マーラーの2つの顔という妄想 (2)

2002/ 6/30 4:05

メッセージ: 537 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナーにあっては、非常に例外的な機会を除いて自分の作品を指揮するということはほとんどなかったといえます。そうして、作曲時点においては、「完成のあかつきには、あくまでも自分自身の演奏(指揮)で華々しく世間を席巻しよう」というような気持ちを抱いていたようには思えません。 ここにすなわち、前の投稿で触れました「リスト以降の傾向」がはっきりと姿を現しているように思えます。 「作曲者 = 演奏者」という関係は消えつつあった....。

 

ところが、こういう両者の分離・独立関係の拡大という傾向にあって、マーラーという人が登場してくる。 マーラーは、ヨーロッパの中の、ハプスブルク帝国の中の、ボヘミアで生まれたユダヤ人です。そういう特殊な環境の中で、さらに近代人の分意識の分裂という新しい要素すら彼は内側に背負っていた....。時計の針はまわりつつあったのに、彼の内部では以前の「作曲者 = 演奏者」という図式を維持しようとしたが、しかし彼の内部においては、作曲家意識と演奏家意識の分裂、崩壊というものを無意識的に自覚したかもしれません。よって結果としてマーラーの作品は、作曲家マーラーと、指揮者マーラーの2人の共同作業になった.....これが私の妄想です。 彼の曲の大げさな表情とか、瞬間的なテンポの変化とか、部分的強調とかをスコアで指示したいる記号は、あれは指揮者マーラーの解釈であり、必ずしも作曲家マーラーの指示ではない....こう考えてみたらどうでしょうか.....? こうして考えると、ひとつの謎が解けるように思うのは私だけでしょうか?

 

たとえば、ブルーノ・ワルターとオットー・クレンペラーは共にマーラーの弟子、ともいっていい存在でした。ところが、現在残されているこの2人のマーラー演奏の録音を聴くと、彼らはいずれも師匠マーラーのスコアに書かれている強弱記号、テンポの変化に関する指示、表情記号などに関して、非常に控えめ淡白に取り扱っています。これは、ワルターやクレンペラ−が実際に接したマーラーは、あくまでも「作曲家マーラー」であって、「指揮者マーラー」ではないからなのだ、と考えてみればどうでしょうか? ワルターやクレンペラ−の指揮の録音で、作品が一定のプロポーションを保っているのも、彼らの視線のかなたには、指揮者マーラーという視野はなかったのだ、と考えてみるのは無理でしょうか?  ところがその逆に、「指揮者マーラー」に接した人といえば、メンゲルベルクなのかもしれません。第4番の交響曲を聴くと、どうもそういう感じがしますね。このメンゲルベルク的なマーラー演奏をする人といえば、現代ではマゼ−ルかもしれません。

 

その後(ワルター、クレンペラ−後)にあって、「指揮者マーラー」の要素を沸々と感じさせたのはバーンスタインだろうと思います。しかしバーンスタインは一方にあってはそれよりも、「作曲者 = 演奏者」という、ある意味ではかつての幸福な関係を復活させたような幻想を抱かせる点において、異色の演奏かもしれません。もっとも、バーンスタインが最晩年(87年)に第3,第5交響曲を指揮した演奏の実演を聴いた時には、まるで紗幕をはさんで向こう側の世界の音楽のように聴こえ、とうとうバーンスタインのマーラーも至高の境地にまで達したのか、と感慨深く思った記憶がありますが。

 

「作曲家マーラー」という視点では、やはりブーレーズとアッバードが成功しているように思います。この両方の要素の中間にいたのがクベリーク、ショルティ、テンシュテットあたりかな?

 

マーラーの行なった仕事(作曲、指揮活動)はあくまでも1人の仕事であり、これを分離して考えるのは間違いでしょう。しかし、やはり私にはマーラーの交響曲のスコアに存在しているのは2人の人間の声であるように聴こえるのです。このスコアのは、2人の人間(1人の人間の分裂した姿と声)を感じるのは私だけなのか.....?

これは la_vera_storia さんの 536 に対する返信です

 

Re:マーラーの2つの顔

2002/ 6/30 9:39

メッセージ: 538 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

アルマ・マーラーの伝記を読んだ印象では、

 

(1)マーラーが自作を積極的に指揮した理由:録音技術が黎明期だった当時、各地で作品演奏の手本を示して、曲の良さをアピールする必要があった。このことをやってくれる指揮者があまりいなかったので、作曲者自らやらなければならなかった。

 

(2)マーラーの後期大作(交響曲8番など)ではスコアリング(オーケストレーション含む)を弟子が手伝った。大天才マーラーといえども、大規模・複雑なスコアをひとりでまとめることはできなかった。(その共同作業の過程でマーラーは仔細な指示をスコアに書き残したというのが、小生の仮説です)

これは la_vera_storia さんの 537 に対する返信です

 

マーラーの自作指揮後の追加指示

2002/ 7/ 1 1:36

メッセージ: 539 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

bernardsstar さま

 

なるほど、アルマの伝記にはそういう記述がありましたか! 私はかなり以前に読み飛ばしただけですので、すっかりそういうことは忘れていました。ただ、(2)についてはマーラーは自作の指揮のあと、その結果を踏まえて、当初の楽譜に相当量の書き込みをしたようですし、そういう実際の演奏後の追加指示をどう扱うか、という問題もありますので、一筋縄ではいかないような気がします。そういう追加指示が、例えば現在の Universal Edition にどれだけ取り込まれているかといえば、おそらくほとんど付加されてはいないのではないでしょうか? こういう追加指示は、果たして「作曲者マーラー」の追加指示と単純に考えてよいか、あるいは「指揮者マーラー」の演奏解釈なのだと割り切ってしまうのがよいのか、などなど。 どの時点での追加までを取り込めばいいのか、などと考えていくとこれはブルックナー同様、「版」の問題に突き当たりますね。

 

金子建志さんがマーラー作品に関する著作のなかで、あの第6番のハンマーのことについて触れていました。ネット上で探してみましたが、ある方のHPで金子さんの著作内容を紹介しているものがありましたので、御本人には無断で恐縮ですが、以下に紹介させていただきます。

http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/sym/mahler6.htm

これは bernardsstar さんの 538 に対する返信です

 

シュトラウス「サロメ」ーその史実性は?

