マルティン・グロピウス

2002/ 5/ 3 0:07

メッセージ: 461 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

ワルター・グロピウスといえば、音楽関係ではなんといってもアルマ・マーラーとの関係、そして彼らの娘のマノンとベルクのヴァイオリン協奏曲のことになると思います。 しかしもう一人忘れてはならないのは、ワルターのおじである建築家のマルティン・グロピウス(Martin Gropius)ではないでしょうか?

 

シンケルの建築アカデミーに触発されてマルティンが設計した Martin-Gropius-Bau(1881年完成)が戦火を免れてベルリンに現存しています。(以下、ちょっと重いですが) ネオ・ルネサンス風の建物です。

http://www.courses.psu.edu/nuc_e/nuc_e405_g9c/berlin/museen/mgropius.html

現在ここは内部改装され、各種の展覧会を行なう場所になっており、私も確か92年だったかのビスマルク展をここで観た記憶があります。

http://berlin1.btm.de/infopool/jsp/e_b_043_martin-gropius-bau.jsp

今年のベルリン芸術週間その他でも、各種の展示があるようですね。

http://www.berlinerfestspiele.de/gropiusbau/mgb-ausstellungen.html

御参考までに、場所は以下の通りです。

http://www2.stadtplandienst.de/query?ORT=b;STR=Niederkirchnerstr.;HNR=7;PLZ=1071 9

かつて東西ベルリン分断時代は、この Martin-Gropius Bau の建物の後ろはベルリンの壁そのものであり、私は昔よく壁に沿って歩いて、この建物の後ろと壁の間の狭い道を何度となく歩いたものです。ちなみに、かつての壁のあった時代のこの付近の地図を御覧下さい。

http://www.berlinwall.ws/berlinwall/maps/berlinkarten_04.htm

先ほどの最近の地図と比較していただきますと、この Martin-Gropius-Bau がいかに壁ぎりぎりに存在していたかがわかりますね。かつてのベルリン分断時代にこの建物は「荒廃」とはいかないまでも、やや不気味な姿をさらしていました。おそらく、あまりに壁に接近していたために、補修工事については政治的な要因で、できなかったものと思われます。

 

さて、先ほどの最近の地図で、Stresemannstr.と交差する通りに、Bernburgerstr.というのがあるのに御注目下さい。戦前この通りには、フィルハーモニーホールがあり、ベルリンフィルはここを本拠地にしていました。ニキシュ、フルトヴェングラーは勿論のこと、ワルター、クレンペラ−、クライバー(父)などが名演をくりひろげた戦前の黄金時代は、この通りの22番地にあった旧フィルハーモニーがメッカだったのです。惜しいことに、戦争中に英空軍 (Royal Air Force)の爆撃によりほとんど崩壊してしまい、戦後も何年かは瓦礫が撤去されないで残っていたそうです。現在このBernburgerstr.22 は、池もある小公園になっています。しかし、この公演の入り口のところに、旧フィルハーモニーホールの建物の茶色の土台の一部が地表にほんの少し露出しており、私はそれを一部切り取って、家に持って帰ってきました。(この話、別のところで一度書いたことがあります。) 「栄光のベルリン」を偲ぶ記念品として、大事に部屋に飾ってあります......)

*Bernburgerstr.22については、以下でも特定できます。

http://www.stadtplandienst.de/query

 

....ということで、「グロピウス」という2人の人物で、見事にウィーンとベルリンが交差しますね!

これは bernardsstar さんの 460 に対する返信です

 

Re:マルティン・グロピウス

2002/ 5/ 3 22:15

メッセージ: 462 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

情報ありがとうございます。マルチン・グロピウス・バウ、大変に美しい建物だと思います。ワルターに関する調査も継続して進めていきます。

これは la_vera_storia さんの 461 に対する返信です

 

キルヒシュラーガー(MS)のCD

2002/ 5/ 3 22:18

メッセージ: 463 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

nx_74205defiantさま。

SONYから出ている、マーラー夫妻、コルンゴルドの歌曲集のCDを借りて聴いています。

感想は後日。

これは nx_74205defiant さんの 448 に対する返信です

 

ブルノのKorngold Conference

2002/ 5/ 4 2:25

メッセージ: 464 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

コルンゴルトと言えば、いよいよ明日(5月5日)よりブルノで、Erich Wolfgang Korngold Conference が始まるようです。

http://www2.rhbnc.ac.uk/Music/Conferences/02-5-ewk.html

 

コルンゴルト家の住んでいた建物(1 Koliste)にプレートが入るということは、とりもなおさず時代の変化を感じさせずにはいられませんね!  でも場所はブルノのどこなのでしょうか? 旧市街の東側の環状道路でよいのでしょうか?

http://www.brno-city.cz/cgi/map/map.cgi?x=11&y=11&w=2&h=2&z=2

こういう場合の1番地というのはどこになるのでしょうね....? ここいらあたりとは違うのでしょうか?

http://www.brno-city.cz/cgi/map/map.cgi?x=12&y=11&w=1&h=1&z=1

それとも反対側でしょうか? しかしそうだとすると中央駅に近い場所になりますね。再建された建物なのかどうかもわかりませんけれど、AG Jizni Morava のオフィスなのでしょうかね....?

http://www.google.co.jp/search?q=cache:IKZI4aK4MxcC:www.kooperativa.cz/www/mista /mista.html+brno+1+koliste&hl=ja

このオフィスに直接電話する手もあるかもしれない...。

 

でもなんとなくこういうことを考えるのも楽しいものですね! armchair-travelling といったところです。

 

ではまた!

 

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

コルンゴルト家の住んでいた建物

2002/ 5/ 4 22:37

メッセージ: 465 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

(1 Koliste)は恐らく、コリシュチェ通りとリディッツカー・トゥシーダ通りの交差点の角です。

 

チェコ語では通りはウーリツェという女性名詞ですので、通りの名も女性化されています。

 

そういった意味で、コリシュチェ通り

やリディッツカー・トゥシーダ通り

も厳密な訳語ではないかも知れないことを、ご確認ください。

 

「ヤナーチュコーヴォ・ナムニェスチー」という名前もありました。ナムニェスチー(広場)は中性名詞ですが、基本形が「ヤナーチュクーフ」である所有代名詞の中性主格支配形が「ヤナーチュコーヴォ」ですので、これは、「ヤナーチェクの通り」と訳すべきです。

(チェコ語を正確に和訳しようとすると色々と面倒です)

 

いずれにせよ、ブルノでこういった催しが開催されるのは有意義なことと考えます。

これは la_vera_storia さんの 464 に対する返信です

 

ブルノ

2002/ 5/ 5 15:17

メッセージ: 466 / 1474

投稿者: nx_74205defiant

 

当地は東欧解放直後に新婚旅行で訪れたきりですが、ツアーバスの運転手が大型バスの駐車場を探してぐるぐる回り、すっかり車酔いした記憶があります.

 

そのツアーで『イースターでどこもしまっていて申し訳ないから』と、コンダクターの独断でテレジン収容所見学に連れて行かれたのが、私のアマチュア歌唱暦の重要な要素になっていると思います。

 

先日shottよりコルンゴルドの歌曲集op18とop14が届きました.

今譜読み中です.

これは bernardsstar さんの 465 に対する返信です

 

re.Korngold Conference

2002/ 5/ 7 13:53

メッセージ: 467 / 1474

投稿者: ZAKKYO2000

 

「死の都」の上演もあり、今すぐにでもブルノに飛んでいきたいような内容ですね。

コンサートを指揮するカスパー・リヒターという人も、先日コルンゴルドのCDを出しましたよね。

これは la_vera_storia さんの 464 に対する返信です

 

コルンゴルトの歌曲CD

2002/ 5/ 7 23:17

メッセージ: 468 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

>先日shottよりコルンゴルドの歌曲集op18とop14が届きました.

