ウィーンの分離派

2002/ 8/ 3 13:25

メッセージ: 580 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

今読んでいる「ウィトゲンシュタインのウィーン」から得た知識を報告します(典拠を示さないと物を言えないたちでして・・・)。

 

分離派の中心思想を知るにはカール・クラウスを知るのが適切とのことで。その中心思想を手短かに表現すると(ロースの言葉を借りることになりますが)、「実用品を美術品から区別すること」。従ってゴテゴテとした装飾は分離派が最も敬遠したことです。それだけ分離派が現れる前のウィーンでは、貴族やそれに向こうを張ったブルジョワ(ドイツ化したユダヤ人を含む)によるけばけばしい装飾が幅をきかせていました(もっとも、分離派のシンプルと言われる建築物でさえ、現代日本の殺風景なビルと比較すれば華美に見えます)。ウィーンの分離派の様式と対極的にあった音楽として、例えばレハールの作品が挙げられます。ヨハン・シュトラウスも対極的といえるかも知れませんがあえて触れられていませんでした。ウィーンの舞踏会は日本でも有名ですが、「虚構の世界」と言ってしまえばそれまでのこと。

 

さて、この本の155ページにはクリムトについて、次のように書かれていました。

「クリムトの絵は全く独特の産物で、彼の仲間や大衆に大いに称賛されたが、模造品は現れなかった。彼の絵をたくさん見ているうちに、すぐに心に浮かぶ画家はピアズリーである。クリムトは金銀を大規模に使うため、彼の作品の中には現代の聖画のようにみえるものもあるが、それには、彼が描写的な方法をひかえて、非描写的な装飾を用いたこともあずかって力がある。クリムトの美術は、画家の想像力によって、日常的なものを一変させることを意図したものであった。」

 

当時のウィーン文化のもうひとつの特徴として異分野の巨匠の交流(たとえば、マーラーとフロイト、ブルックナーとボルツマン)が日常的に行われていたことが挙げられ、理系の人間が人文系の分野に深い知識をもつことが当然とされていました(ツヴァイクの「昨日の世界」にも描かれていましたね)この特徴と対極的なのが米国流の専門化があるとのこと。日本も旧制高校時代の「デカンショ」は、この時代のウィーン流教育の影響を受けたと思われますし(ショーペンハウエルが多くのウィーン知識人の規範となった)、その特徴が日本の高等教育からほぼ失われたのは残念でもあります。

 

それから、ウィーンのカフェは当時の厳しいウィーンの住宅事情(農業の機械化によって農村部を追われた人々の急激な流入で住宅事情が悪化。行き場のない人々が一日中、カフェーにたむろし、冬場は寒さをしのいだ)を象徴しています。そういった意味では、ウィーンのカフェに相当するのは銀座や日比谷の高級カフェーではなく、ドトールコーヒーやスターバックスコーヒーなのかも知れません。

 

>ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で使われている有名なマーラーのアダジオを聴く度に、あれは唯美主義の終末、即ち「死に至る病」ではないかと言う気がしてなりません。

 

には賛同いたします。

これは binsatobo12 さんの 579 に対する返信です

 

「アドルノ=クシェネク往復書簡」雑感

2002/ 8/ 5 1:01

メッセージ: 581 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

土曜日に用事があって神田まで行きましたが、あまりに暑いので、ついふらりと冷房のよく効いた某書店に入りました。そこでたまたま「アドルノ・クシェネク往復書簡」(みすず書房 *原題 Theodor W.Adorno und Ernst Krenek - Briefwechsel)を見つけ購入し、早速近くの喫茶店で読み始めました。

 

構成としては、前半が往復書簡(1929-1964)、後半はこの2人の寄稿した文章などで構成されていますが、なかなかおもしろい本ですね。往復書簡の内容といえば、やはり12音技法と音楽ということが大テーマとなった意見交換であり(同時代性をふまえての内容である点、実に興味深い!)、後半は20世紀音楽の本質というところまで話題が及んでいます。クシェネックもなかなかの論客のようで、そうでもなければアドルノとの往復書簡などありえなかったかもしれません。

 

1929年という時点でアドルノは「シェーンベルクの12音技法は、崩壊してしまっている素材をただうかうかと、崩壊しているなら必然的に空虚であるはずの秩序に、いつのまにか変えてしまうといった試みなどをする技術ではなく、素材に秩序があるなどとする最後の欺瞞にいたるまで粉砕し、建設的想像力の自由がおもいきり活動できる余地をこしらえていく技術なのである。」と言うあたりは、やはりあの時代の雰囲気をよく感じさせると同時に、この技法の本質部分に対する鋭い指摘だと感じました。また、「初期シェーンベルクの和声法の特性は、音度の豊かさにあった。」という表現、特に「音度」という表現には注目されます。さらに、ちょっと痛快に感じたのは、「12音技法は、音列を継ぎはぎしながらこぎれいにまとめあげる類のひとたちを、よりいっそう苦しい目に遭わせる技術なのだ。(なぜなら)この技法は、素材にまで押し戻してしまうからだ。」などとも言っています。12音技法を単なる「技法」「技術」と考える人たちの理解不足を的確に指摘しているようです。

 

アドルノはまた1929年の書簡のなかで、ハウアーのディレッタンティズムは、12音技法がそれだけですでに技術そのものであるような態度をとっている点で、その実体をはっきりと見せていると説き、1934年の書簡では、12音技法がはっきりと見えているからこそハウアーの音楽は悪くなっている、などと書いています。

 

まあアドルノのハウアーに対する評価は別にしておきます。しかし、音楽を仮に「内容」(あるいは「表現」)と「技法」とに分類したとして、12音技法は「技法」のカテゴリーに単純に分類されるものではないという点については、なかなか示唆に富む内容です。

 

一方のクシェネックについては、やはり作曲家ですので私は彼の言っている内容よりも、実際の曲で考えたい感じです。交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏もCD は持っているのですが、1回しか聴いておらず、彼の舞台作品の代表作と言われる「カール5世」に至っては、CDは購入したものの未聴。自分としてはとにかく網羅的なCDコレクションを続けた時代の「成果」(?)もあってか、コレクションは充実はしたものの、時間の不足に苦悩する日々です。でもクシェネックについては、近いうちにちゃんとした形で投稿したいと思っています。 今夜はこれまで.....。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

シェーンベルクとハウアー

2002/ 8/ 5 6:38

メッセージ: 582 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

「ウィトゲンシュタインのウィーン」の177〜178ページに、以下のように書かれています。

 