2002/ 7/ 3 3:20

メッセージ: 540 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

あまりシュトラウスのことが話題になりませんので、ちょっとだけ。

 

あの「サロメ」というオペラの原作は勿論オスカー・ワイルドであり、これはいかにも世紀末イギリス文学の話題作なのです(傑作かどうかわかりませんので、一応「話題作」としておきます)。 私はこのオペラそのものには大変関心が強く、過去に何度もいろいろな場所で観ているのですが、ワイルドという人の原作作品自身にはあまり関心をもってきませんでした。 私はそれよりも、やはりこのサロメの物語(マタイによる福音書)そのものが史実なのかどうかということに、より深い関心をを抱きます。

 

いろいろと追求していきますと、実際にこのサロメの物語の史実性を考えるにあたっては、洗礼者ヨハネという人物像を考えることが大変重要になりますね! 以下にこの物語が該当している「マタイによる福音書」(Revised Standard Version)の該当部分をあげておきます(うまくいくかな?)。以下の、The Death of John という箇所です。(Johnはもちろんヨハネのことです)

http://www.utoronto.ca/religion/synopsis/gmk.htm#p111

本当は、日本語訳(新共同訳、または口語訳)をアップしたかったのですが、ネット上ではCopyrightにひっかかるようで、しょうがありませんので RSV(Revised Standard Version)をアップしました。実はこのRSVというのは、外国語に翻訳された原文ギリシア語の翻訳としては、最高の精度の訳だと言われていますので、是非御参照願います。

 

さて、洗礼者ヨハネの処刑に関する議論をいろいろと書いていくときりがないのですが(この問題は非常に興味深い問題です)、簡単に結論から言えば、やはり史実とは言えないようですね。サロメが踊ったであろう場所は(そして実際にヨハネの首を求めたのは彼女の母親のヘロディアですが)、ガリラヤ地方のティベリアスの王宮であるのが当然なのですが、しかしルカ福音書及び、ヨセフスの書くところによれば、洗礼者ヨハネが投獄されたのは死海近郊のマケルスという場所であり、そこはガリラヤ地方から200キロも離れた場所なのです。

 

大変に興味深いことに、洗礼者ヨハネ(オぺラではヨカナーン)の首は、現在のシリアの首都ダマスカスのウマイヤモスク(Umayyad Mosque)

http://www.syriagate.com/Syria/about/cities/Damascus/umayyad.htm

に安置されているそうです。見たという人がいるのかどうかはわかりません。しかし、実際に首らしきものがあるようですが、しかし本当にヨハネのものかどうかは証明のしようがありませんね。一応、モスク内にある洗礼者ヨハネ(オペラではヨカナーン)の墓の写真を御紹介いたします。

http://www.asahi-net.or.jp/~wd3n-ebt/damascus2-10.html

 

あと、以前私が「オペラ投票トピ」で「サロメ」を話題にした際の投稿も御紹介しておきます。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=MU&action=m&board=1834581&tid=9a5a4ada4ja5aa a5za5ibanija1a2bfm5a4ejibcbdja1aa&sid=1834581&mid=1764

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

   

前投稿を訂正!

2002/ 7/ 3 16:45

メッセージ: 541 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/休眠中)

 

前投稿で、とんでもないミスをしてしまいましたね。私が昨夜、新約聖書のサロメ関連部分としてアップさせたのは、実はマタイ福音書ではなくマルコ福音書の部分でした。マタイ福音書の関連部分は、以下となります。謹んで訂正させていただきます。

http://www.utoronto.ca/religion/synopsis/gmt.htm#p111

これは la_vera_storia さんの 540 に対する返信です

 

クラーサ

2002/ 7/ 6 22:00

メッセージ: 543 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

「第三帝国と音楽」(明石政紀著、水声社)という本の第4部の最終章、「強制収容所の音楽、そしてテレージエンシュタット」に、クラーサ、ハース、ウルマン、クラインなど、テレジン収容所と音楽家についてコンパクトにまとめた記述があります。

 

クラーサは、「もともとプラハの裕福な家庭の出身」であり、強制収容所に送られるまで著名作曲家として活躍し、オペラ「夢の中の婚約」が1933年にジョージ・セルの指揮で上演され、「交響曲」は1926年にクーセヴィッツキーの指揮で米国で演奏されていたとのこと。「この収容所における最も重要な催し物の一つとなった児童オペラ「ブルンディバール」」は、もともとは、「プラハ時代にユダヤ孤児院の子供たちのために書かれた曲」とのことです。

ウルマンは収容されるまでは貧困のために作曲に集中できる状況ではなかったが、皮肉なことに収容されて「食える」ようになってから作曲に専念できるようになり、オペラ「アトランティスの皇帝」を含む約20曲を作曲したとのことでした(結局はガス室送りですが)。

名指揮者、カレル・アンチェルは炊事助手で弦楽オーケストラを率い、戦後まで生き延びました。同じく、生き延びた著名音楽家としては、ズザナ・ルージツコヴァーがおり、彼女は、「一度アウシュヴィッツに送られたが、大空襲にあったハンブルクの瓦礫撤去に駆り出され、かろうじて一命をとりとめた」とのことでした。

これは bernardsstar さんの 534 に対する返信です

 

NHK教育「日曜美術館」

2002/ 7/ 7 23:09

メッセージ: 544 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

拙トピ「グルリット」の方にも書きましたが、今日、NHK教育テレビの「日曜美術館」で、ドイツの美術シリーズの1回目ということで、ベルリンの美術事情が紹介されていましたね。トピ主様が以前ここで紹介されていたシンケルの建物、またアルテ・ノヴァのプフィッツナーの「ドイツ精神について」のライナーノーツのカバーに使われたフリードリヒの絵画、表現主義美術、美術館改編事情等興味深い内容でした。僕的には、グロースのコメント・絵に大変感銘を受けました。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

J.M.ハウアーと「空中浮遊」 (5)