 

現在、聴いているキルヒシュラーガー(MS)のCDは、Op.29とOp.29で、Op.29「シェィクスピアの戯曲「十二夜」に基づく「道化の歌」」は歌詞が英語、Op.29「5つの歌」はドイツ語と英語です。同じCDに収録されているアルマ・マーラーの歌曲も味わい深いものですが、コルンゴルトのほうはさらに「職人芸」を感じさせますね。キルヒシュラーガーは美声であるだけでなく表現も豊かで、とても魅力的です。

 

op18とop14もいずれ聴いてみたいです。

これは nx_74205defiant さんの 466 に対する返信です

 

訂正

2002/ 5/ 7 23:19

メッセージ: 469 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

「5つの歌」は、作品38です。作品29も作品38も、コルンゴルトの米国亡命後の作品です。

これは bernardsstar さんの 468 に対する返信です

 

コルンゴルトの歌曲

2002/ 5/ 7 23:47

メッセージ: 470 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

には、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターやエヴァ・マルトンもあってバラエティーが出てきましたね。

これは bernardsstar さんの 469 に対する返信です

 

op14とop18

2002/ 5/ 8 2:28

メッセージ: 471 / 1474

投稿者: nx_74205defiant

 

こちらはフォン・オッターのベルク、シュトラウスとのカップリングCDに入っています。後年の曲集とはちょっと異質な、深い響きの曲集です.いずれもピアノさんが大変そう.彼の歌曲集はおおよそ譜面が出ているのですが、オペラは『死の都』以外売り譜が出ていないようです.日本だけで、海外では出回っているのかな.

これは gur1zem2korn3 さんの 470 に対する返信です

 

「殺人者、女たちの希望」

2002/ 5/ 9 21:57

メッセージ: 472 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

ヒンデミットの初期の25分という短い歌劇の、上記のタイトルのテキストの邦訳を近くの図書館で見つけたので、コピーしてきました。1ページにつき上段・下段がありますが4ページという短さです。感想は後日書こうと思います。

 

出典

 

表現主義の演劇・映画

 

「ドイツ表現主義」シリーズ

 

河出書房新社

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ワルター・グロピウスの「総合芸術」

2002/ 5/11 12:40

メッセージ: 473 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

「建築家シンケルとベルリン」(中央公論美術出版)の51〜52ページ(注釈)に、ワルター・グローピウスの「総合芸術」に関する記載がありました。以下、引用させていただきます。

 

**********

私(著者:ヘルマン・G・プント)は1968年にこの総合芸術作品の考え方についてヴァルター・グロピウスに話を聞く機会に恵まれた。その際、グロピウスは再三にわたって、諸芸術 ― 詩、音楽、劇、絵画 ― を溶け合せて一つの包括的な大統一作品に仕立て上げる、という自分の考え方を言い表そうとして、リヒャルト・ヴァグナーが用いたこの言葉の起源に言い及んだ。実はこの考え方はフィリップ・オットー・ルンゲがある程度まで先取りしていたのであり、諸芸術のすべてを「共感覚」を通して溶け合せることを着想し、また「音楽詩」としての幻想的風景画を唱えていた。このテーマに関連したヴァルター・グローピウスの考え方については、論文、≫Tradition and Continuity in Architecture≪, “Program”, Columbia University, School of Architecture, New York 1964, pp.4 ― 23にまとめられており、また、Walter Gropius: “Apollo in the Democracy”, New York 1968(和訳=ワルター・グロピウス『デモクラシーのアポロン』桐敷真次郎訳、彰国社、1972)に再録された。シンケルの影響という点については、グローピウス自身の個人的な事情というものがあり、実は彼の先祖に当たるベルリンの企業家ヴィルヘルム・エルンスト・グロピーウス、その息子で舞台画家のカール・ヴィルヘルム・グローピウスはシンケルの生涯にわたる友人であり、また同僚であった。この人間関係については、Kruger: “Schinkel”, S.137 ― 151, またRave: “Schinkel Lebenswerk, Berlin I”, S.163 f. に記されている。更にまた、Siegfried Giedion: “Walter Gropius, Work and Teamwork”, New York 1954, pp.7 f.も参照のこと。

これは bernardsstar さんの 462 に対する返信です

 

シンケルとグロピウス一族&音楽家

2002/ 5/12 21:43

メッセージ: 474 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

「建築家シンケルとベルリン」(中央公論美術出版)をざっと読み終えたところです。カール・フリートリヒ・シンケルも「総合芸術家」の点ではワルター・グロピウスに勝るとも劣りません。下記の情報を追記しておきます。

 

**********

(p.124〜125)

シンケルはイタリア、フランス旅行から帰るとすぐにパノラマ画の新発明に興味をひかれ、更にはディオラマ画もこれに加わった。エルンスト・グローピウス、およびその子カールに支援されて、彼は1807年にいわゆる「光学・透視図法絵画」の公開展覧会を初めて催したが、それは大きな成功を収め、以後その種の展覧会を1815年まで続けて、人気を博していった。(中略)

 

1813年、「モスクワ炎上」と題するパノラマ画の見世物が催された時には、多くの観衆が観客席に入ろうと命がけの有様だった。それほどの評判を得たのは、音響や照明を巧みに用いれば絵の視覚的効果、心理的効果を盛り上げられることを、想像力たくましいシンケルがよく知っていたからだった。背景から合唱隊に歌わせることにより、宗教的で、またほとんど感傷的とも言えるほどの感情を人々に起させたり(中略)

 

ほぼ30年後の1844年にペテルブルクで展覧会が催されたが、この時にはさらに大きく、高さ9メートル、直径22メートルに及んだ。(中略)シンケルのパノラマ画のとてつもない大きさは、観客を囚にし、また絵の中に吸い込まれるような効果があったと思われる。

 

以下、この本の年譜より、

1816年:シンケルが舞台背景画を描いたモーツァルト「魔笛」が国民劇場(ジャルダン・マルクト広場)で初演。また、ホフマン(1776〜1822)作のオペラ「ウンディーネ」がベルリン国民劇場で初演され、シンケルは舞台背景画を描く。

1817年:グルック(1714〜1787)作曲のオペラ「アルセスト」のための舞台背景画をデザイン。

1818年:火災で焼失したシャウシュピールハウス(フランスドーム、ドイツドームに挟まれた現・コンツェルトハウス・ベルリン)の設計にとりかかる。

1819年:スポンティーニのオペラ「オリンピア」の舞台背景画を制作。

1829年:バッハの「マタイ受難曲」が死後はじめてベルリンの声楽アカデミーで演じられた。校長カール・フリートリヒ・ツェルター(1758〜1832)の下、20歳の若さのメンデルスゾーン(1809〜47)が指揮を務める。この両音楽家ともシンケルの友人だった。

 

**********

シンケルは一代限りでしたが、グロピウスは一族の血が脈々と受け継がれています。gur1zem2korn3さんの「マンフレート・グルリットのトピ」になぞらえて、「ワルター・グロピウスのトピ」なんてものを創設したら面白いかも(笑)。

これは bernardsstar さんの 473 に対する返信です

 

シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」

2002/ 5/13 0:48

メッセージ: 475 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

20世紀の音楽の中で、最もインパクトの強い曲と言えば、やはりシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」op.46だと言って差し支え無いように思います。この曲ほど聴き手に強い印象を与える曲は他にはそうないと言っていいと思いますね。12音技法を用いられたこの曲の、オーケストレーションの鮮やかさ、ナレーションの鮮烈さ、最後の部分の合唱の効果の絶大さ、どれをとっても、この7分ほどの曲に凝縮された音楽の驚くべき表現力に最大に寄与していると言えますね。 テキストを以下に挙げておきます。

http://www.schoenberg.at/6_archiv/music/works/op/compositions_op46_text.htm

また以下に、シェーンベルクの手稿の一部も挙げておきます。

http://www.us-israel.org/jsource/loc/Schoenberg.html

ナレーター(目撃者)は英語、ナチはドイツ語、合唱(犠牲者)はヘブライ語と、この3ヶ国語の効果は目を見張るものがあります。

 

