアーに対しても、慎重で批判的な態度をとるようになる。彼のショーペンハウアーに対する最 終判断は『回想録』の中の次の言葉によって要約できる。「あらゆる思想は、それが最も明晰なものであっても、人間の作品である。したがって、アルトゥー ル・ショーペンハウアーが打ち建てた、一見永遠のものであるかに見えた神殿の多くもまた崩れ落ちたのである。彼のペシミズムは時代遅れのものとなった。あ る種の諦観のようなものが彼をこうしたペシミズムへと追い込んだに違いない。なぜならば、彼は自らの認識論に基づいて、超越的王国、さらにそれに関連する 諸領域(今日すでにこれらの諸領域は厳密な科学的研究にさらされている)に足を踏み入れてしまったのであり、それが第一の障壁となっているからである。し かしあらゆる事物の根源としての意志を、表象の世界と結びつけようとする彼の試みは、ぽっかり口をあけたままの裂け目をさらけ出している。彼は結局これに 気付き、その橋渡しを試みたが無駄であった。しかしながら、トルソーや廃墟がわれわれを最も強い陶酔へと誘うことができるように、ショーペンハウアーの作 品からも、同じように真理、精神、美しさがその光を放っている。理解できる限りにおいては、われわれはそうしたものに対して感嘆するし、それが不可能な場 合には、古色蒼然としたものを感じざるを得ない。卓越した彫刻作品が独特であるかのように、彼の文体には独特の文学的大事件が起きているのである。」 (2) ワインガルトナーは次のような推測さえ口にしている。ショーペンハウアーの理論は、諦観を説く他の理論と同様、「隠れたフラジェランティズム」と 「自虐の愉しみ」を基礎にしており、こうしたもののおかげで、東洋でも西洋でもそうした理論が大変な普及と人気を勝ち取ることができたのではないか、と。 そして彼は次のように結論している。「今日私が再びショーペンハウアーと取り組むならば、彼と向かい合いながら、以前よりもよく彼の天才と独自性を味わう だろう。私はかつて彼によって完全に包み込まれていたのだから。」註:(1)ここで思い出されるべきは、ショーペンハウアーの音 楽理論がまさに音楽家の間で大きな共感を呼んだのは、彼の理論が音楽をあらゆる芸術の中で最も高度で完全な芸術ととらえ、このことが音楽家たちを喜ばせた という事実に帰せられるのではないかと推測した、エドワルド・フォン・ハルトマンの言葉である。

これは reine_Anschauung さんの 275 に対する返信です

 

Weingartner ueber Schopenhauer(3)

2001/ 8/16 23:17

メッセージ: 277 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

(2)この判断はある程度までクーノ・フィッシャーのものと一致する。「体系は分解され、部分に分けることができる。しかし私はR.ハイムが『A.ショー ペンハウアー』の中で言っているように言うつもりはない。<どの石も他の石の上に積み重なってはいない。というのも、部分部分は不朽の価値を備えた不変の ものであるが、それらは体系において繋ぎ役としての役割を果たしていないのである。>」

これは reine_Anschauung さんの 276 に対する返信です

 

ショーペンハウアー

2001/ 8/16 23:32

メッセージ: 278 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

ショーペンハウアー自身は、ヴァーグナーの音楽に全然興味を示さず、好感が持てなかったらしいですね。彼の食後の習慣は、フルートを吹くことだったそうで す。ショーペンハウアー自身が好んだ音楽は、モーツァルト・ロッシーニだったのでした。にもかかわらず、彼の哲学は、マーラー、リヒャルト・シュトラウ ス、ツェムリンスキーに影響を及ぼしたのでした。

これは reine_Anschauung さんの 272 に対する返信です

 

R・シュトラウスとショーペンハウアー

2001/ 8/18 8:34

メッセージ: 279 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

について詳しく調べてみようと考え、ネットサーチしていたら、http://www.gema.de/publik/n160/strauss.htmlというサイトに、「R・シュトラウスは音楽家の著作権確立のパイオニア」というテーマの記事があり、通常、「金銭に汚い」と評されたシュトラウスは、実は、現代の音楽家の恩人なのだということが書かれてありました。R・ シュトラウスは青少年期に、ニーチェやショーペンハウエルに入れこんだだけでなく、「アナーキスト」のマックス・シュティルナー、ジョン・マッケイ(彼ら は権力と戦い、協同組合の創設を提議)の思想にも共鳴しました。その影響で、シュトラウスら3名は、1898年に音楽家の組合 (Genossenschaft deutscher Tonsetzer)の創設を提議したのでありました。・・・というわけで、ショーペンハウエルの思想がシュトラウスの作品に与えた影響については、さらに調べてみます(ニーチェの影響はよく知られているので、言及する必要はないでしょう。)