2002/ 7/11 1:02

メッセージ: 545 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

先日、サロメの物語は史実かどうかということを話題にさせてもらいましたが、J.M.ハウアーの作曲した歌劇「サランボ−」の原作であるフローべールの「サランボー」が史実か否かを考えるのはあまり意味がないことだと考えます。そのためには、このフローベールの「サランボ−」が19世紀後半にいかに話題になったかについて述べさせて下さい。(問題はフローベ−ル作品そのものではないのです。理由は後述します)

 

実は、このフローベールの「サランボ−」という作品は、舞台を古代カルタゴにとり、カルタゴ傭兵隊の指揮官マトー(Mytho)と、カルタゴの将軍の娘サランボーの恋の物語なのですが、とりたてて舞台がカルタゴである必要はないように思います(確かにフローべ−ルは、この作品にとりかかる直前にチュニジア旅行をしてはいますが)。 実はこの作品、1862年の発表当時にセンセーションを巻き起こしたのは、第13章のMolochという章であり(以下参照)

http://abu.cnam.fr/cgi-bin/go?salammb1,21,40

ここでは、幼児の大量生贄のシーンが展開されています。古代カルタゴにおいて、彼らの神(多神教だったようですが)のために、有力者の子供多数を同時に生贄にし、子供たちを生きたまま炎に投げ込む、というシーンなのです。「生贄は、穴のそばまできたところで、赤々と熱せられた金板の上に水滴のように消えうせた。その炎からは、白い煙が立ち昇った...」などと表現しています。 こういうシーンは当時としては大スキャンダルとなり、この「サランボ−」という作品を大宣伝する結果となったのです。 私に言わせれば、フローベールも自分の作品の売り込みに関しては、実にしたたかであり、こういうショッキングなシーンを物語に追加して、自作を世間に売り込もうとしたと可能性は否定できません。

 

さて、ではサロメの投稿でも問題にしたように、この「幼児生贄犠牲」というのは古代カルタゴにおける史実なのでしょうか? この問題のほうが私には関心があります。「サランボ−」はフランス文学の作品であり云々....などはちっとも、おもしろくもなんともありませんからね。

 

さて、この古代カルタゴの儀式について、19世紀になって初めて人々の関心を引いたのは、ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)の Histoire romaine (1831)のようです。

http://agora.qc.ca/mot.nsf/Dossiers/Jules_Michelet

このHistoire romaineと、フローベールのチュニジア旅行、及び「サランボ−」を完成したあたりは、フランス帝国主義の全盛時代であり、フランスが北アフリカその他に植民地の足場を着々と完成しつつあった時代なのですね。 つまりこのあたりにも、フランス人が古代の歴史について「再発見」しつつある時期だったのです。以下に、フランスの海外進出、ならびに歴史、文学の領域における出来事を表にしたものがありますので、是非御参照下さい。

http://archaeology.stanford.edu/journal/newdraft/garnand/table1.html

これは la_vera_storia さんの 515 に対する返信です

 

J.M.ハウアーと「空中浮遊」 (6)

2002/ 7/11 2:11

メッセージ: 546 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

さて、このジュール・ミシュレも、そして多分フローベールも、古代カルタゴにおける「幼児生贄」についての話をギリシャの歴史家ディオドロスの歴史書の記載から採っているようです。

http://www.sungaya.de/schwarz/griechen/aischylos/diodorossiculus.htm

http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/geppo/219.html

 

ちなみに、20世紀に入ってからは、一時に幼児の大量の「幼児犠牲ー人身供養」が行なわれた通説に関しては、疑問の声があがってきました。これは、カルタゴと対立関係にあったローマが、意図的にこうした偽情報を流布させたのだろう、という考え方です。もし伝えられるように大量の幼児を火に突き落としたのならば、トフェ(Tophet)と呼ばれている幼児の墓(以下参照)

http://i-cias.com/tunisia/carthage02.htm

から、なぜ子供の骨が、動物の骨とともに発見されるのか? フローベールの「サランボ−」のように、生贄の子供が火力で「蒸発」するほどであった、などとは到底言えないようです。 ただしかし、やはり「犠牲」というものは存在していたようで、これはカルタゴ独自のものではなく、またその「犠牲」も、おそらく一人の幼児に限られていたようだ、という説が有力のようですね。 確かに、現在チュニスのバルドー博物館にある石版などを見ると、大量の幼児を一時に火に入れたとは言い難いようです。

http://pweb.sophia.ac.jp/~k-toyota/images_report_north_africa/Rph07-1.jpg

上記の石版では、仮に多くの幼児を生贄にしたのならば、通常3人の幼児を抱えるという描写になるばずです。(私の理解では、3人が「多数」という表現になるはずです)確かに「生贄」犠牲」という儀式は存在したでしょうけれど(以下参照)、

http://pweb.sophia.ac.jp/~k-toyota/report_north_africa_3.html

http://ancienthistory.about.com/library/bl/uc_decker_carthrel3.htm

大量生贄というのは、あれは史実とは言い難いというところです。ですから、フローベールの小説のような描写だった可能性はほとんどないと思われます。

 

さて.....明らかにこういうセンセーションを狙ったフローベールの「サランボ−」を原作として、ハウアーはどのような音楽で応えているのか? これを次回書きたいと思います。結論的なことを言っておくと、ハウアーの作品では「幼児犠牲」などは視野の外にあります。こういう一種の「オリエンタリズム」とは無縁な世界で音楽を書いている点、私はシュトラウスの「サロメ」やシマノフスキの「ロジェ王」などとは異なる世界の音楽なのです。私は、この「オリエンタリズム」と本質的には無縁だということが、ウィーン世紀末、及び新ウィーン楽派とその周辺音楽の特徴ではあるまいか、と最近考えています。シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、あれは周囲を取り巻く政治的状況下において、彼が自己のidentityを明示するために作曲したものだ、と考えれば「オリエンタリズム」とは無縁です。マーラーの「大地の歌」はちょっと特殊ですが、しかしあの曲は外部から触発されたのではなく、あくまでもマーラー自身の厭世観の瞬間的発露と考えれば、「オリエンタリズム」の対象にはならないような気がします。以下に、「オリエンタリズム」に関してなかなかおもしろいことを書いている人がいますので、御紹介させていただきます。(無断紹介、ゴメンナサイ!)

http://www.geidai.ac.jp/labs/funazemi/2001pro.files/orientarism.htm

 

(次投稿に続く.....)