「彼(シェーンベルク)は自分自身を現代のモンテヴェルディとみなしたが、それは、モンテヴェルディがルネサンス期の対位法を単純化したのと同じように、リヒャルト・シュトラウスやレーガーあるいはマーラーのような人々が採用していた、曲がりくねった複雑な和声を、彼が単純化したからである。

近代の作曲家は全く訓練に欠けていたし、しかも十二音列は七音列よりはるかに厳格なものであった。それゆえ十二音列は、必要な訓練を行う、一つの方法であった。『わたしの作品は十二音による作曲であって、十二音の作曲ではない。ここでもわたしはハウアーと混同されている。彼(ハウアー)にとっては、作曲は二次的なものにすぎない。』」

 

小生(bernardsstar)にとっては、シェーンベルクもハウアーも素晴らしい音楽のように聞こえますが。そのほか、この本には、シェーンベルクとハンスリックの共通点(最初はワーグナーを信奉していたが、後に音楽を他の分野の手段としようとしたワーグナーの手法に反発するようになった)こと、十二音列の理論との共通点が見られる他分野の理論・・・統計力学の6n次元空間、ラッセル&ウィトゲンシュタインの数学を応用した論理学についても触れられていました。

 

小生もクシェネックはこれからです。「ジョニーは演奏する」を糾弾した、ナチスの「退廃音楽展」のポスター(可愛い黒人がサックスを吹いているところ)はよく知っているので、その辺りから入りたいのと、チェコ語表記では「クルシェネック」とも書けることから、祖先はチェコ人ではないか?(ドイツ人指揮者、ザグローセックにもそんな気がしています)という観点から興味をもっています。

これは la_vera_storia さんの 581 に対する返信です

 

返信

2002/ 8/ 6 1:19

メッセージ: 583 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

<「ウィトゲンシュタインのウィーン」

って、平凡社ライブラリーのやつですよね。このシリーズはいいのがそろっていますよね。ジンメル・エッセイ集、ホフマンシュタール詩集等、アドルノについても、「アドルノ入門」、音楽関連も2つあったはずです。

 

「ウィト・・・のヴィーン」は目次だけしか立ち読みしてませんが、僕もいずれ買おうと思っています。「ヒンデミットの実用音楽」といった項目もあったような気がします。

 

クルシェネクについて

 

僕の手元にある、日本アルバン・ベルク協会の年報8によれば、クルシェネクは両親はチェコ人であったが、家庭内では、ドイツ語を話していたようです。また、「第三帝国と音楽家たち」によれば、クルシェネクの母親はドイツ人とチェコ人の混血であったようです。最近、「ジョニーは演奏をする」のCDを買いましたが、ジャズ的な要素を除けば、打楽器の効果的な使用、大胆な響き・オーケストレーションは、クルシェネクと同じく、シュレーカー門下のゴルトシュミットの「堂々たるコキュ」を思わせるところがあります。低弦の扱い方は、シュレーカー、ゴルトシュミットと似るところがあります。

 

ツァグロセーク氏の呼び方にもいろいろあるようです。デッカの日本語版は、ローター・ツァグロセーク、読響のプログラムの「欧米音楽界情報」ではザグロセック、今年3月初来日した時のN響のプログラムはツァグロゼク・・どれがいいのでしょう。僕はデッカのを用いています。

これは bernardsstar さんの 582 に対する返信です

 

クルシェネクについて

2002/ 8/ 6 1:46

メッセージ: 584 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

僕はクルシェネクについては、オルフェオの、クリスティーネ・シェーファーのリート集と、最近買ったデッカの「ジョニーは演奏する」です。リートについては、初期のリルケによるリートが聞きやすかったです。

 

交響曲は、デッカで2番、その他に海外レーベルで日本人指揮者の人が何曲か録音しています。

 

<一方のクシェネックについては、やはり作曲家ですので私は彼の言っている内容よりも、実際の曲で考えたい感じです。

 

そういえば、アドルノも作曲をしていましたね。ヴェルゴからCDも出ていますし、「作曲の20世紀」にも彼の項目がありますね。アドルノの作品評価は定まっていませんが、僕もこの本いずれ買おうと思いますが、僕はアドルノが作曲もしていたことも念頭におきながらこの本を読んでみようと思います。また、クルシェネクは、初期に、ココシュカの戯曲をもとに歌劇「オルフェウスとエウリディケ」というを作曲していますが、ドイツの、キール、フランクフルト、ケルンあたりにヒンデミットの、ココシュカによる「殺人者、女たちの希望」

と一緒に同日公演、そして録音もしてもらいたいです。

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ウェーベルンの Im Sommerwind

2002/ 8/ 9 1:26

メッセージ: 585 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

毎日本当に暑い日が続きますね! もうあまり考え事などしたくない感じで、数日間ぼんやりとしています。 なにか暑さの解消にいい音楽はないかと思い、久し振りに、ある曲のCDを引っ張り出して聴いてみました。それは、シノポリがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したウェーベルンの管弦楽曲集です。そして目的は、このCDの最初に入っている「夏風のなかで」(Im Sommerwind)という曲を聴くためでした。

 

この「夏風」という曲は、ウェーベルン初期の1904年に作曲されており、彼がまだシェーンベルクに弟子入りする前の作品なのですが、こうやって久し振りに聴いてみますと、厚ぼったくなくてさわやかで、本当に風通しのよい曲なためか、私も気分が爽快になってきました。後期ロマン派的ではありますが、決して情念が渦巻くような曲ではないのが新鮮に感じました。さすがに若くはあっても、ウェーベルンという人の並々ならぬ才能を感じました。

 

さて、この「夏風」の次にこのCDに入っているのが、「パッサカリア」(Passacaglia op.1)なのですが、この曲の作曲は「夏風」の4年後の1908年であり、ウェーベルンがシェーンベルクに弟子入りして指導を受け、その一種の卒業作品としての位置付けであるように言われています。なるほど、形式的なリゴリズムがあるのはわかりますが、しかし聴いていて「夏風」と共通した要素はいたるところに感じるのです。「夏風」よりも厚みがあって華麗な響きではありますが、しかし音そのものの精度の高い輝きがある点です。

 