さて、シェーンベルクはこのテキストを、ワルシャワゲットー蜂起(1943年4,5月)に参加してドイツ軍に捕らえられ、収容所に送られたユダヤ人生き残りより話を聴いて、自分でテキストを書いたようですね。この「ワルシャワの生き残り」という曲に関連させて、第2次大戦末期にワルシャワでおきた蜂起について考えてみたいと思います。あくまでも音楽に関連付けし、トピずれにならないように注意することとします。

 

多くの人が誤解しているようなのですが、大戦末期のワルシャワでの蜂起については、2つ存在するのです。1つはこのシェーンベルクの作曲のテーマとなった1943年4,5月にわたる「ワルシャワゲットー蜂起」(Warsaw Ghetto Uprising)、そしてもう1つは、1944年8月の「ワルシャワ蜂起」(Warsaw Uprising)です。一般に「ワルシャワ蜂起」というのはこの後者のみをさし、前者についてはシェーンベルク作品との関連以外では日本ではあまり知られていないようですね。 それも当然かもしれません。というのも、ポーランド人に言わせれば、「第2次大戦中の最大の悲劇は1944年のワルシャワ蜂起(すなわち後者の蜂起)の失敗であり、ヴィスワ河の向こうのプラガ地区まで来ていたソ連軍に見殺しにされたのだ。」ということになるのですから......。 世界史の教科書でも「ワルシャワ蜂起」といえば、この後者の蜂起のみを指していたはずですね。ポーランド人にとっても決して忘れ得ぬ出来事なのは、以下の方の印象記でもよくわかります。

http://journal-izm.hoops.ne.jp/v6-poland.html

私たちにとっても、あのアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」

http://www.takara-univ.ac.jp/movie/aiueo/ti/kakudai/1263.html

という映画でこのワルシャワ蜂起については、ある程度の感覚は持っていますね。あの映画の最後のシーンの鮮烈さというのも忘れ難い体験でした。図式として整理すれば、

・「ワルシャワゲットー蜂起」(43年)

ワルシャワーゲットー内の武装したユダヤ人(ZOB & ZZW) VS ドイツ軍(国防軍、SS)

・「ワルシャワ蜂起」(44年)

ポーランド人地下抵抗組織(国内軍-AK、人民軍-AL) VS ドイツ軍

となります。

 

前者の犠牲者は7千人の死者と3万人の絶滅収容所送り、後者は20万人と言われています。

 

さて、この「ワルシャワ蜂起」(1944年)よりも、シェーンベルク作品との関連で、「ワルシャワゲットー蜂起」(1943年)について考え、シェーンベルクのこの作品のインパクトの強さというものを再確認したいと思います。

 

またのちほど.....。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

「ワルシャワの生き残り」 (2)

2002/ 5/13 2:13

メッセージ: 476 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

さて、2つの蜂起のうちシェーンベルク、そして他のユダヤ人にとってより重要なのは前者の「ワルシャワゲットー蜂起(43年)」であることは疑いようがありません。このゲットー蜂起に関しては、書いていくときりがありませんので、以下で概要が理解できます。

http://www.ushmm.org/topics/article.utp?id=10005188

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/resource/gallery/G1941WGU.HTM

この蜂起の前提となったワルシャワゲットーですが、ドイツによるユダヤ人囲い込み政策によって、ワルシャワ市内の特定地区にユダヤ人が押し込められることとなるのです。以下に、ゲットーとなった場所を地図と俯瞰図で示します。

http://www.us-israel.org/jsource/Holocaust/warghetmap.html

http://www.fatherryan.org/holocaust/warsaw/map.htm

ゲットーでの生活については、以下で写真を見ることができます。

 

私はワルシャワゲットー体験者の書いた本をかなり読んでいますが、とりあえず手っ取り早くは以下の2冊の本を紹介しておきます。

 

一冊目は「ザ・ピアニスト」(ウワディスワフ・シュピルマン著)

The Pianist- The Extraordinary Story of One Man's Survival in Warsaw,1939-45 (Wladyslaw Szpilman) Vivtor Gollancz 1998

http://www.shunjusha.co.jp/book/49/49521.html

2冊目は、「わがユダヤ・ドイツ・ポーランド − マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝」

Mein Leben (Marcel Reich-Ranicki)

Deutsch Verlags=anstalt GmbH 1999

http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=4-7601-2203-6&backurl=./ mikandsp.cgi

この2冊は、翻訳されたもののなかでは大変に迫真的な名著だと思います。必読の本といって差し支えないように思います。特に前者は映画化されるようで、監督はポーランド人のポランスキーであり、上映が待たれるところです。

http://www.ascii.co.jp/yakusha/news/movie/2001/03/05/619885-000.html

 

ゲットー蜂起と翌年のポーランド人による大規模な蜂起によって、ワルシャワゲットー地区の建物は言うに及ばず、ワルシャワの建物のかなりが破壊されてしまいました。そして、現在のワルシャワで当時のゲットー時代の面影を残すもの全くといっていいほど存在しないのですが、ほんの一部のみ、ゲットー地区とアーリア人地区を隔てていた壁が残っている場所があり、私もそこを数年前に訪ね、感慨も新たしたものでした。以下に、ある個人の方のHPに、この残存する壁を写真で公開していますので、以下に御紹介いたします。もしワルシャワに行かれる機会がありましたら、是非ともこの壁を御覧になることをお薦めいたします。以下のページの下のほうです。

http://www.scrapbookpages.com/Poland/WarsawGhetto/WarsawGhetto05.html

 

さてシェーンベルクなのですけれども、「ワルシャワの生き残り」の作曲によって、このゲットー蜂起の犠牲者(すなわちユダヤ人同胞)に対する強烈な哀悼意識を表現したことになりますが、同時にこの曲の最後で、犠牲者にユダヤ聖歌の<イスラエルよ聞け>を歌わせることにより、彼らとの連帯意識も表現したように考えれますね。ユダヤ人とポーランド人との関係には現在でも微妙なものがあり、特にこの2つの蜂起のうち、何故最初のゲットー蜂起にポーランド人を参加させられなかったのかは疑問にも思いますが、しかし当時のユダヤ人評議会(ドイツ軍に管理されたユダヤ人自治組織)ですら蜂起には必ずしも賛成していませんでしたし、かといって戦闘的ユダヤ人達がゲットーを脱出してパルチザンとなるのも、一般のポーランド人農民たちのanti-semitismの感情から、容易ではなかったことが理解できます。以下に最近問題となった事件(イェドヴァブネ事件)を紹介いたします。こういう事件に、ポーランド人のanti- semitismの深淵を見る気がします。あの有名な「ショアー」という映画でも、このあたりの感情は微妙に写し出されて

これは la_vera_storia さんの 475 に対する返信です

 

訂正 (参照のURL追加)

2002/ 5/13 2:25

メッセージ: 477 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

前投稿で、ワルシャワゲットーの生活に関する写真を参照するURLを貼り付けるのを忘れてしまいました。失礼いたしました。

以下となります。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/resource/gallery/G1941W1.htm

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/resource/gallery/G1941W2.htm

いずれも、左側の写真をクリックすると拡大するはずです。

これは la_vera_storia さんの 476 に対する返信です

 

「ワルシャワの生き残り」 (2)補筆

2002/ 5/13 2:57

メッセージ: 478 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

申し訳ありません、「ワルシャワの生き残り」(2)の投稿の最後の部分が欠けてしまいました。以下に続きます。(本当に今夜はどうかしている...)