これは la_vera_storia さんの 545 に対する返信です

 

幼児犠牲

2002/ 7/13 14:22

メッセージ: 547 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

英国で最近、ルーベンスの「ベツレヘムの幼児虐殺」が約90億円で落札されたそうですが・・・

 

la_vera_storiaさんが関心をもっていらっしゃる「幼児犠牲」に関する私のつたない知識によれば、インドでは今でも、ガンジス川が氾濫すると、最貧民の父親が我が子の手足を切り落として人々の前にさらし、物乞いをしているそうです。

 

同じ「幼児犠牲」でもカルタゴだと「絵」になり、作品を生む原動力になるのでしょうか?

これは la_vera_storia さんの 546 に対する返信です

 

グリンツィング墓地 (1)

2002/ 7/16 2:29

メッセージ: 548 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

ウィーンを訪問して、しかも墓地に行かれる方は、ベートーヴェン、シューベルトなどの墓のある中央墓地(Zentralfriedhof)に行かれるようですが、ウィーンの世紀末音楽に興味のある方、特にグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)に興味を持つ方には、是非グリンツィング墓地(Grinzinger Friedhof)に行かれることをお薦めいたします。

 

グリンツィングといえば、なんといってもホイリゲ(ワイン酒場)であまりにも有名な場所なのですが、しかしこのグリンツィングにある墓地には、マーラーの墓があると当時に、あの一時代を飾った何人かの墓があり、たまにはアルコール抜きで、真面目なグリンツィング紀行もいいのではないでしょうか? 以下に、このグリンツィング墓地の地図、路面電車経路図、墓地内での墓の位置を示すページがありますので、以下御参照下さい。

http://www.gustav-mahler.org/deutsch/gedenkstaetten/grabmal.htm#hinweis

さて、上記のページの墓地内見取り図で、Alma とあるのは、勿論マーラーの妻であった、あのあまりにも有名なアルマ・マーラー=ヴェルフェル(Alma Mahler-Werfel)です。彼女は数奇な運命を辿った女性であり、夫の作曲家マーラーの存命中から、多くの男性と恋愛関係があったのです。有名な画家のココシュカとの恋愛関係のあと、夫の死後は建築家のワルター・グロピウス(Walter Gropius)と再婚し、マノン(Manon)という娘をもうけましたが、後にグロピウスとは離婚し、今度は作家のフランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel)と再婚します。ナチス・ドイツのオーストリア併合(Anschluss)の際に二人はアメリカに逃れることとなったのでした。(以下に、彼らが住んだビヴァリーヒルズの住居写真をアップしておきます。

http://www.usc.edu/isd/locations/ssh/special/fml/Werfel.html

 

さて、話をグリンツィング墓地に戻しますが、以下にアルマの墓の写真をアップしますが、下がアルマの墓石であり、上の写真は幼くして亡くなったアルマの娘のマノン・グロピウスの墓であり、母親アルマの傍らに眠っているのです。

http://www.zboray.com/graves/Vienna/mahleralma.htm

 

このマノン・グロピウスというアルマの娘が夭折した後、あのアルバン・ベルク(Alban Berg)が,彼自身の遺作にもなってしまったヴァイオリン協奏曲を以下の言葉を添えて亡きマノンに捧げているのです。

 

Dem Andenken eines Engels (亡き天使の想い出に).....

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

グリンツィング墓地 (2)

2002/ 7/16 3:35

メッセージ: 549 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

さて、このグリンツィング墓地のマーラーの墓の場所の比較的近くに眠っているのが、ピアニストのパウル・ヴィットゲンシュタイン(Paul Wittgenstein)です。

http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.w/w843023.htm

このパウルというのは、あのあまりにも有名な哲学者のルートヴィヒ・ヴィットゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)

http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.w/w841569.htm

の兄でしたが、第二次大戦中に従軍して右手を失うという悲劇にあったのです。しかしそれでも彼はピアニストとしてのキャリアを捨てることはなかったのでした。あのフランスの作曲家のモーリス・ラヴェル(Maurice Ravel)はパウルのために、あの有名な「左手のための協奏曲」を作曲したのでした。以下にサンフランシスコ交響楽団のコンサートのプログラム解説がありますので、曲の成立その他に関しては、こちらを御参照下さい。

http://www.sfsymphony.org/templates/pgmnote.asp?nodeid=2322&callid=117

実は、このパウル・ヴィットゲンシュタインがピアノを弾いて、あの巨匠ブルーノ・ヴァルター(Bruno Walter)が指揮した戦前のライヴ録音が存在しており、実に貴重な歴史的価値を持つ録音となっています。機会があれば、是非一度お聴きになられるようにお勧めいたしたいと思います。

 

さて、前投稿にてこのグリンツィング墓地に行く路面電車(Strassenbahn)の路線図を御紹介いたしましたが、

http://www.gustav-mahler.org/deutsch/gedenkstaetten/grabmal.htm

この地図では Grinzing 行きの番号が38番系統となっています。実はこの38番系統という数字は、なんと戦前から同じ数字なのです! 若き日にウィーンで学んだユダヤ人作家エリアス・カネッティ (Elias Canetti) という人が書いた回想録に、Das Augenspiel (日本語では、「眼の戯れ」と訳されていますが)という本があります。この本の中の一章に、「38番系統の市街電車」という章があり彼はそこで、この38 番系統の電車に乗って終点まで行く様子を非常に詳しく描いているのです。時は1930年代中頃であり、「黄昏のウィーン」において彼が出会った人々について鋭く観察しています。 「最初の停留所で、ツェムリンスキーが乗ってきた。黒い鳥のような頭、突き出た三角形の鼻、顎はなかった...」などなど...

