カンディンスキー展
2002/ 3/24 6:23
メッセージ: 427 / 1474
投稿者: bernardsstar
3月26日から5月26日までの期間、東京国立近代美術館(地下鉄東西線竹橋駅下車、北の丸公園内)で開催されます。
大人当日1300円(前売り1100円)です。
シェーンベルクの音楽との接点についてさらに知見を深められる展示があることを期待しています。
これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です
Re:アンブルッフのCDROM
2002/ 3/24 6:42
メッセージ: 428 / 1474
投稿者: bernardsstar
情報ありがとうございます。
登録しなければいけないようで、小生もまだ、このCD-ROMの詳細を見ていませんが、
ユニヴァーサルエディションのHPの他のページには、シェーンベルクなどの作品のコンサート情報
http://www.universaledition.com/truman/en_templates/view.php3?f_id=1063
があって興味深かったです。ただ、このサイト、とても重い。
これは gur1zem2korn3 さんの 426 に対する返信です
読書
2002/ 3/26 21:36
メッセージ: 429 / 1474
投稿者: gur1zem2korn3
小生は、現在みすず書房から出版された「コルンゴルトとその時代」を読んでおります。今は「空騒ぎ」のところです。今月号のレコ芸に著者の早崎氏が長木誠司氏との対談で載っていましたね。この本は、ここのトピでもさかんに取り上げられててブームとなっていましたが、ブームに遅れるというのが小生の常であります
早崎さんのHP
2002/ 3/27 0:56
メッセージ: 430 / 1474
投稿者: Bea_Smy (29歳/jp)
一年以上更新されていませんが……↓。
http://www4.justnet.ne.jp/~eden/author.h
これは gur1zem2korn3 さんの 429 に対する返信です
作者様は
2002/ 3/28 23:44
メッセージ: 431 / 1474
投稿者: nx_74205defiant
発表会でコルンゴルドの歌曲を歌うにあたり、メールを数回交換させていただきました.とても楽しいお話を聞かせていただきました.
これは Bea_Smy さんの 430 に対する返信です
今日の図書館での収穫
2002/ 3/29 0:36
メッセージ: 432 / 1474
投稿者: gur1zem2korn3
前回書いた本のコピーを、また近くの図書館でしてきました。今日は、ヒンデミットの「殺人者、女たちの希望」「ザンクタ・スザンナ」「ヌシュ・ヌシ」、そしてシュレーカーの「烙印を押された人々」「宝を探す男」です。あとグルリット関連でツィンマ−マンの「軍人たち」、アイネムの「ダントンの死」をコピーしてきました。ベルクの「ヴォツェック」については、他に、日本語で文献があるのでしてきませんでした。
あと、数日前、グーグルの日本語で、シュレーカーかツェムリンスキーでサーチしたところ、ザルツブルク音楽祭のところに行き当たりました。今年、ルジツカ体制になって、ツェムリンスキーの「カンダウレス王」(ルジツカがハンブルクオペラの支配人だったときに初演されました)が演奏されますが、彼の時代では、「頽廃音楽」もひとつの柱になるようで、シュレーカーの「烙印を押された人々」、コルンゴルトの「死の都」あたりが予定になっているということでしたが、真相はどうなのでしょう。
これは gur1zem2korn3 さんの 420 に対する返信です
追記
2002/ 3/29 0:45
メッセージ: 433 / 1474
投稿者: gur1zem2korn3
http://www.music.co.jp/classicnews/overseas/library36.html
の下のほうです。
これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です
近況
2002/ 3/29 5:52
メッセージ: 434 / 1474
投稿者: bernardsstar
gur1zem2korn3さまはじめ、皆様、投稿ありがとうございます。小生、このところ、「科学」「工学」「JOB興し」のトピで「風を当てると浮上・空中静止する物体」の開発・内容説明に忙しい毎日(24H−睡眠時間−勤務・通勤時間)を送っております。浮上方法は確立しましたが、空中静止にはもうひと工夫必要です。
というわけで、ウィーン19世紀末、20世紀初頭の音楽 へのレスがしばらく遅れ気味となることをご容赦ください。
空中静止技術が完成したら、建築のデザインを施して(例えば、ウィーン国立歌劇場、プラハの国民劇場)、「空中楼閣」が宙に浮いている姿を皆様にお目にかけたいと思っております。
(開発の進展を報告するサイトも立ち上げました)
http://members.tripod.co.jp/bernardsstar/ber1.html
「音楽」のほうは、今、例の「退廃音楽シリーズ」のCDで、「ゴルトシュミット作品集」を入手しました。このCDには、「偉大なるコキュ」が杯っておりませんが、この歌劇もいずれ聴いてみたいものです。
シュレーカー、ツェムリンスキー、コルンゴルト、ゴルトシュミット、F・シュミット(F・シュミットは退廃音楽の中には列せられていないと思いますが)の代表作のオペラが歌劇場の主要演目となる時代が70〜80年ほど遅れてやってきた。という気がします。
これは gur1zem2korn3 さんの 433 に対する返信です
ラングストン・ヒューズ
2002/ 3/29 18:43
メッセージ: 435 / 1474
投稿者: gur1zem2korn3
今日朝日新聞の夕刊の文化欄の「海外文化」というところで、「黒人詩人ヒューズ生誕百年」という記事が載っていました。この記事には、ヒューズ受容の現状、日本における受容、彼の文学の特徴、アメリカ文学における彼の位置などが述べられています。
僕は、彼の名を、ツェムリンスキーの「交響的歌曲」のテキスト作者として知りました。神保町の三省堂書店本店のアメリカ文学のところでも、ラングストン・ヒューズの作品の邦訳があったので読んでみようと思います。
記事によれば、日本におけるヒューズ受容は、ツェムリンスキー受容よりも一足早く1950・60年代から始まっていたとのことです。
そして、彼の文学の特徴は、詩の口調のよさや、その素朴に見える表現の中に深い洞察と思想が含まれているということです。
「『自分たちが美しいことを知っている。そして醜いことも』と言える巧みなバランス感覚を持ち」というくだりには、ツェムリンスキーの歌劇「小人、あるいは王女の誕生日」における「醜さ」に直接通ずるわけではないけれども関連があって興味深いです。