これは gur1zem2korn3 さんの 278 に対する返信です

 

Re: ワインガルトナー

2001/ 8/18 8:50

メッセージ: 280 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

reine_Anschauungさまワインガルトナーに関しては、マーラーの後任として、ウィーン宮廷歌劇場の総監 督にいやいや就任(マーラーの名声が絶大だったので)し、在任期間も短かった(1908-11)こと、1937年に来日し、新響を指揮したこと、ベートー ヴェン、ブラームスの交響曲全曲録音を行ったことくらいしか思いつかず、ご見識の深さに感銘いたします。今後、小生といたしまし ても、ワインガルトナーについても研究対象として知見を深めていきたいと存じます。(当時の指揮者としては、シャルクに加え、英国に渡ってエルガーと親交 を深めたハンス・リヒターに興味をもっています。 + ちょっと時代は遡りますが、ブルーノ・ワルターが薫陶を受けたハンス・フォン・ビューロー。)

これは reine_Anschauung さんの 274 に対する返信です

 

R.シュトラウスとマーラーの場合

2001/ 8/19 23:47

メッセージ: 281 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

bernardsstarさまでしゃばりついでで恐縮ですが、R.シュトラウスとマーラーの場合はどうだったのかについての研究もありましたので、少しだけ紹介させていただきます。いずれもMartin Gregor-Dellin氏の"Schopenhauer und Musiker nach ihm"からの一部翻訳です。 シュトラウスの場合、ショーペンハウアー哲学の最難点といわれる「意志の否定」についてなかなか穿った考察をしています。しかしこの当時は主流であった、意志を実体として捉える考え方をとっているため、どうしても意志が自らを否定するということが矛盾であるという、誤った理解に基づく結論に至ってしまったようです。一方マーラーの方は、ショーペンハウアーがカントから受け継いだ、物自体と現象との区別、または普遍的なるものと個別的なるものとの区別を踏まえるなど、ショーペンハウアー哲学の核心部分に迫っているように思われます。ただ、彼が使っているのは、"Unterscheidung des Unzulaenglichen von Unvergaenglichen"という、あまり耳慣れない表現でしたが。しかし、ワインガルトナーの場合もそうでしたが、ショーペンハウアー哲学との関連で、「救済」という言葉がキーワードとなっているのは、この時代における特徴的現象のような気がいたします。敬具

これは bernardsstar さんの 280 に対する返信です

 

Der Fall Richard Strauss

2001/ 8/20 0:04

メッセージ: 282 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

 コージマ・ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスとの手紙のやり取りをたどるならば(その中でワーグナー夫人は『ツァラトゥストラ』と『サロメ』に対す る大いなる疑念を洩らしている)、シュトラウスが初めてショーペンハウアーを読んだのは、1893年の時点ですでに始まっていたことがわかる。シュトラウ スはまず『意志の自由について』を読み、それから『意志と表象としての世界』を読んだ。彼はその読書体験で美的満足を覚えた。  しかしながら、すぐにシュトラウスは、ほとんどワーグナーを手本とするようにして、主著の議論の展開における矛盾やその終結部分を批判するようになる。そ れらは『意志と表象としての世界』第一巻における見事な態度と完全にはうまく一致していないというのである。彼は何を考えていたのだろうか?それは世界に おける苦の叙述と、聖者の人生における意志の救済の賛美とに関わっていた。シュトラウスは次のように苦言を呈している。 「<否定における意志の 救済>という一文からして、私は議論をふっかけたくなる!いったい意志が自らを救済することを意志するのだろうか?この問いに対してショーペンハウアーは 全く何の考察も加えていない。これまで唯一認識可能な<意志の目的>とは、意志が人間においてその意欲を<意識>するということ、すなわち、個々に分かれ た個体の運命に基づいて、意志が肯定または否定を<意志>するかどうかを<認識>するということである。ここから先に進もうとするならば、ユートピア的に 構想しない限りは、ともかく時間と空間に結びついた認識は立ち行かなくなると私は思う。結局のところ、こうしたことにはかなりの無理があるのだ!」  芸術家を聖者と同一視することは、もはやできない相談だった。人生、そしてオーケストラ言語による美的成就が関心事であったシュトラウスが、ショーペンハ ウアーから読み取ることができたのは、音楽は現実と並行する世界(そこではいわば意志が自らを現わす)であるということでしかなかった。