カネッティは電車に乗り降りする乗客を鋭く観察しており、まさに「黄昏のウィーン」の街角の一シーンを彷彿とさせるのです。時代は変わっても、38番電車は乗客を運んで現在もグリンツィングを往復しているのです.....。

 

bernardsstar さま

今回はちょっとウィーンの観光案内をさせてもらいました。別カテの「ウィーンのおすすめスポット」(?)というところにこの2つの投稿を紹介いたしたいと存じますので、御了解いただきたくお願いいたします。それから、近いうちにこのグリンツィング墓地に眠るもう一人の人物との関連で、以前予告いたしましたマーラー、ホロコースト、ナチ、そして音楽を結ぶ大仕掛けの話題を何回か投稿いたしたいと思います。

これは la_vera_storia さんの 548 に対する返信です

 

訂正2題

2002/ 7/16 18:51

メッセージ: 550 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

グリンツィング墓地(1)(2)に関して、2個所ほど訂正いたします。

 

・Dem Andenken eines Engels

は、「ある天使の想い出に」と訳したほうがいいですね。Andenken とあるからには事実上は「亡き」なのですが、しかしちょっと意訳しすぎていました。

 

・パウル・ヴィットゲンシュタインが従軍したのは、もちろん第二次大戦ではなく第一次大戦です。

 

お詫びして訂正させていただきます。

これは la_vera_storia さんの 549 に対する返信です

 

Re: グリンツィング墓地

2002/ 7/16 22:01

メッセージ: 551 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

(1)グリンツィング墓地

ウィーン音楽ファンにとって、Zentralfriedhofと並ぶ聖地ですね。小生、今、オットー・ヴァーグナーについても研究していますが、彼の鉄道駅舎建築・教会建築とのからみで「墓地」「音楽」との関連で何か面白い事実を発見できないかと考えています。

 

(2)ヴィットゲンシュタイン兄弟

2物を与えられた兄弟ですね。パウルには、フランツ・シュミットも曲を捧げています。

従兄弟で2物をもったアインシュタインにも興味がそそられます。

 

第一次大戦は誰も望んでいないのに泥沼にひきずりこまれていった戦争。これによって古き良き時代が消失しました。小生、米国に行ったときに、S.L.A. Marshall著「WORLD WAR I」(MARINER BOOKS)という本を買いました。悲劇的なベルダンの戦いについても詳しく解説されています。読み進めて興味深い記述に出会ったら、報告申し上げます。

これは la_vera_storia さんの 550 に対する返信です

 

オットー・ヴァーグナー建築のマーラー住居

2002/ 7/17 1:56

メッセージ: 552 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

オットー・ヴァーグナーの建築とマーラーといえば、マーラーがウィーン国立(帝室)歌劇場(Hofoper)の監督(Kapellmeister)だった時代に住んだ建物(Auenbruggergasse 2 / Rennweg 5)は、オットー・ヴァーグナーの建築ですね!

以下に写真があります。

http://www.gustav-mahler.org/english/gedenkstaetten/auenbrugger.htm

上のページの写真では、なんだかありきたりの建物のように写っていますが、私がこの建物を訪ねたときの印象では、Rennweg 5番地側の建物の入り口は実に堂々としたもので、これこそがオットー・ヴァーグナーを強く感じさせるように思いました。ネット上で簡単に探してみたのですが、この入り口そのものを写した写真はないように思います。オットー・ヴァーグナー関係のページのどこかにはあるとは思いますが、時間がなくてまだチェックしていません。

 

尚、この建物の場所は以下にあります。

http://www.gustav-mahler.org/english/gedenkstaetten/gedenk-ph.htm#vienna

 

この建物が、オットー・ヴァーグナーの建築に興味を持たれている方々の視界にはないようで、ちょっと残念に思います。以下に個人の方がHPで御自分で撮られたワーグナー、ロースなどの建築の写真を公開していらっしゃり、なかなか充実しているように感じました。(ウィーンだけではなく、プラハやベルリンの建築についても写真をアップしていますね!)

http://tenplusone.inax.co.jp/archive/vienna/vienna.html

これは bernardsstar さんの 551 に対する返信です

 

レンヴェークの住宅とマーラー

2002/ 7/18 5:49

メッセージ: 553 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

鹿島出版会が刊行した「オットー・ワーグナー」の145〜146ページに記載がありますので、一部、引用させていただきますと・・・

 

「ワーグナーは賃貸住宅を二軒または三軒、連続させて建てるのが常であった。その場合は、ワーグナーはそれらを常に都市計画上の地区詳細設計をふまえて計画した。施主はワーグナー自身である場合が多かった。まず1890年から1891年にかけてレンヴェークに三軒連続の賃貸住宅を建設し、その中央の建物(レンヴェーク三番地)をワーグナーは都市における自邸として計画した。この建物は現在もよく保存されているが、レンヴェーク一番地の建物は、ファザードにおいては当時の状態を殆ど保持していない。」

 

なお。この本の146ページには「レンヴェーク三番地」の建物を正面から撮影した写真があり、美しい窓飾りが印象的。

 

なお、下記サイトをみつけました。グスタフ・マーラーゆかりの建物のリストです。

http://octopus.homeunix.net/homepages/jens/musik/mahler/gedenk.html

これは la_vera_storia さんの 552 に対する返信です

 

オットー・ヴァーグナー

2002/ 7/18 10:54

メッセージ: 554 / 1474

投稿者: gur1zem2korn3

 

の手紙・交友関係に関するページを見つけました。

http://www.getty.edu./research/tools/special_collections/wagner_m6.html

その中には、マンフレート・グルリットの叔父にあたり、著名な美術史家である、コルネリウス・グルリット(1850−1938)も見えます。どうぞ参考にしてください。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

コルンゴルト&シュミットの左手Pf作品

2002/ 7/20 22:06

メッセージ: 555 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

パウル・ヴィトゲンシュタインに捧げられた2作品をおさめたCD、「コルンゴルト:2つのヴァイオリン、チェロ、左手ピアノのための作品23」(1930)、「フランツ・シュミット:ピアノ5重奏曲(左手のピアノのための)ト長調」(1926)(演奏:レオン・フライシャー、ジョセフ・シルバースタイン、ヨーヨー・マ 他)を聴きました。

 

このCDの解説書には、ヴィトゲンシュタイン家のこと、パウルに捧げられた作品(ラヴェル、ブリトゥン、プロコフィエフなど)に関する解説があり大いに興味をそそられて読みました。