 

*********************

 

.....(写しだされて)いましたね。

http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/jedwabne.htm

http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/~komorida/culture1.htm

 

さて、シェーンベルク自身が後者の「ワルシャワ蜂起(44年)について、どう考えていたかはわかりません。しかし彼にとって問題だったのは、あくまでもユダヤ人同胞の蜂起であった43年のゲットー蜂起だったことには間違いないでしょうね。

 

さて、そしてシェーンベルクはドイツ軍によって42年7月からワルシャワゲットーで開始された大規模なユダヤ人の東方移送について知っていたかどうか? そして、その東方移送(実はトレブリンカ絶滅収容所)での1つのエピソードについて、後からでも知っていたかどうか....?  つまり、ヘンルィック・ゴールドシュミットなる人物について、後からでも知ることができたかどうか.....?

 

ゴールドシェミットという人物、別の名をヤヌシュ・コルチャックという人物を知っていたかどうか......?

(続く)

これは la_vera_storia さんの 476 に対する返信です

 

ワルシャワ・ゲットー、コルチャック

2002/ 5/13 23:29

メッセージ: 479 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

ユダヤ人は本来、旧約聖書に忠実であるはず。従って、モーゼの十戒を守って、他者に反撃しないもの(その意味で、今のイスラエルの情勢はユダヤ人の歴史から見れば特殊と言えるかも知れません)、このユダヤ人の特質が20世紀中ごろまでの歴史の中で唯一破られたのが、おっしゃるところの「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とのことです。一方、「ワルシャワ蜂起」はポーランド人の「抵抗」の歴史の重要な一こまです。その時期に、チェコ人はドイツ人に屈従していました。ハンガリー、ルーマニアなどは「バルカン的」で、ナチス・ドイツが優勢と見るや服従するのみならず積極的にその戦略に積極的に関与し、ナチス・ドイツが傾くと見るや、見切るのも速かったと言えます。ただ、その「筒井順慶」的変わり身の速さの過程の中で多くの人間が無駄死にしていきました。

 

(ついでながら、ドイツ敗北の原因となった、無謀なソヴィエト(ロシア)侵攻をヒットラーが画策した理由は、(1)日本軍がインドネシアに攻め込んだのと同様に、ドイツはカスピ海(バクー)の原油を手に入れたかった、というもっともな理由と、(2)ヒットラーが自分を十字軍の英雄になぞらえた、という気違いじみた理由の2つがある。というのが小生の分析です)

 

第2次大戦中のポーランド(+ガリチア)における「ゲットー」は本来の意味での「ユダヤ人」居住地ではなくて、強制収容所(要するに殺人施設)の処理能力が追いつかないために、強制収容所に移送される前の段階でユダヤ人を留め置いておく場所の役割を果たしていました。ユダヤ人警察なるものが組織されユダヤ人が逃走しないように見張っていましたが、そのユダヤ人警察のメンバーも役割を終えると、ドイツ人によって強制収容所に送り出されました。また、アウシュヴィッツ(オシフィェンチム)のようなガス室による大量殺戮が行なわれるようになったのは大戦後期のことで、それまでは、ユダヤ人を小屋に閉じ込め、トラックの排気ガスを送って窒息死させたとのことです。その方法では死体を焼く際に悪臭が近辺に広がる問題があり、その解決のために開発されたのが、アウシュヴィッツでの方法であったとのことです。

 

コルチャックは日本でもかなり有名になりましたね。最近は著作権をめぐるTV局、著者間の紛争も報道されました。昨年の加藤剛がコルチャック役を演じた公演では、この著作権問題を回避するために、ポーランドから新たに資料を取り寄せて、それをもとに台本を作成したと聞いています。

これは la_vera_storia さんの 478 に対する返信です

 

「ワルシャワの生き残り」 (3)

2002/ 5/14 1:08

メッセージ: 480 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

さて、コルチャックなる人物は最近日本でも知られるようになってきましたが、一口に言えば、医者であり教育者としてワルシャワの孤児院での教育に一生を捧げた人物です。日本語のサイトでは以下を御参照下さい。

http://www5.ocn.ne.jp/~jkmc/jkmc_shiryo.html

彼は、ゲットー内の粗悪な環境の中ですら、孤児院の維持に奮闘しますが、42年7月より開始されたドイツ軍によるユダヤ人の東方「移送」政策

http://www.ushmm.org/topics/article.utp?id=10005188

のなかで、とうとう孤児たちに付き添って、東方「移送」のための集合地であるゲットー北端の移送所へと向かうこととなります。(以下参照)

http://korczak.com/Biography/kap-37.htm

最後に孤児院のあった場所は以下のゲットー地図でいいますと5番(9 Sliska)になります。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/MAPS/map007.htm

ここから孤児達を引き連れ、整然と行進しつつ、ゲットー北端のUmschlagplatzという場所に向かうこととなります。

http://www.us-israel.org/jsource/Holocaust/umschlagplatz.html

現在この Umsschlagplatz には記念碑が建っています。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/GALLFR/fumsc05.htm

この場所から、他のユダヤ人と伴に貨車に詰め込まれて、連れていかれたのは悪名高いトレブリンカ絶滅収容所だったのです.....。

http://motlc.wiesenthal.com/pages/t078/t07868.html

http://motlc.wiesenthal.com/gallery/pg41/pg3/pg41383.html

その後のコルチャックと孤児達については、目撃証言はありません....。

 

さて、数年前に私は実際にコルチャックと孤児たちの歩いたそのままの道、つまりゲットー内の孤児院のあった場所(9 Sliska)から、Umschalagplatzまで、前の日の夕食と当日の朝食をわざと抜いて、自分の足で歩いてみました。とにかく大変な距離でした。Umschlagplatzについたころには、空腹と疲労で足もふらふら.....。栄養事情が劣悪だった当時ともなれば、子供の足では簡単には歩けない距離だと思い、彼らの苦境の一端をほんの少し追体験したような気分になったのでした....。アンジェイ・ワイダ監督の「コルチャック先生」という映画では、さすがのワイダも映画の終結部分において、自然に切り離された貨車から子供たちが飛び出すシーンで終わらせていましたね! 私はそこにいくらかの救いもようなものを感じましたが...。

 

以下は、現在のトレブリンカ絶滅収容所跡に建てられたコルチャックの名前が刻まれた石碑です。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/gallfr/fkorc08.htm

さて、シェーンベルクのことですが...。

これは la_vera_storia さんの 478 に対する返信です

 

「ワルシャワの生き残り」 (終)

2002/ 5/14 2:14

メッセージ: 481 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

作曲家シェーンベルクと教育者コルチャックとの繋がりは、少なくとも私の調べた限りでは、ないようです。コルチャックは1908年にベルリンに留学していますが、その年というのはシェーンベルクにとっては、いわゆるウィーンで「ゲルステル事件」があった年であり、シェーンベルクがベルリンに移り住むのはもっと後年になってからのことです。ただ、シェーンベルクの側からはコルチャックの名前だけは知っていた可能性がないわけではないと思われますが。

 

いずれにせよ、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」という曲は、単にインパクトが強烈なだけではなく、最後の合唱の部分には、私は最近なにか「昇華」された美しさのようなものを感じてきてしょうがありません。ホロコースト犠牲者に対する音楽の墓標であると同時に、そこに音楽の持つ不思議な美しさを感じる私は不謹慎なのでしょうか.....?