またヒューズの「アフリカン・アメリカンの作家の役割模範」という位置付けも、教師として、いろいろな人を教えたツェムリンスキーに通じるような気がします。
また、ヒューズが1930年代ソ連で1年間過ごし、短い間共産党に入党したという事実は、ヴォルプスヴェーデの指導的画家ハインリヒ・フォーゲラー、また表現主義美術の擁護者ヘルヴァルト・ヴァルデンのそれと比べると、前述の「役割模範=指導的地位」ということも考え合わせれば極めて興味深いことです。
ツェムリンスキーがゲーテ、モルゲンシュテルンといったドイツ語作家の作品を取り上げただけでなく、イギリスのワイルドやシェークスピア、東洋詩人のクラブント、インドのタゴール、フランスのジード、ベルギーのメーテルリンク、そして前述のアフリカン・アメリカンのヒューズやカウンティー・カレンの作品に曲をつけたことに見られる、テキスト選択のオールラウンド、全世界的なところは、この記事の後半の、(ヒューズは)「『アメリカのオールラウンドな記録者』を任じていたのであり、・・・・・アフリカン・アメリカンであるからこそ『黒い』アメリカを含んだ『オールラウンド』なアメリカを語ることができる」に通じるところがあってなりません。
これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です
近況(2)魔法の帽子
2002/ 3/31 22:07
メッセージ: 436 / 1474
投稿者: bernardsstar
空中停止はまだ達成していませんが、驚くべき魔法の帽子が出来上がりました。下記を参考に、ぜひ作ってみてください。不思議な触感に驚かされます。
http://members.tripod.co.jp/bernardsstar/ber1.html
http://members.tripod.co.jp/bernardsstar/020331draw1.jpg
http://members.tripod.co.jp/bernardsstar/020331draw2.jpg
ひとつ成果が出たので、今後は、音楽研究に力を入れていきます。
これは bernardsstar さんの 434 に対する返信です
Re:ラングストン・ヒューズ
2002/ 4/11 21:24
メッセージ: 438 / 1474
投稿者: bernardsstar
ご紹介いただきありがとうございます。僕は、この詩人の名は初耳ですが、興味深い人物ですね。彼の詩を収録したサイトは、
http://www.recmusic.org/lieder/h/hughes/
ですね!
gur1zem2korn3さんのドイツ史のサイトにはしばらく伺っておりませんが、小生、最近、プロイセン史に興味を持ち始めました。東洋書林から出ている「プロイセンの歴史」という本は図・写真が多く収録されていて、良い本だと思っています。
これは gur1zem2korn3 さんの 435 に対する返信です
レオポルドシュタット今昔
2002/ 4/14 0:18
メッセージ: 439 / 1474
投稿者: la_vera_storia
小澤征爾氏がウィーンフィルを振った今年の新年コンサートのCDの売れ行きは上々のようです。私も元旦は別のことをやりながら、横目でチラリチラリとTVで放送を観ていました。そうしているうちに、だんだんと複雑な気持ちになってきたのでした。
昨年の8月末より9月初旬にかけて、のんびりとウィーン、ブルノ、コート・ダジュールなどをぶらぶらしてきたのですが、ウィーンで暇な時間に訪れたシュトラウス記念館や、その周辺地区(2区のレオポルドシュタット)の光景が眼に浮かんできました。御存知のようにワルツ王一家はユダヤ系であり、その生活拠点はウィーンの川向こう(正確には運河向こう)であるレオポルドシュタットです。この地域は戦前多くのユダヤ人が居住していました。そして現在では、下町地域独特のわびしさが漂っている地区となっています。私はこの地区にあるシュトラウス記念館(彼の住居)を訪れてみると、非常に質素で、さびしさを感じさせるたたずまいであり、国立歌劇場での舞踏会などの光景を思い出すと、そういう世界との非常な落差を感ぜざるを得ませんでした。世紀の転換期におけるユダヤ人の生活、両大戦間における彼らの運命、そして現在の商業化されきってしまったウィーンフィルの新年コンサート....なんとも感慨なしにはいられません。
ユダヤ系オーストリアの作家ヨーゼフ・ロートは次のように書いています。
「.....レオポルドシュタットは貧しい地区である。6人家族の一家が住んでいるような小さな住いがいくつもある。床の上で50人も60人もの人間が夜をすごしているような小さな宿屋がいくつもある。浮浪者たちはプラーターを寝座にしている。駅の近くには労働者のなかでも一番貧しい者たちが住んでいる。東方ユダヤ人の生活はこの地区のキリスト教住民より決してよくはない。」
「放浪のユダヤ人」(ヨーゼフ・ロート著)法政大学出版局
私はシュトラウス記念館を出たあと、深い感慨をいだきつつ、肌寒い雨の降る中、近くにあったユダヤ教会の横を通ってドナウ運河まで歩いたのでした。
シュトラウス記念館の様子は下記でご覧になれます。
http://www.geocities.com/Vienna/Opera/9436/Vienna/JohannsHouse/Tour.html
以下はこの記念館概要です。
http://www.museum.vienna.at/dynamicPage.asp?MenuID=1727
以下はこの記念館の場所の案内です。
http://service.magwien.gv.at/wien-grafik/inline/gif/Praterstrasse_54.gif?scale=5 000
barnardsstarさま
一応は「はじめまして」と申しあげておきます。いつぞやは大変お世話になりました(と言ったらおわかりになるでしょうか?)。私は1月より「ワーグナートピ」「オペラ投票トピ」に投稿している者であり、本トピにも「再参加」したいものだとタイミングを狙っておりました。ところが最近、事情があって「断筆」に自分を追い込まざるを得なくなりました。とりあえずは御挨拶だけはいたしておきたく恥じをしのんで、のこのこと現れました。昨年、 bernardsstarさんの影響のせいか、ブルノを再訪いたし、ヤナーチェク関連の施設等を時間をかけて廻ってきました。ついでにコルンゴルトのルーツ探索をしようとしましたが、時間がなくめぼしい成果はありませんでした。 ひょっとして将来、また本トピに「出現」するかもしれませんが、なにとぞ御容赦をお願い申しあげます。
これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です
レオポルドシュタット
2002/ 4/14 16:34
メッセージ: 440 / 1474
投稿者: bernardsstar
la_vera_storiaさま
恐らく、横浜市中区にお住まいの○○○さんですね?お久しぶりです。
>ところが最近、事情があって「断筆」に自分を追い込まざるを得なくなりました。
と、堅苦しくお考えにならず、どうぞお気軽に投稿いただきたく。
小生、数年前にウィーンに行った時(商用でした)、まだ、「渡辺真理著:ウィーンのユダヤ人」も読んでおりませんでしたから、レオポルドシュタットがいかなる意味をもつ地区なのかも知らずに足を踏み入れました。リングがドナウ運河に突き当たるショッテン・リング駅のあたりから、橋を渡って数分のところにある事務所に行って商用を済ませた記憶があります。
このトピのログを御覧になりますとおわかりだと思いますが、昨年12月、小生はプラハに行っています。3泊5日の予定を、現地で4泊6日に延長しましたが、それでも、とてもプラハの全てを見ることなど不可能でした。ブルノについても、同様のことが言えると思われます。小生もコルンゴルトのルーツを調べたいという「野望」は持っているのですが、実現はいつのことやらです。
ウィーンの音楽状況=商業主義の肥大化には小生も危惧をもっています。また、一方で、12月にプラハの音楽状況に対する感想を投稿いたしましたように、現実に音楽で飯を食っている人々にとっては、「ルドルフィヌム」に集まった客が数えるほどという状況は、まさに彼らの存在自体を脅かす危機であり、有象無象でもいいから観光客に集まってきてもらいたいという気持ちもわからないでもないと感じました。(ロシアの状況はもっと深刻なようで、最近、朝日新聞が西本智美:ボリショイ響に関連して報道しています)
小生のビジョンに話を戻しますと、ツヴァイク:「昨日の世界」を読むことによって触発された、ハプスブルク時代の「良い部分・懐かしい部分」をイメージとして再現したいという想いがあります。この想いが最近、プロイセンについても同様のことをやってみたいという野望に転化し、まだ行ったことのない、ベルリン、ポツダムなどを訪問したいという気持ちを掻きたてています。ヒトラーの侵略の要となったということで、「プロイセン」は恐れられ、否定されてきたわけですが(第2次大戦末期にプロイセン貴族ゆかりの将校はヒトラー暗殺を企てましたが失敗し自決しましたが、この事実は「プロイセン」評価の根拠にはならなかった)、プロイセンの実像は、フンボルト、ライプニッツ、フリートリヒ大王、画家のフリートリヒ、カント、・・・などなど、優れた文化を生み出した「国家」でした。
というわけで、YAHOO掲示板のクラシックに限定しても全てのトピをチェックする余裕はありません(できれば、朝から晩までPCに向かって好きなことをやっておればいいという優雅な身分になりたいものです。が小生はしがないサラリーマンです)。「ワーグナートピ」「オペラ投票トピ」のほうの議論の発展にはついていっておりません。この点に関してはご容赦いただきたく。
長生きして「平成のフンボルト(伊能忠敬でもいい)」になれたらこの上ない幸せです。
これは la_vera_storia さんの 439 に対する返信です
プロイセン史(大トピずれ御容赦を!)
2002/ 4/18 2:02
メッセージ: 441 / 1474
投稿者: la_vera_storia (男性/断筆中)
断筆した者が、あまり何度も顔を出すのはおかしいのですけれど、bernardsstarさんがプロイセンのことに触れていらっしゃいますので、ちょっと私からも述べます。
bernardsstarさんが興味を持たれているのは「プロイセン史」でしょうか、それとも「プロイセンにおけるベルリン(ポツダム)」ということでしょうか? もし前者なのでしたら、なかなかすばらしい本がありますよ。以下を参照して下さい。
http://europeanhistory.about.com/library/prodrev/aatpprussia.htm
私はこれらの本のうち、(1)(2)(4)は持っています。特に(1)(4)はプロイセンについて広い視野から多層的に概観している本で、私は大いに推薦します。(2)については、おやめになられたほうがいいと思います。著者の見方に偏見と、かたよりがありますので。やっぱり通史というものになると、たとえ「ドイツ史」であっても英米系の本が一番だという印象です。日本語で書かれたプロイセン史の本は良く知りませんが、しかし日本のドイツ関連プロパーの方々の書かれた本には、正直言って期待できないような気がします。(ワーグナーに関してもそうですが)
それから、ヒトラー暗殺未遂事件 (July 20,1944)のことでbernardsstarさんが触れていらっしゃる貴族は、この事件の首謀者のシュタウフェンベルク(Claus Schenk von Stauffenberg)のことでしょうか? もしそうだとしたら、彼は自殺はしていませんよ。(自殺したというのは新説でしょうか?) 彼は他の実行者と一緒に銃殺処刑されています。この場所は現在は記念館(Gedenkstaette Deutscher Widerstand)となっています。私も訪ねたことがありますが、彼が銃殺処刑された中庭には記念碑があり、花も捧げられていました。以下を御参照ください。
http://www.gdw-berlin.de/start-d.html
この事件に関与したと疑われ、あとから逮捕された者たちはみなプレッツェンゼー刑務所に入れられたあと、形ばかりの裁判のあと処刑されています。この場所は現在は記念館(Gedenkstatte Ploetzensee)となっており、処刑に使用された部屋も残っています。
http://www.gdw-berlin.de/ged/ploetze1-e.htm
かつてかなり以前(四半世紀ほど前に、最初に私が見学した時)には、この部屋の床にはこびり付いた血の跡がはっきりと残っていましたが、あまりにショッキングなためか現在ではすっかり塗装されてしまっています。
私は一時期かなりこのシュタウフェンベルクという人物に興味をもって、いろいろ調べたことがあります。旧東独では彼については「英雄」という扱いでしたし、西独でも彼を賞賛する意見は多いようです。ただ、いろいろと考えるべき問題は多いでしょうね。それから、bernardsstarさんの触れていらっしゃるシュタウフェンベルク(?)の「プロイセン貴族」としてのルーツですが、以下に決定的に素晴らしい本がありますので御紹介いたします。もし bernardsstarさんがシュタウフェンベルク自身に興味がおありでしたら、以下の本は<must>だと思いますよ!