この解説によれば、コルンゴルトがパウルに捧げた作品には、作品23のほかに、「ピアノ5重奏曲 作品15」(1920-1921)、「ピアノ協奏曲 作品 17」(1923)があり、シュミットがパウルに捧げた作品には、「ピアノ5重奏曲ト長調」のほかに、ピアノ独奏のための「トッカータ」(1938)、ピアノと管弦楽のための2作品:「ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲」(1924)、「ピアノ協奏曲変ホ長調」(1934)、さらに他の2つのピアノ5重奏曲:「変ロ長調」(1932)、「イ長調」(1938)(この2つの作品は、ピアノ+弦楽3重奏+クラリネット)の全6曲があるとのことです。

 

CDを聴いた感想としては・・

コルンゴルト:佳品とは言えるが、彼の「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」「優れた映画音楽作品」などと比較すれば最高傑作とは言えないかも?曲想が様々に変化し一貫性がないことがその原因か?マーラーやブラームスの影響のほかに、マジャール的な感触もある。

シュミット:彼の「交響曲4番」「交響曲2番」「歌劇ノートルダム」などと比較しても遜色のない重要作品と言える。ブラームスの影響が濃厚だが(CD解説では、「ブルックナー的な豊かな弦楽書法」と評価)、弦楽の和声のもつ独特の音色には、シュミット「交響曲4番」と共通するシュミット特有のオリジナリティーが感じられる。

 

両曲とも後期ロマン派の室内楽である以上、ブラームスの影響を当然受けるわけでしょうが、ブラームスの「ピアノ5重奏曲」が珠玉の最高傑作であるために、この曲を超えるのは中々大変というのが率直な感想です。

 

なお、パウル・ヴィトゲンシュタインと共演した指揮者としては、ワルターのほか、バーンスタイン、ボールト、ブッシュ、フルトヴェングラー、クーセヴィツキー、ミトロプーロス、モントゥー、オーマンディ、サージェント、セル、ワインガルトナーなどがいると、このCD(SRCR2169)の解説には書かれてありました。

これは la_vera_storia さんの 549 に対する返信です

 

ラヴェルとウィーン

2002/ 7/22 2:37

メッセージ: 556 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

第1次大戦従軍にて不幸のも右手を失ってしまったパウル・ヴィットゲンシュタインの依頼によって作曲された「左手のための協奏曲」の作曲者モーリス・ラヴェルと、ウィーンとの関係について少しだけ考えたいと思います。

 

ラヴェルとウィーン(音楽)との関係言えば、なんといっても忘れられないのはあの「ラ・ヴァルス(La Valse)」だと思います。もともとこの曲の着想そのものはかなり早いうちからあったらしく、1906年頃にすでにアイディアとしてはあったようです。ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世とウィーンに捧げるオマージュとしての発想というのは、それほど以前からあったようなのですが、しかしようやく完成したのは第1次大戦も終結してベルサイユ条約も締結されたあとの1920年だったようです。

 

さて、その1920年の秋にラヴェルはウィーンを訪問しています。そして、シェーンベルクが当時ウィーンで主催していた「私的演奏協会」(Wiener Verein fuer musikalische Privatauffuehrungen)の10月23日の会に登場し、自らピアノを弾いて、アルフレート・カセッラと組んで、自作の「ラ・ヴァルス」の2台ピアノ用編曲版で演奏することになったのです。

 

こういうことですから、「ラ・ヴァルス」はウィーン訪問以前には完成されており、ウィーンという土地の感触を体験して作曲された、というのではありません。しかし、ドイツの著名な音楽評論家のシュトゥッケンシュミット(Hans Heinz Stuckenschmidt)の表現を借りれば、「ラヴェルには生涯、未知のものを認識するという直観的才能があった...」ということになるのでしょう。この曲のスコアの冒頭には、「皇帝の宮廷、1855年頃」と書かれているそうですが....。

 

ラヴェルはウィーン訪問中はシェーンベルクやベルクと会い、親交を深めたようですし、大変にウィーンが気に入ったようです。あとから彼自身が言っているそうですが、ウィーンで革の財布を買ってホテルに届けてもらおうとしたら店員から「あなたは<水の戯れ>を作曲した作曲家でしょう? 私はあの曲から喜びを感じているので、お金は要りません。」と言われたそうで、このことも彼のウィーンの印象を好くさせたようです。

 

私は、この「ラ・ヴァルス」を聴くと、確かに色彩的で華麗な点に圧倒されるのは勿論ですが、しかしやはりどこかに倒錯した狂気というものの存在が感じられ、不安感というか不気味なものを感じるように思うのですが.....。ラヴェル自身はこの曲を、註釈の中で「幻想的な、運命的で避け難い渦巻き」と書いているそうです。なるほど.......。

 

*参考文献

・Maurice Ravel - Variationen ueber Person und Werk (H.H.Stuckenschmidt)Frankfurt am Main,1966

・Schoenberg and his circle (Joan Allen Smith)New York,1986

・ラヴェル関連のサイトとしては、以下が簡潔にしてよくまとまっています。

http://www.maurice-ravel.net/

これは bernardsstar さんの 555 に対する返信です

 

ヤナーチェクとブラームスの非世紀末性

2002/ 7/24 1:19

メッセージ: 557 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

今夜(23日夜)、紀尾井ホールへドイツのピアニストのラルス・フォークト(Lars Vogt)のリサイタルがあったので行ってきましたが、なかなか考えさせられるものがありました。プログラムはヤナーチェクの「霧の中で」、ブラームスの Opus118と119、シューマンの「幻想曲」という、まさに「季節外れ」の曲目でしたが、ちょっと印象を述べます。

 

問題は前半にヤナーチェクとブラームスの最晩年の曲を並べたことなのです。このヤナーチェクの曲とブラームスの曲とはどちらも作曲者の心象風景を音楽にしたものですが、しかしこの両者の曲が本質的に、いかに違っているかを再確認した次第です。私はヤナーチェクについては、実演やCDで自分なりに随分聴いてきたつもりですが、しかしこうしてブラームスと直接的に比較してみたことはありません。別の面を言うと、ヤナーチェクの「霧の中で」は1913年の作品であり、ブラームスのOp.118,119は1892年の作品ですので、両者の作曲時期まさに世紀をはさんで約20年間の開きがあるのですが、ブラームスにもヤナーチェクもハプスブルク帝国領内で生活していたにもかかわらず、「ウィーン世紀末」の臭い、雰囲気がまったくといっていいほど存在していません。しかし作品に、かくのごとくの違いがある....これは両者の育った環境(民族、場所、使用言語、教育等)に大きな違いがあるので当然といえば当然ですが、それよりも、もっと内的な違いを感じるわけです。自分なりに考え、感じたことを書きます。