 

「私はドイツ人でもなく、ヨーロッパ人でもない。おそらくそういう点における人類でもないだろう。私はまさしくユダヤ人だ」と心情を吐露したシェーンベルクは、実際にはこの作品では、そういうことを突き抜けた作品に到達したのかもしれません....。弦楽3重奏曲やヴァイオリン協奏曲と並ぶ渡米後の傑作だろうと思います。レーガーやヒンデミットなどと異なり、さすがにシェーンベルクの音楽の根はウィーンにありますね。乾燥したり散文的になったりは決してしないところが素晴らしい、と私は思うのですけれども。

 

以下に、ゲットー及び収容所と、そこにおける音楽についての南フロリダ大学作成のページがあります。ハース、クライン、シュールホフ、ウルマンなどのテレジン収容所関連の名前も登場します。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/arts/musVicti.htm

また以下には、いわゆる「退廃音楽」と呼ばれた音楽関連のページです。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/arts/musDegen.htm

以下は「ナチが認めた音楽」というページです。まあ少数を除けば、「ナチに勝手に認められてしまった人たち」というのが正しいでしょうけれどね。

http://fcit.coedu.usf.edu/holocaust/arts/musReich.htm

 

* bernardsstar さま

ウィーン生まれのシェーンベルクがホロコーストに憤慨触発だれて作曲した「ワルシャワの生き残り」をダシにして、ワルシャワゲットーの話題をかなり盛り込んだ投稿をさせていただきました。ホロコーストに関してのことも話題にすると、いろいろとありますね。私は今度はマーラー、ウィーン、ホロコースト、そして音楽の4つを結ぶ別の話題(あっと驚くもの)を投稿させていただくべく、1つの案を練っています。またしばらくしましたら、投稿させて下さい! 失礼いたしました。

これは la_vera_storia さんの 480 に対する返信です

 

Re:「ワルシャワの生き残り」

2002/ 5/14 23:07

メッセージ: 482 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

>私は今度はマーラー、ウィーン、ホロコースト、そして音楽の4つを結ぶ別の話題(あっと驚くもの)を投稿させていただくべく、1つの案を練っています。

 

色々興味深い話を教えていただき、ありがとうございます。この「4つを結ぶ」話も楽しみにしております。

 

P.S.

ポーランドのカトリック教徒は上層部はバチカンの意向と同じく、ユダヤ人をキリストを殺した悪人とはみなさない態度をとっていますが、地方レベルでは「ユダヤ人=キリストを殺した」の観念から抜けきれていないと、聞きます。

これは la_vera_storia さんの 481 に対する返信です

 

グルリット、ショスタコ、シェーンベルク

2002/ 5/17 12:14

メッセージ: 483 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

戦後、グルリットはフランス革命による「3つの政治的演説」、ショスタコーヴィチは交響曲第13番、シェーンベルクは「ワルシャワの生き残り」を作曲します。

この3曲は、どれも暗く、かつ、ある意味で残酷なものが背景としてあることで、共通しているだけでなく、男性(グルリットはバリトン、ショスタコはバス、シェーンベルクは語り)男性合唱、管弦楽という構成で一致しています。シェーンベルクが6分ほど、グルリットが30分前後、ショスタコが60分前後ですので、これらをプロとして取り上げてもいいのではと思います。

これは bernardsstar さんの 482 に対する返信です

 

「復活」を歌いませんか?

2002/ 5/17 13:05

メッセージ: 484 / 1474

投稿者: sqsq1117

 

マーラー大好きの皆様!

東京都内で活動するル スコアール管弦楽団では、2002年11月みなとみらい大ホールにてマーラーの交響曲第2番「復活」を演奏するこ

とになりました。現在、私たちと一緒に「復活」を演奏する合唱団の参加者を大募集しています。

 

◇◇◇ ル スコアール管弦楽団 第13回演奏会 合唱団募集について ◇◇◇

■本番:2002年11月17日(日) 昼公演

■会場:横浜みなとみらい大ホール

■曲目:マーラー交響曲第2番「復活」他

■指揮:橘 直貴

■募集内容:ソプラノ、アルト、テノール、バス各30名

  *オーディションはありません。*歌唱はドイツ語です。

  *練習見学も大歓迎です。

■参加費:8,000円(楽譜代、チケット代などを含みます)

■練習日:2002年7月6日より。(詳しくはホームページをご覧下さい。)

■一次募集〆切:2002年7月7日(日)

■ル スコアール管弦楽団ホームページ

  http://www10.u-page.so-net.ne.jp/ta2/kensen/square/

 

興味を持たれた方は、ホームページをご覧ください。

合唱指揮者、練習日程などさらに詳細な情報をホームページに掲載しています。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

井上道義氏講演「ナクソス島のアリアドネ」

2002/ 5/18 7:42

メッセージ: 485 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

マーラー「復活」の合唱団の募集案内をいただきましたので、小生より、井上道義氏のお話、R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」を聞ける機会について紹介申し上げます。

 

6月22日(土)15:30〜17:30

新宿住友ビル(新都心の三角ビル)43階、朝日カルチャーセンターにて

 

受講料:2600円(カルチャーセンター会員)、3100円(非会員)です。

申し込みは住友ビル4階で受け付けています。電話での問い合わせは、

03-3344-1965 まで。

これは sqsq1117 さんの 484 に対する返信です

 

Re:グルリット、ショスタコ、Schoenberg

2002/ 5/18 7:59

メッセージ: 486 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

小生、鉄道ファンでもあるので、よく「仮想路線」を空想しますが、「仮想音楽会」のプログラムを考えてみるのも楽しいですね!!

 

gur1zem2korn3さんのプログラムのバス歌手としては、岸本力さんが適任です。昨年のダスビダーニャの演奏会での「ステパンラージンの処刑」が素晴らしかったので・・

 

http://www.dasubi.org/dsch/history.html

これは gur1zem2korn3 さんの 483 に対する返信です

 

ウェーベルンについてあれこれ...

2002/ 5/19 0:08

メッセージ: 488 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

ウェーベルンに関して大変に興味深い記事を見つけました。イギリスの老舗の音楽雑誌の The Musical Times に掲載されたものであり、この記事はウェーベルンの死(1945年)の翌年の1月(つまり死後まだ1年経過していない時期)に掲載された(追悼)記事となっています。以下を御参照願います。

http://www.musicaltimes.co.uk/archive/obits/194601webern.html

 

この記事の内容をざっと読むと、現在私たち素人がウェーベルンという作曲家に対して、常識的に感じているものが、ほとんどそのままに書かれている、ということです。ですから、いわゆる戦後50年代の音楽の旗手、特にブーレーズなどの「シェーンベルクは死んだ! ウェーベルン万歳!」などという叫び、そしてその後のウェーベルンをセリ−技法の父として崇拝するという傾向以前の、ごく常識的なウェーベルン観としても、46年に書かれた記事としては、なかなか本質的なところを見事に突いているように思われます。

<The lyric quality of his music distinguished Webern from Schoenberg whose faithful disciple he was.>

は誰にでも感じるのですけれど、しかし、

<Webern had a deep insight into music,old and new.>

とかは、なるほどそうだ! と思いますし、

<Ecstasy was his natural state of mind; his compositions should be understood as musical visions.>

とかという表現は、46年段階では先見の明ありと思いますね。

 

ウェーベルンはオーストリアの Mittersill という街(以下でこの街の様子がわかります。ページが開くまで少々時間がかかるかもしれません)

http://www.mittersill.at/

で、終戦直後にアメリカ兵の誤射のために悲劇的死を遂げるのですが、この街で今年の9月に彼についてのシンポジウムが開催されるようですね。以下です。

http://presence.or.at/einklang/ein_klang.htm

http://www2.rhbnc.ac.uk/Music/Conferences/02-9-web.html

 

確かこのThe Musical Times誌のウェーベルン生誕100年に関する記事(確か83年)には、ウェーベルンの射殺事件に関しては深い闇と謎の部分がある、という内容の記事があったはずなのですが、アーカイヴに見当たらないのが残念です。

 

* bernardsstar さま

少し前に、シュタインバッハでの私のマーラーについての体験を投稿させていただきました。その時は、テーマに無関係なので書きませんでしたが、田舎のおもしろい風情に遭遇しました。ひょっとしてbernardsstarさんが関心がおありになるのではないかと勝手に想像いたしますので、本投稿でちょっと触れておきます。