こうやって「パッサカリア」まで聴いてきたところで、最初の「夏風」という曲に対して、私の心になにかがひっかかるような気がしてしょうがない....。いったい「夏風」のなにが気になるのだろうかと考えてみました。以下はあくまで私個人の印象です。「夏風」という曲は確かに爽やかではありますし、俗っぽく言えば夏のオーストリア(作曲された場所はケルンテン地方のようですが)の風土を感じなくもありません。しかしどうもこの曲には、ウェーベルン自身の個人的体験とか、特定の時と場所とか、想い出とか、そういうものが刻印されてるという感じがしない....。なにかそういう具体的なものをイメージするものが欠落しており、ある種独特の「非現実」の世界の音に感じられるという点なのです。

 

いきなり飛躍的な話になりますが、芸術家というものは幼年期、青年期に強烈な個人的体験をしており、それが後年に作品に影を落とすという場合が実に多いですね。ひるがえってウェーベルンはといえば、この若き日の「夏風」にそういう要素があるかといえば、私の感じ方ではそれは皆無のように感じます。ひょっとしてここいらに、ウェーベルンという人の音楽の秘密があるのではないでしょうか? つまり、12音技法からリズムのセリ−化、そして最終的には戦後の前衛音楽の扉を開いた作曲家としてのウェーベルンの「感じ方」というかなんというか、「抽象化」への嗜好というかそういうものが、この「夏風」のなかにしっかりと現れているといったら過言でしょうか?

 

ウェーベルンがシェーンベルクからレッスンを受けた1904年から1908年にかけてどんな曲が作曲(初演)されていたか?  大雑把に以下に挙げます。マーラーでは「第7、8交響曲」、「大地の歌」、シュトラウスでは「家庭交響曲」「サロメ」、ドビュッシーでは「海」、ヤナーチェクの「イェヌーファ」、レハールの「メリー・ウィドウ」、シェーンベルクの「第1,2弦楽四重奏曲」などなど.....。 まったくこの時代のキラ星のような作品の名前があがってきます。 こういう作品が作曲されたり初演されていた4年間に、ウィーンでウェーベルンはシェーンベルクの指導をうけていたのです。

 

さて、ほぼ同じ時期のウィーンでもう一人、将来の芸術家を夢見て悪戦苦闘している男がいました。その男にはシェーンベルクのようなその道の優れた指導者には恵まれていなかった....。 この時期のウィーン、すなわち文化芸術の全盛時代ともいうべきこの都市で、その男の見たものはいったいなんだったのか....?

 

(この話題は次の投稿で...)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

   

その人はもしかしたら

2002/ 8/ 9 2:25

メッセージ: 586 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

クルト・ヴァイルの歌の中で「シッケルクケルーバー」と呼ばれている当時画学生だったと思われる男のことですか?

これは la_vera_storia さんの 585 に対する返信です

 

リンツから来た男

2002/ 8/ 9 4:09

メッセージ: 587 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

1906年5月8日、場所はウィーン帝室歌劇場(Hofoper)。 満員の会場を埋め尽くした聴衆は、指揮者の登場を今か今かと待っていた。演目はヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。 指揮者登場以前から、会場内にはやや不穏な空気があった.....。そういう空気を吹き払うかのように登場した痩せていて小柄な男は、聴衆はまるで無視するかのように、オーケストラに向き直り、指揮棒をゆっくりと降ろすのだった.....。 その男の名前はグスタフ・マーラーという名前で、この劇場の総監督なのだった。

 

そのマーラーという男の登場を、会場の片隅で他の聴衆に混じって、じっと凝視している若者がいた。年齢は20歳にも満たないその若者はマーラー同様、痩せていてしかも、眼の奥に不思議な輝きがあった....。身なりといえば、お世辞にもいいとは言えない。しかし、ドラマが進行するにつれこの若者の眼は一層輝きを増し、時折両眼を閉じて音楽に聴き入り、顔には次第に陶酔の表情が表れた...。

 

指揮者マーラーは、この「トリスタン」をノーカットで演奏したために、終演時間は深夜となった。終演後には、あからさまな敵意とは言わないまでも、指揮者マーラーへの悪口を言う聴衆の数は決して無視できるものではなかった。さて、この痩せた若者はと言えば、顔に恍惚の表情を浮かべて劇場を出て、リンクシュトラーセから暗闇に姿を消したのだった.....。

 

それから2年後の1908年、場所は同じくウィーン帝室歌劇場、演目はやはりヴァーグナーの「ワルキューレ」。 すでにあのマーラーは前年この歌劇場を去っており、フェリックス・ワインガルトナーが当日の演目の指揮者だった。ところがその公演中に騒ぎがおきた! というのも、当日の「ワルキューレ」を指揮したワインガルトナーが大幅なカットを行い、それに怒った何人かのワグネリアン達の抗議の叫びなのだった。 「なぜカットをするんだ! あのマーラーはカットなどは決してしなかった!」との抗議の声。 それに対してどこからともなく、「あのユダ公の名前は口に出すな!」とのいらだちの声も多数あった。

 

そういう騒ぎを、やはり劇場の片隅でじっと見守っている一人の青年の姿があった...。 あの2年前、マーラー指揮の「トリスタン」の公演にも来ていた、あの痩せた若者だった...。彼は終演後、リンクシュトラーセを歩き、マリアヒルフ方向に曲がり、そして暗闇のStumpergasse の下宿に戻ったのだった。(以下はこのStumpergasseの下宿の現在の姿)

http://smoter.com/images/Vienna_hall__door.jpg

この痩せた若者は自分の部屋に入るなり、大声でこう叫んだ。「あのユダヤ人マーラーは偉大だった! 彼は本当の意味であのリヒャルト・ヴァーグナーの芸術を理解していた! ユダヤ人マーラー万歳!」

 

こう一人で下宿で叫んだリンツから来た若者、それはアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)という名前の男だった....。 こうしてこのリンツから来た若者は、このウィーンにおいてすっかり「親ユダヤ」となったのだった。

(続く....)