 

ヤナーチェク、特に今夜の「霧の中で」については、これはあくまでも、ある空間に流れている時間を任意に切り取った世界であると感じますね。そこには外的な刺激に対する反応もありますが、始まりも終わりもない世界であり、ペーソスはあるが、しかし非感傷的世界の時間である....。一方、ブラームスのほうは間奏曲であり、incidentalであるはずだが、しかしそこには、まとまった出来事から生じてくる感情から織りなされる起承転結のある感傷的な時間のドラマだ、といったら言いすぎでしょうか...? 

 

私はヤナーチェクにもブラームスにも世紀末音楽の臭いはないと書きましたが、これは突詰めると難しい問題だと思います。ブラームスの場合は、いかに最晩年であっても過去の(古典派)音楽に対する敬愛、信頼感と、自分の溢れ出る出る個人的感情の表現との間に矛盾を感じてはいないからでしょう。ヤナーチェクの場合は、いわゆる「生活者」としての強さと、そして自然の森羅万象に対する愛情との間にギャップがなく、感情の自然な発露が可能であった、と私は考えます。こういうブラームス的要素やヤナーチェク的要素こそ、「ウィーン世紀末音楽」と一線を画している原因なのだろう、と今夜のフォークトの演奏を聴きながら考えていました。

 

私はヤナーチェクについては正直言って、いろいろと書きたい気持ちがあり、「オペラ投票トピ」で、彼のオペラ(幸運にも大部分をプラハやブラチスラヴァを中心に、かなり体験できましたので)について紹介も兼ねて書き込みたいと願っていました。しかし、どうもあそこは話題の展開が速すぎ、じっくりと作品について味わっていこうということがやりにくいトピですので(そういう方がほとんどいらっしゃらない!)、ヤナーチェクについては当分、私の中で封印しておきたいと思っています。このトピに書き込むにしても、それは「ヤナーチェクの音楽は、なぜ世紀末音楽とは言えないのか?」というようなcontextに特化した内容に限定いたしたいと思っています。今夜はここまで.....。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

「ラ・ヴァルス」とウィーン1920年代

2002/ 7/24 22:29

メッセージ: 558 / 1474

投稿者: bernardsstar

 

マイケル・ケネディ著の「RICHARD STRAUSS」(Oxford University Press)の74ページによれば、リヒャルト・シュトラウスは1922年にバレエ音楽「Schlagobers(泡立ちクリーム)」の作曲を完了し 1924年に初演したが、この初演は「ホイップしたクリームにとっては苦い(too sour a mood for a whipped cream)ものだった」とのこと。そして、この時期のウィーンに対する音楽による社会的コメントを探そうとすれば(以上、直訳。要するに、最もこの時代の雰囲気を如実に表現している音楽を探そうとすれば)、バレエ「泡立ちクリーム」ではなく、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の中に見出されるであろう、と著者は述べています。

これは la_vera_storia さんの 556 に対する返信です

 

ブルックナーと世紀末音楽 (1)

2002/ 7/28 23:59

メッセージ: 559 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

連日暑い日が続きますね! トピ主さまにも皆様にも心より暑中お見舞い申しあげます。

 

さて、「こんなに暑い季節にブルックナーとな何事か!」と怒られそうですが、最近は世紀末芸術とはなんぞや、ということを少し考えていますので、ついでにこの「世紀末」との関連で、ブルックナーにも触れたいと思います。私自身、ブルックナーを聴く時に「世紀末音楽」としては聴いた経験がありませんので、あんまり真面目に考えたことがありません。しかし世間では一般に、ブルックナーをポスト・ヴァーグナーの作曲家として位置付けする場合が多く、それなら世紀末の要素がふんだんにあると感じて聴いて、おかしくないはずですが....。さて、先日ある個人の方のHPに、私のあるブルックナー体験を書き込まさせていただきましたので、それを以下にそのままコピーします。

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「カラヤンとブルックナー」というテーマでしたら、私はちょっと一捻りさせて私の体験を披露させてもらうこととします。

 

カラヤンという指揮者とブルックナーがいかに関係が深かったかということは、驚くべきことにベルリンにおける「カラヤン追悼コンサート」も偶然に曲目はブルックナーの9番であった、ということなのです。この89年9月のベルリン芸術週間のBPOのコンサートの曲目は、当初より(つまり同年の4月より)ジュリーニの指揮で9番と決まっていましたが、その年の7月にカラヤンが亡くなり、急遽このジュリーニ指揮のコンサート(最初の日のほう)がベルリンにおける公式の「追悼演奏会」になったのでした。私は2日間ともチケットを持っていましたので、このジュリーニのブルックナーの9番をじっくりと味わえたのが幸いでした。実にカラヤンの追悼にふさわしい指揮でしたよ! 

 

「追悼演奏会」の日は、ブルックナーの9番の前にシューベルトの「未完成」の第 2楽章が指揮者なしで演奏されました。BPOが「カラヤンの思い出に捧げる」ということでコンサートマスターのシュピーラー氏がオケに合図をして演奏されたのでした。その後(いや、ひょっとしてその前だったかな?)オケメンバーと会場の聴衆全員が立ち上がって、亡きカラヤンに黙祷を捧げたのでした....。(そして確か、あのヴォルフガング・シュトレーゼマンも悼辞を読みました)。 この最初の日のコンサートは拍手は禁止でしたので、ジュリーニも聴衆に向いて挨拶することなく、Vnの第1プルトのスタブラヴァ氏と安永氏(シュピーラー氏は引っ込み、最初裏だったスタブラヴァ氏が表に座り、安永氏が登場して裏に坐った)としっかり握手、そして指揮棒をゆっくりと降ろすと、あの冒頭の深い霧が立ち込めたのでした。(いやあ、この2日間共、ジュリーニの指揮は最高でした。ここはカラヤンのHPですので、ジュリーニの指揮の話はやめておきます。) 第3楽章の終結部は、本当に彼岸に達した音楽と演奏! 冒頭の霧から彼岸の終結部まで、確か72分という時間を費やして指揮したジュリーニの9 番ほどカラヤンの追悼にふさわしい音楽と演奏はないと言えると思いました。拍手なしの静寂の中をジュリーニが退場、オケも退場、そして満員の聴衆も無言でファワイエに退場したのでした....。私も万感胸に迫ってきて、しょうがありませんでした.....。 

 

それにしても、カラヤンの生前から決定されていた、この9月のジュリーニ指揮BPOの演奏会の9番....とても因縁を感じてしまうのです。

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上の私の体験は、あのベルリンの壁が崩壊する2ヶ月ほど前の当時の西ベルリンの話ですが.........