以下の地図で、Voeklamarktという街から、Atterseeまで行く間の交通です。

http://www.stern-verkehr.at/Strecke/Attergaubahn.html

以下のような鉄道(Lokalbahn)が運行されています。

http://www.stern-verkehr.at/Bahnen/Attergaubahn.html

この「愛すべき」鉄道は Attergaubahn と呼ばれ、それなりの歴史もあるのです。勿論、マーラーが乗車したものではないのが残念ではありますが。(私は訪問当時は、この鉄道にマーラーが乗車したものだとばかり思っていましたが、どうもそうではないようですね。)

http://www.augusta.de/~jb/StreckenLexikon/A-18.php3

以下、この鉄道の風情を紹介します。

http://web.dschungel.com/vt5081/pix/at/lokal/sth/26108.jpg

http://web.dschungel.com/vt5081/pix/at/lokal/sth/26109.jpg

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

マーラーと鉄道

2002/ 5/19 8:19

メッセージ: 489 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

ウェーベルンについては、殺害(事故?)の経緯を含め研究してみたいです。将来の課題。

 

マーラーと鉄道に関しては今すぐにでも取りかかってみたいテーマだと思います。

 

Attergaubahn は日本でいえば、さしずめ、松本電気鉄道か上田交通(別所温泉に行く電車)ですね。

 

小生のサーチで、イタリアのドロミテにある、Toblachのサイトを見つけました。

 

http://www.emmeti.it/Welcome/Trentino/AltoAdige/Dobbiaco/index.de.html

これは la_vera_storia さんの 488 に対する返信です

 

マーラーとToblach

2002/ 5/19 8:26

メッセージ: 490 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

http://www.grandhotel-toblach.com/m1000de.html

 

に、マーラーがToblachで、「大地の歌」「第9交響曲」「第10交響曲」を作曲したことが書かれています(アルマ・マーラーの自伝にも書かれていたと思う)。ということは、ワルター・グロピウスもToblachに出没したということです。

これは bernardsstar さんの 489 に対する返信です

 

グスタフ・マーラー公園(ハンブルク)

2002/ 5/19 8:39

メッセージ: 491 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

マーラーゆかりの街、ハンブルクに「グスタフマーラー公園」という公園があるそうです。インターネット画像を見る限りでは「今イチ」といった印象です。

 

http://www.bildarchiv-hamburg.de/hamburg/parks/mahler/

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

F.シュミットの第2交響曲の演奏会評

2002/ 5/21 1:13

メッセージ: 492 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

フランツ・シュミットの第2交響曲の演奏に関して、なかなか興味深い新聞記事がありました。5月18日付けのアメリカの新聞 The Philadelphia Inquirer 紙が、サヴァーリッシュ指揮のフィラデルフィア管弦楽団がこの曲をとりあげた際の批評です。

http://www.philly.com/mld/inquirer/entertainment/music/3289153.htm

 

フランツ・シュミットの音楽に馴染みのない人ならば、こういう印象を持ってもしょうがありませんね。

It seemed like such a nice piece of music at least on papar......

で始まっているので、果たしてどうなることかと心配しましたが、サヴァーリッシュの努力もあってか、それなりの成果をあげたようですね。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

サヴァリッシュ氏のドイツ系の録音

2002/ 5/21 8:44

メッセージ: 493 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

にはすごく興味をそそられるものがあります。EMIとはリヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯(別ヴァージョンのエンディング)、祝典前奏曲、家庭交響曲、ヒンデミットの交響曲「画家マチス」等を録音し、ヴィーン・フィルとはプフィッツナーの交響曲(演奏のみ)、バイエルン放送響とはオルフェオでプフィッツナーのオペラ管弦楽曲集等を録音しています。図書館で読んだサヴァリッシュ氏の伝記に載っていた自伝には、シュトラウスの息子フランツと話す氏の写真がありました。

 

シュミット関連でいいますと、ウェルザー=メストもいい録音をしていますね。シュミットの交響曲4番、ヨハン・シュトラウスの歌劇「ジンプリツィウス」、シュレーカーの室内交響曲などがあります。

 

フィラデルフィア管も、ストコフスキー時代にはグレの歌、マーラーの第8番、ヴォツェックをアメリカ初演していて、ここのトピの音楽にそれなりの貢献していますね。

これは la_vera_storia さんの 492 に対する返信です

 

フィラデルフィア管とここのトピの音楽

2002/ 5/21 9:03

メッセージ: 494 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

フィラデルフィア管はアメリカ初演については結構ここのトピと縁がありますよね。

 

ストコフスキー時代には、スクリャービンの「神聖な詩」、マーラーの8番、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ベルクのヴォツェック、シェーンベルクのグレの歌、「幸福の手」などがあります。

 

オーマンディ時代には、バルトークのピアノ協奏曲第3番、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、ヴェーベルンの「夏の風の中に」と2つの遺作があります。1965−66年のシーズンにはマーラーの10番のデリック・クック版を演奏し、クルシェネク作品も演奏していたようです。

 

以上、8年前に自宅の物置で見つけた、昔親が行ったフィラデルフィア管とオーマンンディの1972年の来日公演のプログラムを参考にしました。このとき日本ではマーラーの交響曲第1番(花の章付)を演奏しています。

 

最近、ベルクのパッサカリアが世界で盛んに演奏されていますが、フィ管が演奏する日も近いでしょう。

これは la_vera_storia さんの 492 に対する返信です

 

Re:F.シュミットの第2交響曲

2002/ 5/21 21:39

メッセージ: 495 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

フィラデルフィア管としては、オーマンディによる米国初演以来とのことですが、

(世界初演はフランツ・シャルク指揮でウィーンで)

おおむね成功と言えそうですね。

 

日本では、フランツ・シュミットのオーケストラ作品は、「交響曲第4番」「第7の封印の書」「歌劇ノートルダム間奏曲」くらいしか演奏されていないと思います。第2交響曲の生演奏を早く聴きたいですね!

これは la_vera_storia さんの 492 に対する返信です

 

訂正「7つの封印の書」

2002/ 5/22 7:53

メッセージ: 496 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

「Sieben」だったはず・・・ということで、正確には「7つの・・」ですね。

日本初演を行ったのは、山口貴 指揮、東響(1983年)ですが、

 

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9240/allhistory.html

このHPの中では、

「七つの封印を有する書」と記載しています。

 

「交響曲4番」の日本初演はN響(スイトナー指揮)で、90年頃です。

これは bernardsstar さんの 495 に対する返信です

 

Re:ウェルザー=メスト

2002/ 5/22 7:58

メッセージ: 497 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

彼の指揮した、フランツ・シュミット「交響曲4番」のCDを持っています。音楽・演奏とも素晴らしいのですが、新しいCDであるにもかかわらず、音楽の途中で大きな雑音が入り始めたのが難点。(運が悪かったのかもしれません)

 

ウェルザー=メストの年譜は下記HPにありましたが、マルティヌー(マルチヌー)にも関心をもっていますね。

 

http://homepage2.nifty.com/FWM-MFV/biography.htm

これは gur1zem2korn3 さんの 493 に対する返信です

 

2002−2003シーズン

2002/ 5/23 22:18

メッセージ: 498 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

http://www.andreas-praefcke.de/oper2002.htm

 

上記より、来シーズンのここのトピの音楽の新上演をリストアップしてみました。

 

トリーアでのマンフレート・グルリットの「北欧のバラード」世界初演

 

ダルムシュタットのシュレーカーのDas Spielwerk und die Prinzessin

フランクフルトのシュレーカーの「宝を探す男」

キールのシュレーカーのDas Spielwerk und die Prinzessin

キールは今シーズンのflammenとクリストフォルスに続き、来シーズンもシュレーカーに挑戦することになります。

 