 

*bernardsstar さま、その他の皆さま、私は気が狂ったのではありません。ヒトラーは若き日のウィーン滞在中に「親ユダヤ」だったのです。それはまた数日後の続投稿にて御説明申しあげることとします。これは私独自の説ではありませんので、誤解無きようお願いいたします(笑)。 そして、マーラーと若き日のヒトラーの運命的な出会い、1906年5月8日は事実なのです。

これは la_vera_storia さんの 585 に対する返信です

 

ウィトゲンシュタインとヒトラー

2002/ 8/ 9 9:46

メッセージ: 588 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

皆様、ご投稿ありがとうございます。暑中、お見舞い申し上げます。

昨日まで国内を旅行しておりました。

「ウィトゲンシュタインのウィーン」(平凡社)の286ページには以下のように書かれています。

 

「彼(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)は、1904年からリンツの実科学校に通うことになった。偶然にも、ちょうど同じ時、青年アドルフ・ヒトラーがこの同じ学校を卒業したのである。」

これは la_vera_storia さんの 587 に対する返信です

 

ヴァイル

2002/ 8/ 9 11:23

メッセージ: 589 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

nx_74205defiant様

ご無沙汰しています。

最近19世紀末から20世紀前半にかけてのドイツ語圏の作曲家に興味を持っているのですが、ヴァイルもその一人です。記していただいた歌の名と簡単な内容を教えてくだされば幸いです。僕は、ヴァイルについては、EMIのメッツマッヒャーとハンブルクフィルによる「誰が20世紀音楽を恐れようか」というタイトルに所収されている、「銀の湖」序曲を持っています。それ以来ヴァイルに興味を持つようになりました。

これは nx_74205defiant さんの 586 に対する返信です

 

Re:ウィトゲンシュタインとヒトラー

2002/ 8/ 9 12:35

メッセージ: 590 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

bernardsstarさま

 

以下の写真を御参照下さい。

http://images-eu.amazon.com/images/P/3550069707.03.LZZZZZZZ.jpg

この2人がリンツ時代に交友があったかどうかについては、諸説あります。「通説」では否定的です。しかしこの本の著者のCornish氏は、2人の間には深い交友関係があったと論じています。本件、詳しくは後程書き込みをしたいと思います。

 

とりあえず以下のを御参照下さい。ではのちほど!

http://www.richmondreview.co.uk/books/jewoflin.html

これは bernardsstar さんの 588 に対する返信です

 

Re:Re:ウィトゲンシュタインとヒトラー

2002/ 8/ 9 13:31

メッセージ: 591 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

la_vera_storiaさま

 

ヒトラーは、もしかしたらユダヤ系では?と言われるほど黒髪なのに、やがてユダヤ人抹殺に走るようになった背景のひとつに、ウィーンで画家になるのに失敗したことが挙げられていますが、

 

リンツでの同級生、ウィトゲンシュタインとの喧嘩に「ユダヤ人嫌悪」の源があるという説は興味深いですね。ウィトゲンシュタイン家はユダヤの血をひいていますが、ナチス占領下のウィーンにおいて収容所送りになるほどの迫害は受けず、フロイトをロンドンに亡命させるための援助をします(ロンドンではツヴァイクがフロイトの世話をし、最期を看取る)。これもまた不思議ですね。

 

ワーグナー演奏でマーラーを高く評価したのちに、ヒトラーが(ヨハン・シュトラウスとレハールを除いて)ユダヤ人作品を葬っていく過程も、研究対象として興味をひかれるところがあります。

これは la_vera_storia さんの 590 に対する返信です

 

クルト・ヴァイルの曲

2002/ 8/ 9 16:37

メッセージ: 592 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

お尋ねの曲は、グラムフォン国内版のpocg−1805「speak low」フォン・オッターの歌唱にガーデナー指揮のCDに収録されています.

『ピアノの伴奏の3つの歌』の第2曲「シッケルグルーバー」です.

1942年作で,作詞はハワード・ディーツ。星前からヒトラーは実はユダヤ人では、という説はあったらしく,それを扱っています.

(ヒトラーの父方の祖母が富裕ユダヤ人の家に家政婦として働いていた時に,ユダヤ人の主人との私生児としてヒトラーの父を妊娠したという話.シッケルグルーバーはその祖母の姓で,後にアーリア人の「ヒトラー」姓の男と子連れで結婚した)

ヒトラーがナチの仲間を粛清したこと,画学生だったこと,やがて惨めな市を迎えるであろうと予言する内容になっています.

(「アドルフに告ぐ」もこの立場でした)

他の曲も魅力的なナンバーばかりで,ガーデナーの歌声(?)も聞けます.

これは gur1zem2korn3 さんの 589 に対する返信です

 

Re:Re:Re:ウィトゲンシュタインとヒトラー

2002/ 8/ 9 19:03

メッセージ: 593 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

bernardsstarさま

 

若き日のリンツにおけるヒトラー少年とヴィットゲンシュタイン少年との関係については諸説あるのです。まず、Cornish氏の著作において彼が、この2人の少年との間の関係について、何を根拠にこういう説を唱えているかをはっきりさせるべく、以下にヒトラーの悪名高い著作である「我が闘争」(Mein Kampf)から、問題の部分を以下に抜き出すこととします。これは、「我が闘争」第1巻第2章の一部です。(尚、第1巻第1章と第2章の原文は以下で参照できますが、あまりに長く仮に読んでみてもウンザリするようなものですので、該当部分を抜き出すこととします)

http://abbc.com/berlin/kampf1d.htm

(英訳の第1巻第2章は以下で参照できます)

http://www.hitler.org/writings/Mein_Kampf/mkv1ch02.html

(原文)

In der Realschule lernte ich wohl einen ju"dischen Knaben kennen, der von uns allen mit Vorsicht behandelt wurde, jedoch nur, weil wir ihm in bezug auf seine Schweigsamkeit, durch verschiedene Erfahrungen gewitzigt, nicht sonderlich vertrauten; irgendein Gedanke kam mir dabei so wenig wie den anderen

 

*(以下英訳)

At the Realschule, to be sure, I did meet one Jewish boy who was treated by all of us with caution, but only because various experiences had led us to doubt his discretion and we did not particularly trust him; but neither I nor the others had any thoughts on the matter.