http://www.arts.mcgill.ca/programs/history/faculty/hoffmann/stauffenberg_eng.htm l
ベルリン(特に東西分裂時代)については、私は自分で言うのもなんですが、かなりの回数訪れており、相当詳しいと自惚れていますので(なにしろStasiのファイルには注意人物として私の名前が載せられてしまった!)、話だすと本当に止まらなくなってしまいますので、またこの辺で消えます。
しばしの期間、本当に消えますので御了承のほどを。 失礼いたしました!
これは bernardsstar さんの 440 に対する返信です
Re:プロイセン史
2002/ 4/18 22:00
メッセージ: 442 / 1474
投稿者: bernardsstar
プロイセンの歴史のうち、フリートリヒ大王の時代は、ポーランドを3分割するなど、領土拡大の時期でした。プロイセンのポーランド民族支配は、ハプスブルクのチェコ民族支配と異なり、ポーランド語・文化を尊重する形で行われたとのことです。19世紀初頭にナポレオンがヨーロッパで大暴れしたあおりで、プロイセンは領土を失い、純粋ドイツ人国家となりました。が、一方、このフリートリヒ・ウィルヘルム3世の治世に、どちらかというと地味だったプロイセンの文化は大きく花開きます。この投稿で全てを列挙することは不可能なので、特にシンケルが設計したベルリンの建築物を挙げておきます。小生は文学よりも、眼に直接的な印象を与える建築のイメージのほうが好きなのであります。(あと画家のゲルトナーとフリートリヒ)
la_vera_storia さんに教えていただいた書籍を将来入手したいと考えております。今は、先に触れた、東洋書林の「プロイセンの歴史 伝説からの解放」(ハフナー著)(紹介いただいた本の2もハフナー著ですが、「プロイセンの歴史 伝説からの解放」の原題は、Preussen ohne Legendeです)を読んでいます。この本は図版が多いことが大きな魅力。その中でも、1914年7月1日の「動員前日のベルリンでの緊迫した戦争の危機の布告」というベルリン街頭の兵士・群集の写真が最もドラマチックで印象に残りましたね。なお、この本には、シンケルが18世紀末のフリートリヒ・ウィルヘルム2世の治世にも、ベルリンの都市計画を行っていたことが書かれており、この計画が完成していれば、モーツァルトがベルリンに住み着いていた可能性があると指摘しています。
1944年のヒトラー暗殺失敗に関しては、プロイセン貴族の最後の抵抗・・・本来、プロイセン貴族は誇り高く、1兵卒から成り上がったヒトラーに盲従して侵略を行うのは潔しとしなかったのだが、大恐慌による民衆の疲弊、そこから来る大衆のヒトラー賛美に抗することができなかった・・・という側面からプロイセンというものを眺めています(この点で、日本(特に日本海軍)とドイツは似ている。ただし、日本にはヒトラーに匹敵するカリスマが存在しなかった)。そういうわけで、シュタウフェンベルク(バイエルン人)というよりもプロイセン貴族出身将校全体(ヨルク、モルトケ、ハルデンベルク、シューレンブルク、クライスト、シュヴェリーンなど)に興味あり、です。さらにベック(この人はプロイセン出身だったかどうか?)は、2度自分を撃って自決しようとしたが果たせず、居合わせた軍曹にとどめをさしてもらうという壮絶な死に方をしました。このあたりは学研から出ている「ドイツ参謀本部興亡史」(ゲルリッツ著)で読みました。
いずれにせよ、プロイセンはプロイセンのままでいることができず大ドイツに組み込まれたことが失敗だった、その伏線としてビスマルクの功績による繁栄が薮蛇となって崩壊への糸口となったことは事実のようです。
さらに、次の2点について述べておきます。
(1)19世紀までの戦争は元首が個人的に辱めを受けたことの報復、といった契機で戦争が開始されるのが通常だった。第1次世界大戦もその延長上にある戦争だったが(もちろん、背後には兵器産業の暗躍もあったと考えられるが)、このような単純な理由で開始された戦争によって計り知れない損害を与えてしまったという教訓から国際連盟が生まれ、国際連盟によっても第2次世界大戦を防止できなかったことから国際連合が生まれた。が、現在においても、支配者の恣意から起こる戦争の危機を抑止しきれているのかというと疑問かも知れません。
(2)明治時代の日本はプロシャに学んだ。が、現在、プロシャとは何だったのかという反芻(「反省」とはあえて言いません)が、現在、日本において行われていないのは、チト問題と考えております。
さて、音楽の話題に戻りまして、先日紹介しました、「カンディンスキー展」に行って、「ウィーン世紀末音楽」との接点を探るという件、GW中には実行しようと考えています。同時期に三越で「グーテンホーフ光子」の展示もやっていますので、こちらも(音楽との接点がないかと)楽しみです。5月9日のサントリーホール「フルブライト音楽祭」にも行きます。楽しみにしている曲は、コルンゴルト「空騒ぎ」、ラフマニノフ「チェロソナタ」、アイヴズ「ピアノ・トリオ」であります。
これは la_vera_storia さんの 441 に対する返信です
information of schreker in kiel
2002/ 4/22 23:56
メッセージ: 443 / 1474
投稿者: gur1zem2korn3
Christophorus FLAMMEN
http://www.kiel.de/buehnen/index2.html
これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です
シュレーカーとキール
2002/ 4/23 21:23
メッセージ: 444 / 1474
投稿者: bernardsstar