ベルリンのコーミッシェオーパーにおけるツェムリンスキーの「小人」

ヴィーンのフォルクスオーパーにおける「カンダウレス王」のリヴァイバル上演

 

クルシェネクは、

ケルンでのDas geheime Ko"nigreich

ヴィーンでの小澤による「ジョニーは演奏する」

 

コルンゴルトは、

ブラウンシュヴァイクとチューリヒにて「死の都」が上演されますね。

 

などなど。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ベルリンのコーミッシェオーパー

2002/ 5/23 23:01

メッセージ: 499 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

ちょっと、トピずれかも知れませんが、

 

スメタナ「売られた花嫁」

ヤナーチェク「イェヌファ」

 

と、チェコ歌劇の比率が高いことも注目できると思います。

これは gur1zem2korn3 さんの 498 に対する返信です

 

500回記念、又はコーミッシェオーパー

2002/ 5/24 11:43

メッセージ: 500 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

情報ありがとうございます。

多くのチェコ出身の人がヴィーンで活躍したことを考えれば、全然トピずれではないですよ。

 

チェコといえば、長野オリンピックでチェコがアイスホッケーで優勝したのが記憶に新しいですし、またサッカーファンの中には、チェコ代表チームが来ないのを残念がっている人も多いかもしれません。

 

また、ベルリンのコーミッシェオーパーのオーケストラは確か、以前bernardsstarさんが買い、僕も持っているゴルトシュミットの管弦楽曲集に載っていますよね。指揮は、今年チェコフィルハーモニー管弦楽団と来日するヤーコプ・クライツベルクです。

これは bernardsstar さんの 499 に対する返信です

 

J.M.ハウアーと「空中浮遊」 (1)

2002/ 5/26 2:55

メッセージ: 501 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

かなり以前にこのトピでも話題になったことのあるオーストリアの作曲家ヨーゼフ・マティアス・ハウアー(Josef Matthias Hauer,1883-1959)について、再度話題にさせて下さい。そして今回はやや本格的にハウアーという作曲家に対して、私なりの視点で切り込んでいきたいと思います。例によって、私独自の「大風呂敷」を拡げさせてもらうこととします。

 

御存知のように、ハウアーという作曲家は、「12音技法の考案者、創始者」という地位をシェーンベルクと争ったこともある人であり、こういう点だけからハウアーという人を話題にすることが多いようです。しかし、このハウアーという人は、ウィーン生まれのウィーン育ち、そして亡くなったのもウィーンであるわけですから、この人の作品に「ウィーン」というものが刻印されていてもおかしくないわけですが、一体「ウィーン的」「オーストリア的」なものがどれだけ作品に具現されているかを考えるのは無意味ではないはずです。その前に、一応ハウアーについての知識を以下のサイトで復習しておくことにします。

http://www.ibiblio.org/johncovach/hauerbio.htm

 

よく人は、ハウアーの音楽(とその理論・技法)をシェーンベルクと比較すると、机上のゲームのような要素が濃厚であり、音楽としては劣っている、などと言うようですね。本当にそうなのか? 仮に理論(理屈)なしにハウアーの音楽に接してみて、その音楽から受ける印象を、音楽以外のジャンルの文化・芸術の作品に共通するものがどこかにあるのではないか? それはいったい誰のどの作品なのだろうか? 私はそういう独自の視点でハウアーに再度「挑戦」してみました。そして、初めてある印象を得ることができたような気がしています。そのきっかけになったのは2種類のCDです。特に、そのうちの1枚からは非常に魅力的な要素を聴き取ることが出来ました。その1枚とは、Zwoelftonspiele(「12音の戯れ」と訳するのが正しいかな?)という、以下のCDです。

http://home.swipnet.se/sonoloco7/dabringhaus/hauer.html

このCDで初めて私は、ハウアーという人の音楽のなんたるかを掴みかけたところです。 それは何なのか?

 

ズバリ言ってしまいますと、これらの作品に聴かれるのは、その音楽の「空中浮遊性」(変な日本語で恐縮!)なのです。別な言い方をすれば、ここに聴かれるハウアーの音楽には、「重心」というもの存在していない、ということです。徹底した12音技法で作曲されれば、調性は喪失し(当然!)音相互の優越性は存在せず、、従って「重心」というものは存在しなくなる、などということとは本質的に異なるものが、上のCDに収録されている曲には感じとれます。こういう要素というのは、シェーンベルクのピアノ曲、その他には全く存在していないハウアー作品独自の要素と言えるように思います。引力を無視したかのように空中に浮遊し、個々の要素(音)同士が引き合ったり反発しあったりしないくせに、お互い同士がinteractiveであるような音と表現......。 音相互に、まるでシュレディンガーの波動方程式における波動関数波の収縮が生じている、と言いたい気もしますが.....。こういうハウアーの音楽と共通する要素を持つ作品は、音楽の世界にはないように思いますが、では他のジャンルにあるのか?

 

1970年の4月のある日の早朝、まだ夜も明けないパリ....セーヌ河に近いエミール・ゾラ通り6番地の建物から出てくる人影があった.....。チェルノヴィッツ(チェルノフツィ)出身のその一人の男は、セーヌ河岸をミラボー橋方向に歩いていくのだったが......。

(次投稿に続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ルジズカ氏の作品も

2002/ 5/26 8:18

メッセージ: 502 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

コーミッシェオーパーではない、他の歌劇場の上演予定に、gur1zem2korn3さんが力を入れて研究なさっている、ルジズカ氏の作品や、ヤナーチェク「カーチャ・カチャローバ」、オルフ「賢い女」もありましたね。

 

オルフ「賢い女」は、2月に新国で観たことを既に報告済みですが、

さらに感想を付け加えると、芝居としての面白さはあるが、

 

作品の結末、「賢い女と元・王が愛を確認するシーン」のバック音楽が臭いのが、難点だと感じました。

これは gur1zem2korn3 さんの 500 に対する返信です

 

Re:空中浮揚

2002/ 5/26 8:31

メッセージ: 503 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

imyfujitaさんがこのトピに投稿された時に紹介してくださったご自信のサイト:

 

http://members.aol.com/mocfujita/air.html

 

は、まさにこの「空中浮揚」を表現していると思います。

 

la_vera_storiaさんが紹介してくださったハウアーのサイトの内容も吟味しておきます。

これは la_vera_storia さんの 501 に対する返信です

 

J.M.ハウアーと「空中浮遊」 (2)

2002/ 5/27 0:54

メッセージ: 504 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

(前投稿よりの続き)

その1人のユダヤ人の男の黒い影は、やがてミラボー橋(以下URL参照)にさしかかったのだった....。

http://polyglot.lss.wisc.edu/german/celan/kirchhoff/2_bridge_small.jpg

男は、今まで自分が住んでいたエミール・ゾラ大通り6番地の建物(以下URL参照)を振り返っただろうか?

http://polyglot.lss.wisc.edu/german/celan/kirchhoff/3_apartment_small.jpg

いや....彼は自分が生まれてから今まで生きていた街、チェルノヴィッツ、ブカレスト、ウィーン、パリの記憶を辿っていたに違いない...。やがて男の姿はミラボー橋の上から消えていた。その後この男の生きた姿を目撃した者は誰もいないのだった.....。 その男の名前は、パウル・ツェラーン(Paul Celan)というのだった.....。

http://polyglot.lss.wisc.edu/german/celan/graphics/celan.gif

 

さて、勿体ぶった紹介の仕方をしましたが、旧ハプスブルク帝国領から旧ルーマニア領になって2年ほどしたブコヴィナ地方の都市チェルノヴィッツ(現在はウクライナ領のチェルニウツィ、以下のURL参照)

http://www.geocities.com/zaprudol/

に生まれたパウル・ツェラーン(1920-1970)こそ、20世紀を代表するドイツ語詩人の一人だと思います。このツェラーンとハウアーが、いったい何の関係があるのかって? あまり慌てずに、ゆっくりと述べさせて下さい(笑)。