 

要するにここで触れられている「ユダヤ人の少年」というのがヴィットゲンシュタインである、という前提なのです。しかしこれに関しては、まったくの確証はなく、あくまでもCornish氏の憶測にすぎません。かつ、ヴィトゲンシュタインの伝記及び、その研究家が調査した範囲でも、リンツでこの2人の少年が近い距離にいた1年の間に、2人に交友関係、敵対関係があった形跡はまるで見つからないのです。

 

私はさきほどから、このCornish氏の著作が発売された時に書評としてTLS(Times Literary Supplement)誌に掲載された批評を見つけようと、この書評誌のスクラップブックをあたっているのですが、とうとう見つけられませんでした。といいますのも、TLS誌ではこのCornish氏の著作を徹底的に批判していたのを記憶していたからです。しかしとうとうネットで、このTLS誌の書評(らしきもの)を発見しましたので以下にあげておきます。是非是非、御参照願います。(ひょっとして原文を短縮したものかもしれませんが)

http://www.mugu.com/pipermail/upstream-list/2000-August/000056.html

もう徹底的に非難した書評です。しかしその内容は、まことにもっともだと思いますね。 また、ちょっとニュアンスの異なる書評(New Statesman誌)も発見しましたので、これも参照いただけるとありがたいと思います。

http://www.geocities.com/wittgensteinonline/articles/2.htm

 

ちょっとトピずれになってきました。私は次の投稿にて、ヒトラーという男と世紀末ウィーンの音楽との関係、そしてさらに音楽の意外な裏面史にまで風呂敷きを広げさせていただきますので、なにとぞひたすらの御寛容をお願いいたしたいと存じます。

ではまた!

これは bernardsstar さんの 591 に対する返信です

 

nx_defiantさん、gur1zem2korn3さん

2002/ 8/ 9 19:35

メッセージ: 594 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

nx_74205defiantさま

 

なるほど、おもしろい曲があるものですね!それから、ヒトラーにユダヤ人の血が流れている可能性ですが、これは現在の実証的研究の結果、ほぼ完全に否定されるに至っています。その否定の根拠等については、別の投稿でなんとか音楽の話題に関連付けて触れたいと存じます(かなりトピずれになってしまいますが)。また別の機会に、「ヒトラーのanti-Semitismはウィーン時代に熟成され、その彼のanti-Semitismは、後年のナチスドイツのユダヤ人大虐殺につながっている」、「ヒトラーのanti-Semitismは彼の一貫した心情であり、そのanti-Semitismは彼が政権を奪取して以降は、ユダヤ人大虐殺の実行と言う形で実現した」という世間一般の説は間違いである可能性が高い、という点にも触れたいと存じます。(もちろん私一人が考えたのではなく、これも多くの研究者の研究の積み上げによるのですが....)

 

gur1zem2korn3さま

 

貴投稿、いつも興味深く拝読いたしております。私の個人的な嗜好の範囲には、gur1zem2korn3さんが興味をお持ちになっていらっしゃる、ヒンデミット、グルリット、レーガー等は、なかなか視野に入ってきませんので今までレスはいたしておりませんでした。私は今まで、これらの作曲家の作品を、本当に納得して聴いた経験がなく、貴投稿を参考にしてこれらの作曲家の魅力にも迫りたいと存じます。gur1zem2korn3さんの実体験を踏まえた作曲家論を、是非今後ともよろしくお願いいたします。ところでgur1zem2korn3さん、バルトーク、ヤナーチェク、シマノフスキなどには興味ありませんか....?

これは nx_74205defiant さんの 592 に対する返信です

 

ヴァイル

2002/ 8/11 0:55

メッセージ: 595 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

教えていただきありがとうございます。

あの黒のカバーのCDですね。

僕は、ガーディナーについては、VPOとのメンデルスゾーン、アルヒーフの第9を持っています。第5番は鬼気迫る感じがします。

ファン・オッターはコルンゴルト、ヴァイル、ツェムリンスキーとここのトピの要の作曲家を歌い録音していますね。政治的なものを暗示するという点では、教えていただいた歌曲はウルマンの「アトランティスの皇帝」に通ずるものがありますね。

これは nx_74205defiant さんの 592 に対する返信です

 

la_vera_storia 様

2002/ 8/11 1:44

メッセージ: 596 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

私もla_vera_storia 様の、詳細で説得力のある、巧みな描写の投稿に、いつも感心し興味を持って読ませて頂いております。

また、10数年前から僕はクラシック音楽を聞き始め、今年で24才を迎えるわけですが、自分の、音楽の捉えかたはこれでいいのかと思うことが最近多くなってきております。そんな中で、2年前からYAHOO掲示板を利用し、様々なトピでの皆さんの投稿、特に20世紀前半のドイツ語圏音楽に関しましては、ここのトピに感謝しております。

 

僕は他に「マンフレート・グルリットのトピ」というのを作っているわけですが、僕は彼だけでなく、ここのトピに関連する作曲家の何人かも好きです。la_vera_storia 様の示していただいたバルトーク、シマノフスキ、ヤナーチェクに関しましては、正直に申しまして、今はどんな音楽かといことで数年前から聞き始めたところです。実際に聞いたヤナーチェク、バルトークに関しましては「嫌い」という意識はなく、かといって格別に好きというわけでなく、でも関心を持った部分があるのは確かです。

バルトークについては、先日中公新書の「バルトーク」を読み終えました。実演では、クリスティアン・テツラフによる、無伴奏ヴァイオリンソナタ、CDはグラモフォンのブーレーズによる、舞踊組曲その他を持っています。ヤナーチェクは、シャイーとVPOとの、グラゴル・ミサ、ツェートマイアーによる、ヴァイオリン協奏曲「魂のさすらい」を持っています。現在僕の興味のある、ここのトピ関連の作曲家で特にこだわりを持っているのは、グルリット、ツェムリンスキーですが、彼らを理解する上では、様々な、同時代の作曲家、過去の大作曲家との比較が重要となりますが、前記の2人が好きな現状としましては、ヤナーチェク、バルトーク、シマノフスキは是非とも聞いておかねばならない作曲家だと思います。もちろん、彼ら3人そのものを好きになる可能性もありますが。

これは la_vera_storia さんの 594 に対する返信です

 

アトランティスの皇帝

2002/ 8/11 2:08

メッセージ: 597 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

このウルマンの作品は,他のオペラが比較にならない霊感に溢れた桂作だと思います.

オルフェオから,『壊れつぼ』『非キリスト者の没落』と出ていますが,いずれも緊迫感と完成度の点でこの作品には適いません.

特に女性兵士と青年兵の二重唱,ラストの皇帝の決別のアリアは政治的な背景を抜きにしても素晴らしい出来だと思います.

楽譜がショット社から出ていますね.

先日聴きに行ったチェコの合唱団によるハンス・クラーサの「ブルンジバール」は、子供達が演奏者だと言う点もあり,同じテレジンで作られたオペラでも、違います.

ウルマンはシェーンベルグ、クラーサはヤナーチェクと指示した人物の音楽がまるで違うからでしょうか.