(続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

Re:ヤナーチェクとブラームスの非世紀末性

2002/ 7/29 1:02

メッセージ: 560 / 1474

投稿者: Waldtaube (34歳/男性/USA, Maryland)

 

 こんにちは。このトピには随分前にコルンゴルトについて投稿したきりなのですが、久しぶりに失礼します。

 

  la_vera_storiaさんおっしゃる通り、例えばヤナーチェクの「草陰の小道」や「霧の中」とブラームスの作品119は局部的にはモノローグ的な音楽であるという点で共通しながら、作品全体を見渡すとブラームスの古典的構成感がヤナーチェクには見られないですね。ブルノのヤナーチェク博物館で、確かベネチアの現代音楽祭の折、カセッラやダラピッコラと舟遊びに興じるヤナーチェクの写真を見たことがあります。漠とした印象でしかないのですが、ヤナーチェクの現代性はウィーン世紀末の音楽より更に新しい時代に直接繋がるそれだった気がします。

 

>私はヤナーチェクについては正直言って、いろいろと書きたい気持ちがあり、(中略)ヤナーチェクについては当分、私の中で封印しておきたいと思っています。

 

 私はla_vera_storiaさんのヤナーチェク論を是非拝読したいです。このトピでヤナーチェクのオペラについても語って頂きたいですし、どうしてもここではとおっしゃるのでしたら日本ヤナーチェク友の会の掲示板もあります。どこかでお話を伺えたら、と願っています。

これは la_vera_storia さんの 557 に対する返信です

 

ブルックナーと世紀末音楽 (2)

2002/ 7/29 1:19

メッセージ: 561 / 1474

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

この時のジュリーニ指揮のブルックナーといえば、非常に時間のスパンを大きくとった歌う演奏であり、その空間的、時間的な拡がりの巨大さには圧倒させた記憶があるのですが、しかしそれまでの指揮者よりも、ある要素を強く感じさせました。それはブルックナー独自の「色彩感」というものではなかったろうかと思うのです。

 

誤解のないように言いたいのですが、この「色彩感」とうのはフランス印象派絵画のような、美術的意味での「色彩感」ではなく、なんといったらよいか「光を求めるところに、光が強く射し込んでくる」というか、そういう種類のものです。 私は、こういう種類の「光」に、いわゆるカトリック的要素を強く感じさせるように思うのです。最近ですが、私は戦後のポーランド(現代)音楽に、別の意味でこういう「光への熱望」というものを感じるのです。「そういう点がブルックナーと共通しているので、これが19世紀後半からの音楽におけるカトリック的音楽だ!」などと決め付けるつもりは毛頭ないのですが。

 

家がカトリックだった芸術家(作曲家)は多いと思います。そういう人たちの作品がすべて、「光」が重要な要素である、などというはずもありません。しかし逆に考えたとして、たとえばカトリック教徒ではなかったJ.S.バッハには色彩願望は無かったように思いますし、ブラームスやシェーンベルクが色彩を追求した、などということもあまり聴く話ではありません。

 

ただ、どうも私は「世紀末芸術(音楽)」は、カトリックの影響の強い場所から出てくるもののような気がします。ロシア正教、ギリシャ正教、プロテスタント、ユダヤ教などを背景にしては出てきにくい.....。 そして、カトリック以外(たいていはプロテスタント、いやロシア正教の影響下からも)からは、「表現主義」というものを生む....。 こういってしまっては非常に雑ぱくな話以外の何物でもないですが。 つまり、「世紀末」という言葉と「表現主義」という言葉との関係を考えざるをえなくなる。

 

「表現主義」(Expresssionism)に関して、今世紀最高の美術批評家の一人であるアーンスト・ゴムブリッチ (Sir Ernst Gombrich) (*注 1909年ウィーン生まれでイギリスに帰化)は以下のように言っています。

---- The experiments of Expressionism are, perhaps, the easiest to explain in words. The term itself may not be happily chosen, for we know that we are all expressing ourselves in everything we do or leave undone, but the word became a convenient label because of its easily remembered contrast to Impressionism, and as a label it is quite useful.

- The Story of Art (by E.H.Gombrich 1989 London)

「表現主義」というものは、「印象主義」と対比させる便宜語であり、どこであれ成立すべきもののだ、ということなのでしょう。(ですから「表現主義」はドイツにオリジナルがあるとは言えないということになるのではないでしょうか?)

 

さて、ブルックナーの音楽が「世紀末音楽」であるかは別にしても、「非終末論的音楽」であることは間違いないように思います。やはりそこには「非反省的信頼感」(帰依と言うとまずいでしょうけれど)を感じます。

 

ベルリンのフィルハーモニーのホールは、当時のあの壁に近いところにあり、コンサートのあとに一息つくためにぶらぶらと歩くと、すぐにコンクリートの壁にぶちあたったものです。あの壁も、ジュリーニ指揮のコンサートを聴いた2ヶ月ほどあとに崩壊し、私が次にベルリンを訪問したのは、そのさらに1ヶ月後の年末であり、もうすでに壁には穴があけられていました。「光への渇望」こそ、旧DDR(東ドイツ)国民の求めるものでしたが、穴のあけられた壁を見ていると、不思議に数ヶ月前のブルックナーの音楽を思い出しました.....。

これは la_vera_storia さんの 559 に対する返信です