これは reine_Anschauung さんの 281 に対する返信です

 

Der Fall Gustav Mahler

2001/ 8/20 0:28

メッセージ: 283 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

これに対して、音楽家、シュトラウスと同時代人の中では最も熱烈なショーペンハウアー愛好者であったグスタフ・マーラーは、不完全なるものと不滅なるもの とを区別することにおいて、自らの作品がもつ真の形而上学的葛藤に気付いていた。また彼はシュトラウスとは対照的に、そうした葛藤を自らの作品がもつ救済 的内容の中に持ち込んだり読み取ろうとした。マーラーは自らの交響曲第八番の解説において、比喩的にいえば記述可能なるもの、実際には彼が表現しようとし たいわば物質的なるものと、記述不能なるもの、あらゆる現象の背後にある不動なるものとを切り離して考えている。そのことについて彼はアルマ・マーラーに 次のように語っている。 「そのことを愛の暴力と呼ぶのであれば全く正しい」  この発言がもっている快活な憂鬱さだけでなく、まだよくわかっていない彼の救済願望(マーラーの宗教性についての綿密な研究は未だに発表されていない)を 背景とする交響曲第四番のテーマもまた、ショーペンハウアー的である。しかしながら、心底からショーペンハウアー的であるのは、彼がもっている<同情>の エートスである。マーラーは、自らの証言で明らかなように、ドストエフスキーによって<同情>に改宗させられたが、それは新約聖書によってでも、『意志と 表象としての世界』を読んででもなかった。あらゆる生き物とつながっているというこの奥深い苦のパトスは、彼の存在における根本的特徴であるので、このこ とをただ読書からもたらされたものとして片付けるわけにはいかない。マーラーは、おそらくどの芸術家よりも、作品とそうした領域に住んでいる人間との断絶 をふたたび解消しようとしていた。彼は自らの哲学を意識的に作品の中に持ち込んだが、全く生全体の客観化という意味で、音楽に哲学的プログラムが付け加わ ることは、もやは容認できないとは感じられないだろう。マーラー自身、あまりおしゃべりな方ではなかったし、こうしたプログラムについては、ただほのめか す程度だった。そして彼はショーペンハウアーに関しては比較的少しだけしか語っていない。明らかに彼はショーペンハウアーをとてもよく読んでいるのにであ る。彼が交響曲第二番の解説の中で「なぜおまえは苦しんだのか?それはすべてただ大きな恐るべき悪戯にすぎないのか?」という問いを立てるとき、言葉の届 き得ぬ場所で音楽の扉の前に立っているようにみえるとき、(略)、救済を求めて純粋に漂い出る音の中で格闘しているとき、彼は完全にショーペンハウアーの いう音楽と世界のアナロジーの世界に身を置いている。「なぜおまえは苦しんだのか?」という問いに対して、彼は自身次のような答えを出している。「われわ れがこれからも生き続けようと意欲するのならば、われわれはこの問いをどうにかして解消せねばならない。いや、われわれがこれからも死に続けようと意欲す る場合でさえそうなのだ!」

これは reine_Anschauung さんの 282 に対する返信です

 

ショーペンハウアーとマーラー

2001/ 8/20 20:59

メッセージ: 284 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

についてネットサーチしてみたら、このテーマに関しては、かなりの数のサイトがありました。例えば、http://adam.spu.edu/~ehanson/mahler/schopenhauer.htmlを読むと、マーラーの「交響曲第3番」は、ショーペンハウアー哲学の影響をかなり受けているようです。「全てには意思がある。岩も、木々も、動物たちにも」という思想は、観念論というよりは、汎神論と言うべきか?reine_Anschauungさんのご指摘のように、「交響曲第8番」に関しても、ゲーテのみならず、ショーペンハウエルの影響を感じます。

これは reine_Anschauung さんの 283 に対する返信です

「意志の客観化」

2001/ 8/21 13:18

メッセージ: 285 / 1464

 