これは gur1zem2korn3 さんの 595 に対する返信です

 

リンツから来た男 (2)

2002/ 8/11 4:16

メッセージ: 598 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

このリンツから来た痩せた若者のアドルフ青年にとって、1906年5月8日のウィーン帝室歌劇場におけるマーラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」の体験は強烈なものであったに違いありません。アドルフ青年のヴァーグナーへの傾倒は、この体験によって一層決定的なものになったようです。

 

さて、アドルフ青年にとっての最初のヴァーグナー体験は、故郷リンツの歌劇場(以下参照)

http://smoter.com/images/linz_opera.jpg

での1905年の「リエンツィ」(Rienzi)、及び「ローエングリン」だったようです。特に前者の「リエンツィ」には感銘を受けたようです。彼はこの劇場内で、以降数年間にわたっての親友となったアウグスト・クビツェク(August Kubizek)と出会いますが、このクビツェクによれはアドルフ青年は「リエンツィ」の終演後は完全に放心状態で、翌朝まで家に帰らず、さまよい歩いていたほどだったそうです。以下に、ちょうどこの頃(1905年)のアドルフ青年を描いたスケッチがありますので、以下に挙げておきます。

http://www.aec.at/projekte1996/freelance/rax/KUN_POL/POLITIK/LINZ/ah-linz.html

アドルフ青年はこの頃になると、スケッチに一層の興味を抱くようになったようで、学校の1904-5年の学期の成績表では、自由素描の科目でAを取っています。それまでの学期ではすべてDだったのが、急にAを取るようになったという点で、この1905年のアドルフ青年は、ヴァーグナー体験と並んで、この年はなにかが変り始めた年だったようです。(以下にアドルフ青年の成績表を挙げておきます。英語版ですがFreehand Drawingという科目に御注目下さい。

http://smoter.com/report.htm

 

さて、翌年の1906年の5月の初めてのウィーン旅行というのが、アドルフ青年のこの後の人生に大きな影を落とすものになったのです。ヒトラーの伝記は何冊かありますが、ドイツで大変に評判の高いヨアヒム・フェスト(Joachim Fest)の著作では、このヒトラーの最初のウィーン訪問を1905年としていますが、これは大変な間違いです。その他、ヒトラーがウィーンで「トリスタン」と「さまよえるオランダ人」をブルク劇場(Burgtheater)で観た、などと記載されていますが、いったいどうしてこれほどひどい間違いを平気でやっているのかが実に不可解です。(こんな調子ですから、「マーラーについて彼は何らの注意も払っていなかった」などというとんでもない記述すら現れてくるのです。)

 

さて、アドルフ青年は1906年5月7日の消印のある絵葉書を、リンツにいる友人のクビツェクに送っており、その文面には「明日は歌劇場に<トリスタン>を、明後日は<さまよえるオランダ人>を観にいく。」と書いています。ちなみにこの絵葉書はヒトラーの現存する肉筆のうち、もっとも最初のもののようです。この絵葉書そのものをなんおかアップさせようとネット上で探しましたがみつかりませんので、代わりといってはなんですが、1905年のウィーンの典型的絵葉書を以下に挙げておきます。

http://www.wien.gv.at/ma29/wienfl/portal.jpg

 

さて、実際のウィーン帝室歌劇場(Hofoper)の当時の上演記録を調べていきますと(残念ながらこれも戦前のものはネットにはないようです)、何と確かにアドルフ青年が絵葉書を書いた1906年5月7日の翌日の8日は「トリスタンとイゾルデ」、翌々日の9日にはオランダ人が上演されていることが判明し、アドルフ青年の記載が完全に真実であることが証明されました。そしてなんと8日にはマーラーが指揮者だったことが最近になって判明したのです!   1906年5月8日、ヒトラーとマーラーの両者の生涯にとって最初で最後の遭遇、これを「歴史的」と言わずして何といったらいいのでしょうか? この時代のウィーンを象徴する「事件」とさえ言えると思います。

 

以下に、アドルフ・ヒトラー自身が描いた、ウィーン帝室歌劇場の水彩画を挙げておきます。

http://www.snyderstreasures.com/images/AHViennaOperaOALarge.jpg

(続く.....)

これは la_vera_storia さんの 587 に対する返信です

 

オルフェオその他

2002/ 8/11 11:05

メッセージ: 599 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

<オルフェオから,『壊れつぼ』『非キリスト者の没落』と出ていますが,

 

「壊れつぼ」は、オルフェオの「MUSICA REDVIVA」という、オルフェオ版頽廃音楽シリーズの中にありますね。オルフェオさんには、グルリットの「軍人たち」、アイネムの「ダントンの死」、ライマンのリート集、クルシェネクのリート集を持つ者として感謝しております。ただ音楽理論をきちんと勉強していない、かつ調性音楽を主に聞いてきた(もちろん12音音楽も抵抗なく聞くことができます)僕にとっては、よくわからなかったです。

 

「壊れつぼ」には、「軍人たち」でも歌っているクラウディア・バラインスキーも出ていますが、彼女の歌唱は、実際に歌っておられるnx_74205defiantさんはどういう感想をお持ちですか。

 

「アトランティスの皇帝」はデッカから出ていますが、僕は、ベルク協会での講演会の中で部分的に聞いただけです。この講演会に出席していたアルブレヒトさんは、翌月読響と、シュールホフ、ウルマンの交響曲を演奏することになります。ちなみに、僕は、ベルリンの画商の家に生まれたグルリットに興味を持っていることもあって、第2次大戦中に強制収容所で亡くなった作曲家の中では、ベルリンの画家とも親交のあったシュールホフに関心があります。

 

ショット社は、プフィッツナー、ヘンツェ、ライマン、ハルトマンを出版しているとあって関心があります。

これは nx_74205defiant さんの 597 に対する返信です

 

訂正:ネドバル

2002/ 8/11 14:50

メッセージ: 600 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

「オストゥルチル」は間違いで、マーラーの友人かつ、ヤナーチェクの葬儀に参列したのは、オスカル・ネドバルのほうでした。すみません。

(ヤナーチェク友の会のサイトを参照させていただき・・・)

http://homepage2.nifty.com/JANACEK/18death.htm

 

オストゥルチルは、この葬儀のほうには参列しています。

 

下記のドイツ語サイトには、戦間期のボヘミア&モラビアの作曲家の交流(ドイツ系も含めて)がいかに実り豊かであったかが記載されており、ネドバル、ブロート、ハーバ、ウルマン、ノヴァーク、ヤナーチェク、ヤン・クベリークらの名前が挙げられています。

http://www.uni-regensburg.de/Fakultaeten/phil_Fak_I/Musikwissenschaft/ss-97/3161 4.htm