例の、「Flammen」のCDは冒頭を聴いたのち、そのまま・・です。GW中に全曲聴き通そうと思っています。(このCDは買ったものですが、「退廃音楽」シリーズのCDは図書館から借りて聴いている。)
gur1zem2korn3さんは、「グルリット」のトピで最近、様々な新情報を提供されていますが、GW中にそれらの情報についても吟味してみたいと思います。
これは gur1zem2korn3 さんの 443 に対する返信です
炎
2002/ 4/28 13:51
メッセージ: 445 / 1474
投稿者: ZAKKYO2000
私もこのCDを何回か聴いたのですが、かなり聴きにくいオペラで、最近はすっかり敬遠しています。
買ったのが輸入版で自分では訳し切れないことに加え、音楽が淡々としていてオペラというよりもドラマに近いため、映像なしではかなりつらいものだと思います。
「徴付けられた人々」や「遥かなる響き」などのほうがずっと分かりやすいでしょう。
これは bernardsstar さんの 444 に対する返信です
シュタインバッハでの体験 (1)
2002/ 4/29 2:32
メッセージ: 447 / 1474
投稿者: la_vera_storia (男性/一時覚醒中)
マーラーというユダヤ人作曲家が、一般のオーストリア人にとってはどういう存在なのかという点について、私の体験したエピソードを紹介させていただきます。時は70年代後半、場所はザルツブルク近郊のSalzkammergutと呼ばれる風光明媚な地方のことです。
夏の間のザルツブルク音楽祭(正確には Salzburger Festspiele)に行っていた私は、オペラとコンサートの合間を縫って天気の良い日曜日にSalzkammergutにある湖のアッター湖 (Attersee)に行くことにしました。この湖畔のシュタインバッハ(Steinbach am Attersee)こそ、かのマーラーが第3交響曲に集中して取り組んだ町であり、その作曲小屋が残存しているということを知っていたからです。湖の反対側の町より船に乗って、いよいよ目的のシュタインバッハの町が接近してきた時には、本当に胸が高まり、第3交響曲の終楽章のメロディーなども口ずさんで、もうルンルン気分です。
さて、下船した私はさっそく「作曲小屋」に行こうとしましたが、あいにくと船上から確認していなかったためか、すぐには場所はわかりません。小さな町の観光案内所もあいにくとその日は日曜日であり、開いていませんでしたし、喉も渇いてきましたので、町の坂を登っていき、ようやく開いているカフェ(らしきもの)に入り、ビールを注文しがてら、「作曲小屋」の場所を尋ねようという目的です。
入ると、地元のおじさんたちが何人もビールを飲みながら、大声で話していますが、土地のなまりのせいか、何を話しているのかわかりませんが、私が入っていくとみんな珍しそうな顔をして振り向くものの、おしゃべりは継続です。 私は注文したビールを運んできた若い女性に、「マーラーの家はどこですか?」と尋ねました。ところがその女性は、「え....?」という顔をするばかり。私は不思議に思い、あらためて「グスタフ・マーラーの作曲小屋はどこですか?」と聞き返すと、「そんな人はこの町にはいませんよ!」との返事。
いらいらしてきた私は、「マーラーというのはもう何十年前に死んだ有名な作曲家であり、この町で第3交響曲を作曲したのです。その作曲小屋が残っているはずです。知らないはずないでしょう。」と言うと、その若い女性も不機嫌そうな顔になってきました。こういうやりとりをしている間、さっきまで賑やかにビールでおしゃべりしていた地元のおじさんたちは、だんだんと静かになってこちらの会話を耳をすまし聴いている気配がはっきりと感じ取れます。しかも、おじさんたちのヒソヒソ声の会話を聴いていると、「マーラー」という名前が何度もはっきりと聴こえ、雰囲気では全員みな知っている様子。なにか理由があって教えてくれないような空気をはっきりと感じとれた私は、本当に当惑しました。
そうこうしているうちに、奥から店の主人らしい中年の女性が現れ、「あなたはどこから来たの? 今日来たの? 何故マーラーのことなど尋ねるの? その人はよく知りませんね。 あなたも変った人ねえ....」などと言うものの、結局は教えてくれませんでした。 嫌気のさした私は金を払って店を出ましたが、私の背後で、「マーラー!」と、いまいましそうに言う複数のおじさんの声がはっきりと聞こえたのでした。
その店を出た私は、その後たいした苦労もなく「作曲小屋」を見つけたのですが、しかし「町の名所旧跡」という雰囲気はまったくなく、忘れられた小屋のようなたたずまいを感じて、かえってマーラーが作曲にいそしんだ当時の雰囲気を感じることができたのは、皮肉なことです。
(続く)
これは bernardsstar さんの 442 に対する返信です
コルンゴルドを歌ってみて.
2002/ 4/29 2:56
メッセージ: 448 / 1474
投稿者: nx_74205defiant
こんばんわ。割り込みをして申し訳ありません.久しぶりの投稿となるのですが.
七月にアマチュアによるコンサートで何曲か歌う機会に恵まれました.そのうち一曲にコルンゴルドの『死の都』のリュートの歌を選びました.彼の歌曲も、何曲か人前で披露したことはあるのですが、いかんせんどれも短いので、持ち時間(18分前後)が持たないのです.これなら5分少々と長いですし.
いつもは年に二回ほどの、オーストリア愛好家の集まりで歌っているのですが、初期の歌曲などを歌うと、リート好きのお客さんから「コンデンポラリーミュージック(?)に近いね」と言われたりします.彼の魅力である、溢れる大衆性のゆえでしょうね.今、チェコ語の勉強もしているので、機会があったらテレジンの作曲家達の歌曲もその会で披露したいと思っています.