投稿者: reine_Anschauung (男性/謹慎中)

bernhardstarさまご紹介いただいたサイトは大変勉強になりました。わたくしはこれまでそれほどマーラーに入れ込んだことはありませんでしたが、これを機会にマーラーにも接近を試みたいと思います。ところで、交響曲第三番につけられた標題についてですが、これはショーペンハウアーのいう「意志の客観化」の諸段階を表しているようですね。この考えは主著の第二巻などで述べられていますが、その段階が進むにつれて「意志の客観化」がより完全になるという彼独特の考え方です。いわゆる「存在論」とよばれる「意志としての世界」の第一考察は、彼の認識論とくらべてそっくりそのまま受け入れ難い性質をもっています。ヴィトゲンシュタインもこの「意志の客観化」を受け入れることはできませんでした。しかしショーペンハウアーの音楽論によれば、音楽は意志そのものの模像とされるわけですから、音楽家マーラーは音楽によって意志が客観化する諸段階を表現しようとしたのかもしれませんね。――――――専門的な話で恐縮ですが、ショーペンハウアーのいう「意志」(Wille)を世界創造神のように考える汎神論的な見方(スピノザなどと対比される)は、ショーペンハウアー自身の考え方を曲解したものなので、改められるべきだと私は思っています。従来、ショーペンハウアーの哲学の中心にあるのは「意志の形而上学」とされ、これは通俗化されたショーペンハウアー像と結びついて多くの人の間で浸透してきましたが、これはあくまで受容する側が読みこんだ内容であって、ショーペンハウアーが意図したものからは離れてしまっています。彼が意志概念を導出するまでの経緯、その内容の変遷については、『ショーペンハウアー哲学の再構築』(法政大学出版)などの最近の研究成果が大変に参考になりました。度重なる無礼をどうかお許しください。

これは bernardsstar さんの 284 に対する返信です

 

R・SのSを知ったきっかけ

2001/ 8/22 11:47

メッセージ: 286 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

R.シュトラウスの伝記(音楽の友社・大作曲家シリーズ)を読んでいますが、それによりますと、R.シュトラウスがショーペンハウアーを知ったきっかけ は、1885年にマイニンゲン宮廷管弦楽団第一ヴァイオリン奏者だったアレクサンダー・リッターと友人になって、彼からヴァーグナー、リスト、ショーペン ハウアーの思想、音楽を教えてもっらたとのことです。このリッターという人は、ヴァーグナーの姪のフランキスカ・ヴァーグナーという人と結婚したそうで す。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

マーラーが書いた手紙

2001/ 8/22 22:36

メッセージ: 289 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

の文章を収録したサイトを発見しました。これも好事家必見といえそうです。http://www.haenchen.net/mahlerbu2.html

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

   

グルリット「北欧のバラード」世界初演

2001/ 8/25 23:25

メッセージ: 290 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

来年の5月12日、グルリットの7つ目の歌劇「北欧のバラード」がドイツのトリアー劇場で世界初演されることになりました。1944年作曲ですから、実に58年目にしての世界初演です。詳しくは拙トピ「マンフレート・グルリットのトピ」にて。この種の事情はシュレーカーの「クリストフォルス」、ツェムリンスキーの「カンダウレス王」にもみられます。

 

 

コルンゴルト「死の都」

2001/ 8/30 11:35

メッセージ: 291 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

が9月13日、15日にすみだトリフォニーホールにて、井上道義指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、東京初演されます。演奏会形式です。

 

アップ

2001/ 9/ 4 11:44

メッセージ: 293 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

あと3ヶ月すれば、一周年記念ですね。ベルトルト・ゴルトシュミット(1903〜1996)の音楽に興味を持っています。彼は、シュレーカー門下ですが、その音楽は、調性はありますが、澱みがなく透明感のある音楽で、テンポが速くなって音楽が華々しくなるところは、ショスタコーヴィチの4番を思わせます。僕は、歌劇「堂々たるコキュ」と歌曲集「地中海の歌」を持っていますが、他に、歌劇「ベアトリーヌ・チェンチ」、協奏曲集、管弦楽曲集がCDとしてリリースされています。

 