 

下記サイトは以前紹介したかも知れませんが、マーラー「交響曲8番」の初演に参加(スタッフとして、聴衆として)した著名人の名前が見えます。ネドバルの名前もあります。ラフマニノフは未確認情報のはずです。

http://ccins.camosun.bc.ca/~dbarker/gm/Eighth.html

 

下記サイト(チェコ語)にネドバル(Oskal Nedbal)の音楽家人生についての記述があります。

彼が作曲したバレー音楽(パントマイム)「ホンザについてのお話」は、マーラーに高く評価されました。この曲は1902年にプラハの国民劇場で、1903年にウィーンで初演されています。彼は1906年にチェコを離れて(チェコ弦楽四重奏団を辞任)ウィーンに行きます。ウィーンでは、指揮、作曲活動を行うとともに、新しいチェコ音楽(ノヴァーク、スークなど)の紹介をおこないます。第1次大戦後はウィーンを離れ、ブラチスラヴァのスロヴァキア国民劇場で指揮を行ったりしています

 

http://www.libri.cz/databaze/kdo20/list.php?od=n&start=1

これは bernardsstar さんの 569 に対する返信です

 

リンツから来た男 (3)

2002/ 8/12 3:11

メッセージ: 601 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

1906年という年のマーラーは、「トリスタンとイゾルデ」の他に、モーツァルト生誕150年の記念祭のウィーンで「ドン・ジョヴァニ」「フィガロ」をかなりの回数指揮した記録が残っています。しかしもうこの時点以前から、ウィーンの音楽ファンの間に、マーラー排斥の気運が拡がり始めていたのです。理由はいくつかありますが、マーラー自身の非妥協的性格が原因のひとつであったことは間違いないでしょう。オーケストラとの練習の厳しさ、外部からの干渉を断固として拒否した姿勢、などなど。そして、そうしたマーラーの態度に対する批判の後ろには、当然 anti-Semitism があったことは間違いありません。 そうした状況の悪化のもと、とうとうマーラーはウィーンを去ることとなりました。それは1907年の11月のことでした....。

 

アドルフ青年はといえば、1906年春の最初のウィーン旅行のあとのウィーン訪問は、翌年1907年の9月のことであり、これは彼がウィーンの美術学校受験が目的でした。皆様御承知の通り、彼はこの受験に失敗することとなります。故郷のリンツでは、アドルフ青年の母親のクララは重病となっており、とうとうその年の12月21日に、ウィーンより帰っていた息子のアドルフに看取られ、亡くなってしまいます。

 

アドルフの母親がリンツで亡くなったちょうどその頃、マーラー夫妻を乗せた船はニューヨーク港に到着します。 マーラーは、アメリカという新天地での新たな活躍への希望の背後に、ウィーンへの失望と憧憬の入り混じった感情を抱いていたに違いありません。年があけた1月初旬、マーラーはメトロポリタン歌劇場にて「トリスタンとイゾルデ」の指揮でデビューすることとなります。

 

ちょうど同じ頃、リンツを出発してウィーンに到着したアドルフ青年の姿を、ウィーン西駅 (Westbahnhof)で再び見ることとなります。 あのマーラーのウィーン出発に際して、シェーンベルク、ブルーノ・ワルター、ツェムリンスキー達がマーラー夫妻の出発を見送ったのはたった1ヶ月前の同じ西駅だった.....。(以下、当時の西駅の写真です。BBでないと瞬時には表示されないかもしれませんが)

http://www.members.aon.at/mederitsch/alfred/wien56.htm

 

ウィーンに別れを告げて去ったマーラー、ウィーンに再び現れたアドルフ青年、この2人に共通した感情は、前者にあっては深い失望、後者にあっては母を亡くした悲しみだったでしょう。しかし、前者は世紀末ウィーンに瞬間美しく輝いた星であり、後者はヨーロッパ破滅を予告する不吉な星だった....。 

 

さて、マーラー時代の去ったウィーンで、アドルフ青年はどういう音楽を体験したのか? アドルフ青年は西駅から、寒風吹きすさぶ中、外套の襟を立ててマリアヒルフ通り(Mariahilfer Strasse)に足を運んでいた。.....。

http://www.members.aon.at/mederitsch/alfred/wien55.htm

http://www.members.aon.at/mederitsch/alfred/wien80.htm

 

ちょうどその頃、どんよりとしたウィーンの同じ空の下、やっと歩くか歩かないかの年齢の少女が、隣の部屋で父親の引くヴァイオリンの音に耳をすませていた........。

 

(to be continued)

これは la_vera_storia さんの 598 に対する返信です

 

ヒトラーの家系 ー 深い闇の世界

2002/ 8/13 3:49

メッセージ: 602 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

ヒトラーにユダヤ人の血が流れている、とう説を現在も信じている人がいるようですが、これに関しては実証的研究から現在では、ほぼ完全に否定されています。 まず先に、ヒトラーの家系図をアップしますので、以下を是非是非クリック願います。

 

http://history1900s.about.com/library/holocaust/nhitanc.htm

 

ヒトラーにユダヤ人の血が流れている、という説は生前からいろいろとあったのですが、すべては当時のジャーナリストなどのセンセーショナルな新聞記事がネタであり、しかも単純な事実誤認でしかありませんでした。しかし単なるそういう新聞記事ネタではなく、それらしい一番もっともらしい説があり、長くその説の信憑性については議論となっていたのです。それは以下です。

 

「アドルフ・ヒトラーの父親(Alois)の母親マリア・アンナ(Maria Anna Schicklgruber)は、グラーツにおいてフランケンベルガー(Frankenberger)というユダヤ人の家の住込み料理女として働いており、その際にその家の19歳になる息子と関係を持ち、妊娠した結果生まれたのがアロイス(Alois)、すなわちアドルフ・ヒトラーの父親である。よってアドルフにはユダヤ人の血が4分の一流れている。」

まずこの説については、

 

(1)当時のリンツには15世紀末から当時まで、定住ユダヤ人は一人もいなかった。

(2)当地の戸籍簿、住民登録簿、教会公式記録、国勢調査、どれひとつとってもフランケンベルガーという名前はない。

(3)マリア・アンナはアロイスを身ごもった1836-7年当時は仕事に就いておらず、またグラーツの「家事使用人名簿」にも「住民票」にも記載されていない。

 