これは la_vera_storia さんの 447 に対する返信です
シュタインバッハでの体験 (2)
2002/ 4/29 3:50
メッセージ: 449 / 1474
投稿者: la_vera_storia (男性/一時覚醒中)
さて、70年代後半にはこの「作曲小屋」とシュタインバッハ住民との微妙な関係が推察できたのですが、要するにこうでしょう。それは、彼らにとってはマーラーというのは2重の意味での「異邦人」、つまり「高級音楽」作曲家であり、そしてユダヤ人である.....。 自分たちの住んでいる田舎町に来て、いきなり「マーラーの....」などと質問する東洋人には、彼らもどこかに苦い気持ちを持っていた...。
そうはいうものの、最近ではこの「作曲小屋」も小奇麗に修復されて、すっかりとシュタインバッハの観光名所として「売り出し中」のようですね。観光客誘致のためだったら、なんでもやるというのも当然かもしれません。あれほどザルツブルクを嫌悪してウィーンに出ていったモーツァルトに対して、現在のザルツブルクは「モーツァルトの街」として胸を張っている...。ウィーンにしてもそうです。
最近、クラウディオ・アッバードがベルリンフィルを指揮したマーラーの第3交響曲のCDが発売になりましたが、かつてのアッバードはこの曲の終楽章を、まさにマーラーの言葉通り、シュタインバッハから観たアッター湖の風景、というように指揮していました。しかし、今回の新盤ではこの終楽章に対して、歌として鋭く切り込むと同時に、そこに深い感慨、詠嘆をも感じさせる指揮をしており、そこにあきらかに人間マーラーへの敬愛の情さえ感じさせるのです。 時と時代の変遷....マーラーという作曲家に対する人々の想いも、時を経るにして違うものになっていくものだ、という気持ちを強くもちました。
以下はアッター湖の地図です。湖の青いところをクリックすると地図が拡大します。
http://www.attersee.at/C1256B59003523B6/dblaunch?Openagent
以下はアッター湖から望むシュタインバッハと、作曲小屋です。
http://www.gustav-mahler.org/deutsch/gedenkstaetten/steinbach.htm
bernardsstar さま
プロイセン史での御興味とは、私もちょっとびっくりしました。でもなかなかおもしろい視点をお持ちですね! プロイセンが大ドイツに組み入れられた原因、そして第3帝国におけるプロイセン貴族、このあたりは私が紹介させていただいた<The Rise of Prusia 1700-1830><Modern Prussian History 1820-1947>に実に見事に記述されています。Dwyer氏が編集したこれらの本には何人かの専門家が、いろいろの視点から担当していますが、特に2冊目の本では、<Prussia's military legacy in Empire,Republic and Reich 1971-1945><Prussia,Prussianism and National Socialism 1933-47>という2章が、なかなか参考になると思います。それからシュタウフェンベルクですが、彼がバイエルン人というのは、正確ではありません。貴族である彼の軍人としてのバックボーンはプロイセンにあります。彼の母方はプロイセン貴族であり、シュタイフェンベルクは対ナポレオン戦争で大活躍した将軍(General Augustus von Gneisenau)
http://www.clausewitz.com/CWZHOME/CWZSUMM/Gneisenau.html
の曾孫にあたります。これこそがシュタウフェンベルクという人の軍人としてのプライドの源泉なのです。それから、ベックという人はプロイセン出身ではないようですし、貴族でもないと思いますが。
http://motlc.wiesenthal.com/pages/t005/t00592.html
http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/BeckLudwig/
bernardsstarさん御指摘のテーマを考えるにあたって私は以下がポイントだと思います。
(1)カトリック教徒貴族の軍人とプロイセンそしてナチとの関係
(2)国防軍とSSとの関係
今夜はここまでにいたします。また時間をおいて現れますので、よろしくお願いいたします。
これは bernardsstar さんの 442 に対する返信です
前投稿の参考URLを訂正
2002/ 4/29 4:00
メッセージ: 450 / 1474
投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)
前投稿でアッター湖の地図としてURLを以下のように貼り付けましたが、
http://www.attersee.at/C1256B59003523B6/dblaunch?Openagent
このサイトの左上の Lageplan というところをクリックして下さい。そうしませんと地図が出ません。失礼しました。
これは la_vera_storia さんの 449 に対する返信です
光子・クーデンホーフ
2002/ 4/29 23:43
メッセージ: 451 / 1474
投稿者: bernardsstar
昨日、多くの方からご投稿いただき、感謝感激です。本日中のレスはできませんでした(申し訳なく)。しっかりと勉強させていただきたく。
本日、横浜高島屋で「光子・クーデンホーフ」展の最終日でした。NHKの特集番組のバックで、マーラー「交響曲4番、第3楽章」「6番、第1楽章」が使われましたが、この展覧会を見る限り、クーデンホーフ=カレルギー家と「音楽」との関係はそれほど深くありません。
光子の夫、ハインリヒは、1894年、東京での初のオペラ公演(もちろん、かなり簡素化された演奏だったでしょうが)で「ファウスト」(作曲者は?)のメフィストフェレス役を歌ったとのこと。
次男、リヒャルトの妻は、女優、イダ・ローラン(Ida Roland)ですが、この結婚は反対を受けたとのこと。家に帰って、イダ・ローランをNETサーチで調べたところ、ユダヤ人の家系であったとのことです。どんな役柄が多かったかの情報は、ネット上にはほとんどありません。わずかに、
http://www.uni-lueneburg.de/fb3/forschung/ihmf/sora/sora.rtf
の14ページに、ハインリヒ・マンのコメディーの主役をつとめたとことが書かれてありました。
なお、本日、カンディンスキー展にも行きましたが、この感想は明日記載します。
これは bernardsstar さんの 446 に対する返信です
カンディンスキー
2002/ 4/30 19:12
メッセージ: 452 / 1474
投稿者: bernardsstar
カンディンスキーと音楽との関わりは、
(1)ロシア生まれの作曲家、トーマス・フォン・ハルトマンを生涯の友とした
(2)1911年、ミュンター、マルク、ヤウレンスキーとともにシェーンベルクのコンサートを聴き、シェーンベルクとの文通が始まる。
の2点が挙げられますが、(2)に関しては、
http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0571131948/categoricalgeome/002-5312577-7 333658
に往復書簡の研究書が紹介されていました。
カンディンスキーの作風に対する小生の印象ということでは、「コンポジション」シーリーズが全て左下から右上に続く、空中楼閣(UFO?)のような感じがしました。彼が我々と同時代人であったなら、きっとCGの大家になったのでは?と思いました。
これは bernardsstar さんの 451 に対する返信です
マーラー「交響曲第3番」
2002/ 4/30 19:21
メッセージ: 453 / 1474
投稿者: bernardsstar
小生のマーラー入門はこの曲(バーンスタインの第1回の交響曲全集)と「さすらう若人の歌」でした。
ヴィニャルのマーラー(白水社)の初版本を持っていまして、作曲小屋の写真も鮮烈に網膜に焼きついています。
プロイセン研究はライフワークのひとつになりそうです。今、「建築家シンケルとベルリン」(中央公論美術出版、1985)という本を読んでいます。ポメラニアン(日本では犬の名として有名だが。ポーランド語では「ポモジー」とのこと)地方についても研究したいですね。やることが多すぎて大変!!