 

このツェラーンという詩人もホロコーストの犠牲者です。ただし当時のチェルノヴィッツでツェラーンは、運良くナチスドイツのユダヤ人移送から逃れたのです。しかし彼の両親は強制収容所送りとなり、そこで命を落とすこととなります。ツェラーンにとってはこの事実が一生トラウマとして残り、最後には致命的な精神的ダメージとして彼自身をも死に導くことになります。ツェラーンについてよく御存知ない方のために、以下にいくつかのサイトを御紹介いたします。

http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.c/c254901.htm

http://www.kirjasto.sci.fi/celan.htm

*(ちょっと余談になりますが、ルジズカのオペラ「ツェラーン」をドレスデンで御覧になった、個人の方のHPがありますので無断で紹介しておきます,ゴメンナサイ!)

http://www.asahi-net.or.jp/~ib4s-cyuk/sub4-2-74.htm

 

さて.....このツェラーンの代表作、そして同時に最大の問題作であるのが「死のフーガ」(Todesfuge)という作品です。私がハウアーの「12音の戯れ」(Zwoelftonspiele)のCDを聴いたときに、途端に類似の作品としてイメージしたのが、このツェラーンの「死のフーガ」なのです。以下にこの詩のドイツ語原文と日本語訳を挙げます。

http://www2.vol.at/borgschoren/lh/lh5.htm#fuge

http://www01.u-page.so-net.ne.jp/za2/g-trakl/Trakl.www/Persons/celan.html

さて、この詩とハウアーの曲との関係なのですけれども....。

(次投稿に続く)

これは la_vera_storia さんの 501 に対する返信です

 

J.M.ハウアーと「空中浮遊」 (3)

2002/ 5/27 2:56

メッセージ: 505 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

(前投稿よりの続き)

私は以前は、この「死のフーガ」という詩について、とりわけ1つの表現に注目していました。それは、< wir schaufeln ein Grab in den Lueften......>という表現です。<ぼくらは宙に墓を掘る>というような意味ですが、この「宙の墓」という表現が実に奇抜に感じたのです。しかしある時から、これはホロコーストの犠牲者であるユダヤ人にとっては、通常のやり方で埋葬されない場合(つまり、絶滅収容所でガス殺されてしまい、死体は焼かれて灰になり、河に流されるなど)の総称的な表現であることを知りました。

 

確かあれは90年頃だったか、パリでツェラーンの詩の朗読会があり、私も興味深々で出かけていったことがあります。確かカルティエ・ラタンの狭い会場で、せいぜい50人くらいしか入らない場所でしたが、生前のツェラーンと親交のあった人(名前は忘れてしまいました)が朗読者でした。そして会の最後に、この「死のフーガ」が朗読されたのです。会の終わったあと、私の隣に坐っていた老人(まちがいなくユダヤ人)が、上記のような「宙の墓」という意味を教えてくれたのでした。 しかも、そういう「宙の墓」は「狭くない」というのですから、一層ツェラーンの表現の巧みさと、イメージの拡がりを感じさせます。

 

それからその時の朗読なのですけれども、<trinken und trinken>という繰り返しの効果のためか、この詩全体のイメージが、どこか空中に浮遊しているかのような不思議な感覚を呼びおこしたのでした。興味のある方は、以下のページを開いていたあと、Deathfugue(死のフーガ)のところからファイルをダウンロードしていただくと、生前のツェラーン自身の朗読で、この詩の朗読を聞くことができます。

http://www.nortonpoets.com/ex/celanp.htm

 

ツェラーンの作品は、この「死のフーガ」だけではなく、いくつもの詩でこの独特の浮遊感覚を感じさせるのです。ツェラーンというユダヤ人には、本当の「自分の家」「自分が両足で立つ大地」というものが存在しない、こういう感覚とハウアーの「12音の戯れ」の感覚とはかなりの類似点を感じるのです。勿論、あくまでも審美的領域の世界の話であり、そこに確たる実体としての「浮遊感覚の共有」とは言い切れませんけれどもね。たとえばイギリスの作曲家バートウィッスル (Harrison Birtwistle)の「ツェラーンにおける瞑想」(下記URL参照)という作品はどうなのでしょうか? 説明を読む限りでは「浮遊感覚」とは無関係な作品のように思いますけれども。

http://w_passage.tripod.co.jp/disc/cd-review56.htm

 

さて、ハウアーの次の作品に進むことにします。ハウアーは器楽作品ではなく、例えばオペラではどのような審美的世界を表出しているのでしょうか? 次には、歌劇「サランボー」(Salambo)について考えたいと思います。オペラにも「浮遊感覚」は感じ取れるのでしょうか.....?

*(次投稿まで少々間隔をあけさせていただきます)

(次投稿に続く)

これは la_vera_storia さんの 501 に対する返信です

 

ツェラーン、チェルノフツィ

2002/ 5/27 21:39

メッセージ: 506 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

チェルノフツィ(チェルノヴィェツ)のあるブコヴィナと、ガリチア、ザカルパッチャの3地域を合わせた地図が、

 

http://members.xoom.it/zakharii/halychyna-zakarpattia-karta.jpg

 

というサイトにあり重宝していましたが今は消えています。ブコヴィナはルーマニア領だった時期もあり、ツェラーンがルーマニア生まれと紹介されている記事もありましたね。

 

ガリチアのドロホヴィチ(ドロゴヴィチ)もユダヤ研究に欠かせない街、また、ザカルパッチャはスロバキア領だったこともある軍事上重要な地域であり、ムーハ(ミュシャ)の息子の書いた小説の舞台にもなっています。

 

チャルノフツィの建物も美しく文化研究からも興味は尽きないですね。

 

先日ご紹介いただいたハウアー文献の中では彼が彼が「作曲家」と呼ばれるのを好まず、「12音の通訳」と呼ばれたがったという記事や、ツヴァイクと同様、ルドルフ・シュタイナーの影響を受けたことに特に興味を覚えました。

これは la_vera_storia さんの 504 に対する返信です

 

ハウアー、ツェラーン、ルジツカ

2002/ 5/28 0:19

メッセージ: 507 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

ハウアーの歌劇「サランボー」は、オルフェオから、「musica rediviva」シリーズのひとつとしてリリースされています。

C 478 981 A

指揮は、ローター・ツァグローセク

演奏はヴィーン放送響、同合唱団

この歌劇は、フロベールの小説を題材にしているのだそうです。この時代のフランス小説のドイツ語圏作曲家によるオペラ化を見ると、グルリットのゾラによる「ナナ」、ツェムリンスキーのジードによる「カンダウレス王」などがみられます。またこの歌劇は1983年に完全な初演がされますが、戦後の、この時代の作曲家の歌劇の世界初演ということで見れば、1958年のグルリットの「ナナ」、1975年のウルマンの「アトランティスの皇帝」、1978年のシュレーカーの「クリストフォルス」、1980年のツェムリンスキーの「夢見るゲルゲ」、1996年のツェムリンスキーの歌劇「カンダウレス王」、そして2003年予定のグルリットの「北欧のバラード」があげられます。

 

またルジツカ氏は、ハンブルク州立歌劇場支配人、ベルリン放送響でのマネージメント時代に「頽廃音楽」物の蘇演にゲルト・アルブレヒト、ローター・ツァグローセクと共に携わっています。彼が総裁となっているザルツブルク音楽祭で今年上演される「カンダウレス王」は、ルジツカ時代のハンブルクで世界初演されました。

 

またthorofonからリリースされているルジツカの作品集のCD(cth2402)には、ツェラーンをテキストとした作品が収録されています。またツェラーンには、イギリスの現代作曲家ハリソン・バートウィッスルも曲をつけています。

これは bernardsstar さんの 506 に対する返信です