ゴルトシュミット

2001/ 9/ 4 21:21

メッセージ: 294 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

>あと3ヶ月すれば、一周年記念ですね。覚えていてくださって本当にありがとう。YAHOOのサーバーに負担をかけたくないので2万件も積み重ねるつもりはないんですが、千件くらいまでは行きたいですね。小 生、ゴルトシュミットはまだ聴いたことがありません。マーラーの交響曲10番(クックによる完成版)の完成に協力し、60年にはフィルハーモニア管を指揮 して初演まで行ったとは、実に興味深い人物ですね。ちなみに、ショスタコーヴィチやシェーンベルクは「10番」の補筆完成を要請されたが拒否したとのこ と。出所:http://www.ka1.koalanet.ne.jp/~yamatyan/mahler10.htmユダヤ人作曲家であり、1937年に「退廃音楽」の9人の作曲家に列せられたとの情報もあります。出所:http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/1263/favorato/Entartete_Musik.html蛇足ながら、ゴルトシュミットと間違えやすい作曲家の生没年、主要作品を整理してみました。ゴットシャルク:1829-1869 米国の作曲家。リオデジャネイロで没。交響曲「熱帯地方の夜」、ピアノ曲「最後の望み」「死の床の詩人」など。

 

ゴルトマルク:1830〜1915 ハンガリーの作曲家。交響曲第1番「田舎の結婚」、交響曲第2番変ホ長調、ヴァイオリン協奏曲、序曲「ペンゼレシレア」、序曲「春に」、序曲「イタリアにて」などコルンゴルト:1897-1957 オーストリアの作曲家(のちに米国に亡命)。交響曲嬰へ調、ヴァイオリン協奏曲、オペラ「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「ポリュクラテスの指輪」「カトリーン」、数々の映画音楽(「ロビンフッドの冒険」など)、などなどゴルトシュミット:1903-1996 ドイツの作曲家。歌劇「堂々たるコキュ」、「ベアトリーヌ・チェンチ」、チェロ協奏曲、クラリネット協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、歌曲集「地中海の歌」など。gur1zem2korn3さんがトピ主のトピで、ゴルトシュミットの作曲には空白期間があったと述べられていましたが、その期間は「前衛音楽」全盛で、堅実な作風の作曲家が割り込む余地がなかった。と解釈していますが、よろしいでしょうか?

これは gur1zem2korn3 さんの 293 に対する返信です

 

ゴルトシュミット(2)

2001/ 9/ 4 21:34

メッセージ: 295 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

http://utopia.knoware.nl/~jsmeets/cgi-bin/ccd.cgi?comp=goldschmidtによれば、1935年に英国に亡命、1937年に書かれた交響曲は廃棄されたとのこと。また空白期間の要因は、英国・ドイツにおいて、彼の作品に対する関心が高まらなかったせいとのことです。「owing to lack of interest in his music in Britain and in Germany」

これは bernardsstar さんの 294 に対する返信です

 

雑記

2001/ 9/ 6 10:45

メッセージ: 296 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

前衛音楽の停滞というのは1970年ごろであると何かの本で読んだことがあります。ちょうど、そのころから「頽廃音楽」の復権が始まったわけで、ゴルト シュミットの沈黙の時代の後半は、その復権の初期にあたります。1978年には、フライブルクでの師シュレーカーの歌劇「クリストフォルス」の初演があっ たわけで、おそらく、ゴルトシュミットは、復権の具合を見て、1983年になって、満を持して作曲を再開したのでしょう。

これは bernardsstar さんの 294 に対する返信です

 

ロゼー弦楽四重奏団

2001/ 9/ 9 0:59

メッセージ: 297 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

ロゼー弦楽四重奏団といえば、ヴィーン・フィルのコンサートマスターであるアルノルト・ロゼーが率いていて、シェーンベルクの「浄められた夜」、弦楽四重奏曲第1番、第2番を初演したことで有名です。また、ロゼーの妻は、マーラーの妹ユスティーネでありました。マ ンフレート・グルリットの兄、ヴォルフガング・グルリットは、ドイツ・オーストリア表現主義を中心にしたコレクションで、著名な美術商でしたが、彼のコレ クションを収めた、リンツ州立美術館の1979年に出版されたカタログの中に、1885年にヴィーンで生まれ、1954年にニューヨークで死去したマック ス・オッペンハイマーの作品で、Das Rose-Quartett,Radierungつまり「ロゼー弦楽四重奏団、エッチング(版画手法のひとつ)」というのがありました。この作品は、 1932年に作られ、35×27.5cmの大きさです。おそらく、一番左の人物がロゼーでしょう。エッチングを使った為か、熱演の様子が伝わってきます。美術館のURLは、http://neuegalerie.linz.at/カタログは、ショッピングのコーナーのところで、表紙がクリムトの未完の女性の顔が描かれた本が、僕の引用したカタログです。