これは la_vera_storia さんの 449 に対する返信です
ク−デンホ−フ・カレルギ−家
2002/ 4/30 20:13
メッセージ: 454 / 1474
投稿者: unpoki
初めまして。私はウィ−ンに住んでます。
「光子・クーデンホーフ」展なんてのが有ったんですか。どんな内容でしたか。
この光子さんの孫のバ−バラさんという人は新聞記者をやっているのは知ってます。よく似顔絵入りで新聞に記事が出てきます。ちょっと東洋的な顔立ちです。
元貴族の家といえばシュバ−ツェンベルク家とかハプスブルグ家など、今も様々な方面で活躍している人たくさんいます。
これは bernardsstar さんの 451 に対する返信です
レオポルドシュタット
2002/ 4/30 20:58
メッセージ: 455 / 1474
投稿者: unpoki
私の主人の英語の先生がユダヤ系の人で、彼の生家のあるレオポルドシュタットの辺を案内してもらった事があります。
この先生は同時に、キリスト教の宗教担当でもあります。ユダヤ教徒ではありません。
ウィ−ンには今5万人程のユダヤ人が住んでます。そのうちの約半分程がユダヤ協会に登録しています。アメリカから来た超保守派を含めた信心深いユダヤ人たちがこの2区に多く住んでます。ウィ−ンで唯一になってしまった、ユダヤ学校も2区にあります。
この地区はアメリカ軍に破壊され、戦後引っ越してきた移民達は、豊かなユダヤ人達が住んでいた戦前のような町並みを再現するには、貧しすぎました。(ナチが破壊したのはシナゴ−グ。あとはアメリカ軍が、爆撃した。ナチは、ユダヤ人は追放しても、建物は残しておきたかった。)それでも、わずかながらコ−シャ食料品店や昔のユダヤ街の面影を残す家並みが残ってます。
これは la_vera_storia さんの 439 に対する返信です
「もうひとりの光子」
2002/ 5/ 1 1:22
メッセージ: 456 / 1474
投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)
光子・クーデンホーフ(Mitsuko Coudenhove)と音楽との接点は、ほとんどないように思います。エピソードも聞いたことがありません。 しかし、故田中路子女史(ミチコ・タナカ・デ・コーヴァ)は、険悪な関係になっていた光子とリヒァルトの間をとりもとうとして、光子に会いに行ったそうです。私は晩年の田中路子女史に2度ほど、お目にかかるチャンスがありましたが、その時に光子の話をきいておけばよかった、と今では悔やんでいます。
それから、19世紀にクーデンホーフ・カレルギ家の所有していたヴェネツィアのヴェンドラミン宮は、あのワーグナーの終焉の場所であったことです。(この内容は、ワーグナートピのMessage 711 に書いておきましたので、御興味があれば参照下さい) Palazzo Vendramin Calergi については以下を参照願います。
http://www.vendramincalergi.com/palazzo/
それから興味深いことに、クーデンホーフ家の宝石が、サザビーのオークションに姿を現しています。
http://www.sothebys.com/liveauctions/sneak/archive/la_antiquejewels_0601.html
(上記サイトの説明文は、なかなかおもしろいですね。ワーグナー、リストとの関係も出てきます。でも、本当かな?)
音楽とのつながりといったら、これぐらいでしょうか......?
bernardsstarさま
また、推薦本があります。以前のヘレン・エプスタイン女史の<Where she came from>とほんの少しだけ共通点があるかもしれません。以下の本です(bernardsstarさんのことだから、もう読まれたかな?)