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今日

2001/ 9/ 9 22:44

メッセージ: 298 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

未明,眠れなかったので,バルビローリとBPOのマーラー9番と,コンロンとケルンギュルツェニヒ管弦楽団による「王女の誕生日」を聞きました。

 

意図的なキリ番

2001/ 9/11 21:01

メッセージ: 300 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3

やった、300番目です。ウィーンのユニヴァーサルエディションのホームページの、一部の作曲家のコーナーでは,30秒間だけ、音楽を聴くことができます。ここ関連のものをあげておきました。ツェムリンスキー叙情交響曲歌劇「王女の誕生日」シュレーカー歌劇「はるかなる響き」クルシェネクバイオリン協奏曲歌曲ベルクバイオリン協奏曲歌劇「ヴォツェック」ヴェーベルン6つの管弦楽のための小品

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コルンゴルト「死の都」東京初演

2001/ 9/15 20:26

メッセージ: 301 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

すみだトリフォニーホールで、13・15の両日、井上道義指揮・新日フィル、マリエッタ&マリー:中丸三千絵、パウル:ルドヴィド・ドルゥハ 他のキャスティングで、歌劇「死の都」の東京初演がありました。小生が聴いたのは、15日の公演です。新 日フィルは、7日の「オーチャード・シリーズ」で、バーバー、コープランド、バーンスタインの作品の演奏会も聴き、コープランドの演奏に関しては苦言も呈 しましたが、今回の「死の都」に関しては、ヨーロッパの歌劇場オーケストラの演奏と比較しても遜色のない充実したもので、文句なし。特に、マーラー的 (「大地の歌?」)なオーケストレーションを際立たせるのに最も貢献したホルン・セクションは特筆に価すると思います。声楽陣に関して は、帰り道で様々な聴衆の声を聞くと、あまり評価しない意見もあったようですが、声楽にはあまり詳しくない小生としては、「声量がもう少しあったなら!」 という箇所はあったものの、全体的に見れば上出来、日本人(主体)によるオペラも中々!という感想を持ちました(ただ、この「死の都」はレアケースなのか もしれません。)小生、この歌劇を生で聴くのは、もちろん初めてです(京都の音楽愛好家の方は、日本初演を聴けてラッキーでしたね)。生 で聴くと曲に対する理解はさらに深まるわけでして、曲自体に対する感想を今少し付け加えますと、フルート独奏による下降音型は、コルンゴルドの交響曲 嬰 ヘ調の第3楽章で再現されていると思いました。オルガンによる賛美歌が挿入されているところは、マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を彷彿とさせ ます。

 

コルンゴルト「死の都」東京初演(2)

2001/ 9/15 20:31

メッセージ: 302 / 1464

 

投稿者: bernardsstar

ちょっぴり苦言を呈させていただきますと、この歌劇のストーリー展開で重要な役割を担う、マリーの肖像画。この絵は、京響の公演で、ある画家に委嘱して描いてもらったものを今回も使ったそうですが、今イチでした。

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僕も聞きました。

2001/ 9/16 22:55

メッセージ: 303 / 1464

 

投稿者: gur1zem2korn3 (200歳/男性/関東)

音楽そのものはすごく気に入りました。オケの部分は、全体的にはちょうどいい大きさで鳴っていましたが、金管も鳴らしすぎでもなく堂々 とした響きをしてましたが、弦のところが余りよく聞こえませんでした。弦をよく響かしてこそ、コルンゴルトの豊かな音色の世界を形成できると思います。井 上氏の音作りは何か直線的で、固い気がしました。コンサートオペラ形式とはいうものの、歌手、合唱は場所を移動しつつ歌っていました。ちなみに、 昨年のグルリットの「ヴォツェック」日本初演はコンサート方式で、歌手・合唱はずっと定位置でした。移動しながら歌うのはより舞台上演に近づける意図があ るのだと思われましたが、それにしてはステージの後ろとオルガン席のある通路という空間だけでは狭すぎます。むしろ、定位置で歌った方がよかったのではと 思います。友人が「演出が中途半端」と言っていたのも納得できます。bernardsstar様の言われるように、上演で使った女性を描いた絵 は、何か学芸会に使うような感じで、変でした。あと、オルガンの上に、ミラーボールみたいなのをつけたり、ドライアイスの白煙のようなのをステージジィ上 で流すのは、何かごちゃごちゃして品がないように思えます。

これは bernardsstar さんの 301 に対する返信です