・フク・ホロヴァーの生涯を追って − ボヘミアに生きた明治の女(草思社)
http://book.asahi.com/category/s_book.html?code=4794211201&flg=0
彼女こそ、「もう一人の光子」といえると思いますよ。埋もれていた人物を「再発見」する.....。エプスタイン女史とまではいかないものの、日本人の現地取材としては、なかなかの線をいっています。
これは bernardsstar さんの 451 に対する返信です
ク−デンホ−フ光子展
2002/ 5/ 1 6:42
メッセージ: 457 / 1474
投稿者: bernardsstar
こんにちは。ウィーンの生情報どうもありがとうございます。
この展覧会は、4月は、日本橋店、横浜店で開催され、5月は大阪店と
http://www.takashimaya.co.jp/osaka/mitsuko/index.html
京都店です。横浜店の最終日、大変な盛況でした。上記ページに記載された展示品に加え、光子の嫁入り道具の数々、光子の描いた絵、チェコにある元・クーデンホーフ家のお城の紹介、一族の肖像画などが展示されていました。
これは unpoki さんの 454 に対する返信です
田中路子&フク・ホロヴァー
2002/ 5/ 1 22:14
メッセージ: 458 / 1474
投稿者: bernardsstar
連日、ご教示いただきありがとうございます。
田中路子&フク・ホロヴァーのおふたりとも、認識はしていましたが、浅学ながら、おふたりの生涯については、勉強しておりませんでした。特に、ミチコ・タナカ・デ・コーヴァの名には、日本、スペイン(?)、チェコの3つの名前の要素がありますが。
先日、小生は、工学でやっている技術開発に一応のめどがついたので、「音楽」に再び力を入れると書きましたが、このGW、結局、開発(自宅で)にぞっこん入れこんでいます。今日は、「風力車」なるものを発表しました。
ウィーン音楽のトピの内容を豊かにしていただいている皆様のご投稿に感謝いたします。
これは la_vera_storia さんの 456 に対する返信です
ベネチア、シンケル、グナイゼナウ
2002/ 5/ 2 7:50
メッセージ: 459 / 1474
投稿者: bernardsstar
ワーグナー終焉の地、ベネチアで思い出すのが、映画「ベニスに死す」。この中で使われた、マーラー「交響曲第5番、第4楽章、アダジェット」。この音楽によってマーラーに開眼という方も多いはず。あと、マーラーとイタリアとの関わりといえば、アルマの自叙伝の中で、イタリアに旅行したマーラー夫妻が列車の中にスーツケースを置き忘れてしまい、このことを気にかけた大公が配下にその捜索を厳命したものの、見つからなかったというエピソードがありました。
光子クーデンホーフと絵画との関わりは緊密だが、音楽とは比較的疎遠。でも、あのNHKの「光子」のおかげで、マーラー「交響曲6番」の冒頭と言えば、第1次世界大戦の戦火。「交響曲4番」の第3楽章中間部といえば、優雅な宮廷の大広間というイメージが植えついてしまいましたね(4番はそれほど好きではないが、この第3楽章は格別)。
ところで、現在、中公新書525「フンボルト」(亀山健吉著)も読んでいます。この本で主に取り上げられているフンボルトは、兄弟の兄のほうの外交官・言語学者「ウィルヘルム・フォン・フンボルト」ですが、弟で自然科学者・探検家の「アレクサンダー・フォン・フンボルト」のことも出てきます。
兄と建築家シンケルとの関わりについて、169〜170ページに以下のように書かれています。「五十二歳で退官したフンボルトは、テーゲルの地に定住することを決意するとともに、この館の改築を決める。かつてフンボルトがローマ駐在公使の頃、留学生としてフンボルトの家に出入りしていた建築家のシンケル(1781〜
1841)は、今ではベルリンで最高の古典派の建築家となり、宮殿や劇場の設計を行なっていた。フンボルトはこのシンケルに設計を委ね、室内装飾その他は、同じようにローマに留学生として来ていた彫刻家ラウフ(1777〜1857)に任せるのである。」
弟と軍人グナイゼナウとの関わりについて、198ページに以下のように書かれています。
「1827 年の冬から翌年にかけて、弟のアレキサンダーがパリからベルリンに移り住んで、彼の多方面にわたる自然研究の成果、および、最近の科学の進歩を要約した講演を次々に行ない、ベルリンでは非常な評判となっていた。最初はベルリン大学(注:この講演の行なわれた現在のフンボルト大学の広い教室の入口には、その旨を記した銅版が掲げられている)、ついでベルリンの音楽学校で行なわれたこの連続講演には、大学教授、学者、教師、学生のみならず、国王、皇太子、グナイゼナウ将軍、芸術家のシンケルやラウフのほか、官吏、軍人、貴族、巷の職人、家庭婦人などあらゆる種類、多様な階層の人々が競って参加し、八百人の聴衆のうち、半数は女性であったそうである。」
このグナイゼナウ。肖像画で見た存在感には忘れ得ぬものがありますね。日本ではベストセラー本が出た、クラウセヴィッツのほうが有名かも知れませんが、個人的にはグナイゼナウのほうに親近感を感じます。
これは bernardsstar さんの 458 に対する返信です
建築家、ワルター・グロピウス
2002/ 5/ 2 10:52
メッセージ: 460 / 1474
投稿者: bernardsstar
ここで、Walter Gropius の名を挙げないわけにはいかないでしょう。短期間ながら、アルマ・シントラー=マーラー=グロピウス=ベルフェルの2番目の夫でしたが、本業の建築家としては、カンディンスキーも関与していたバウハウスの運営に貢献(ナチスによって解散させられるまで)。グロピウスはシンケルの業績を高く評価していたとのこと。
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=4473
http://www.bellaonline.com/articles/art1749.asp
http://www.greatbuildings.com/architects/Walter_Gropius.html
アルマとワルター・グロピウスの子、マノンの死は、アルバン・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」に霊感を与え・・・
また、アルマとワルター・グロピウスの最高の蜜月期は、グスタフ・マーラー存命中の密会(グスタフも薄々と気付いていた)であり、この時の心象や山荘周辺の景色がグスタフの創作意欲をかきたて、名作、交響曲「大地の歌」を生む背景となっています。
なお、「建築家シンケルとベルリン」は高価な本でもあり、図書館から借りて読んでいますが、ウィーンを代表する建築家、オットー・ワーグナーについては、鹿島出版会から、SD選書「オットー・ワーグナー」(ゲレツィンカー、パイントナー著)という手頃な本(1800円+消費税)が出ていて所有しています。オットー・ワーグナーは、小生の別の趣味である「鉄道」への関わりは緊密ですが、音楽家との交流はあまりなかった模様。でも地下鉄・カールスプラッツの駅舎によって、ウィーン国立歌劇場の景観とは密接に結びついていますね。
これは bernardsstar さんの 459 に対する返信です