という3つの事実が綿密な調査の上に判明し、この説は完全に否定されるに至っています。(この点につきもっと興味のある方は、Werner Maser, Joachim Fest, Ron Rosenbaum, Ian Kershaw などの関係著作を参照願います)

 

しかし、アドルフ・ヒトラーの父親であるアロイスの父親が私生児であるのは事実の可能性が非常に大きく、いったい誰がアロイスの本当の父親であるかについては、長い議論の種となっていたのでした。しかしこれまた最近の研究により、ヨハン・ネポムーク・ヒュットラー(Johann Nepomuk Huettler)である確率が大きいことが判明してきたのです。(この点について興味のある方は、先にあげた研究者の著作にあたって見て下さい)

 

そして実に衝撃的なことには、このヨハン・ネポムーク・ヒュットラーというのはアドルフ・ヒトラーから見れば、父方の祖父であり、かつ母方の曽祖父であるという事実なのです! さきほどURLの家系図を注意深く参照していただければ、いかにアドルフ・ヒトラーそのものが近親相姦の落とし子であるかがよくわかると思います。私も、この家系図を再び見ていると背筋に寒いものが走るのを感じます....。

 

どうもアドルフ青年のことを調べていくと、私はあのヴァーグナーのことを思い出さざるを得ません。ヴァーグナーについては、実の父親がはっきりしていません。アドルフ青年本人にとっては、祖父がはっきり誰だかわかっていなかったことと似ていますね。近親相姦といえば、あの「ワルキューレ」でのジークムントとジークリンデとの間の近親相姦を思い出します。そして生まれたのがジークフリートです。

 

ヒトラーの家系については、最近の研究でいろいろなことが判明してきましたが、しかしやはりその底には実に薄気味悪い、深い闇が漂っているのを感じざるを得ません.....。

これは la_vera_storia さんの 594 に対する返信です

 

 

前投稿一部訂正

2002/ 8/13 10:01

メッセージ: 603 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

前投稿のうち、一部不注意ミスがありましたので訂正いたします。 3つの否定の根拠のうちの最初の

(1)当時のリンツには15世紀末から当時まで、定住ユダヤ人は一人もいなかった。

 

「リンツ」ではなく勿論、「グラーツ」です。謹んで訂正させていただきます。

これは la_vera_storia さんの 602 に対する返信です

 

ネドバル(2)

2002/ 8/13 21:37

メッセージ: 604 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

ネドバルの死因は「自殺」とのことです。

 

http://www.nur-ruhe.de/geschich.htm

 

このサイトは自殺した著名人のリストで、日本人としては、有島武夫、三島由紀夫などの名が挙げられています。

 

ヒトラー、ゲッペルス、ツィンマーマン、ワイニンガー、ベック、エヴァ・ブラウン、ツヴァイク、フリーデル、の名もあります。

これは bernardsstar さんの 600 に対する返信です

 

ネドバルとルドルフ・ゼルキン

2002/ 8/13 21:46

メッセージ: 605 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

先日紹介いたしましたチェコ語のサイトに、ネドバルがパブロ・カザルスと共演したことが書かれていました。

 

下記サイト、

http://www.classicalhall.org/bio1.asp?lname=serkin

 

には、ルドルフゼルキン(12歳)のデビューコンサート(メンデルスゾーン「ピアノ協奏曲」)で指揮をつとめたのが、ネドバルであると書かれています。

これは bernardsstar さんの 604 に対する返信です

 

ネドバル(4)、ヒットラーとナポレオン

2002/ 8/13 22:21

メッセージ: 606 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

もう1件、ネドバル情報!

ネドバルは1907年にウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団を創設したとのことです。

 

http://www.dbss.org/Archive/daytonabeachsymphonysocietyconcert111100.htm

(ただ、この「トーンキュンストラー」は、1921年に「ウィーン交響楽団」と合併していますので、今の「トーンキュンストラー」とは別物かも?)

 

ここで、 さまのヒトラー情報にレス申し上げます。

最近、小生、ブーレーズ、シェーファー等の演奏によるCD、シェーンベルク作品集:「月に憑かれたピエロ 作品21」「心のしげみ 作品20」「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌 作品41」を聴いています。

このうち、「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌」のCD解説には以下のように書かれておりました。

「第二次世界大戦の真っ只中に書かれたことから、ヒットラーに対する痛烈な批判として解釈されることが多いが、シェーンベルク自身はそのようなことは何も語っておらず、彼の音楽にそのような目的意識を読み取ること自体、間違っているといえる。そもそもヒトラーは、これほど崇高で気高く、芸術性あふれた表現力で語られるに相応しい人物ではない」(文責:ポールグリフィス、岡本和子訳)

 

すなわち、ヒトラーとナポレオンを一緒にしたら、ナポレオンに対して大変失礼ということ。ヒトラーもナポレオンも大きな戦争を引き起こしたわけですから、彼らの決断によって命を失った人々が大勢現れたという点では共通点がありますが、ヒトラーがダントツで毛嫌いされるのは、やはりユダヤ人に対する無差別迫害と、強制収容所における残酷な殺戮のためでしょうか?

これは la_vera_storia さんの 602 に対する返信です

 

Hitlerのこと

2002/ 8/14 3:28

メッセージ: 607 / 1477

投稿者: SPINATPOLKA2 (女性/オーストリー)

 

bernardsstarさま、la_vera_storiaさま

興味深いお話を有難うございます。

「リンツから来た男」の連載も楽しみにしています。

およそ、政治的、思想的な事は私には難しすぎる事なのですが、リンツ近郊に住むものとして、また強制収容所のあったマウトハウゼンの街も近くにありその悲惨な時代の痕跡を目の当たり見、またそこで行われた悲劇がTVで頻繁に放映される事もあって、この人物についての興味はありました。

 

昨年、日本からの年配のかたの訪問者が、サルツブルグ見学のついでに、そこからわずかの国境を超えた山頂にあるヒトラーの山荘を見学したいとおっしゃり、「悪魔」の山荘を訪れるにあたって非常な抵抗を覚えました。さすがにそんな所を見学に行くとはこちらの誰にも話せませんでした。

 

la_vera_storiaさんの紹介してくださったページも1つ1つ拝見しましたが、その他にgoogleで検索したものに次のようなものがあり、少々と惑いました。

http://arrog.antville.org/20020617/

のなかの記事によると、ヒトラーとヴィトゲンシュタインがRealschuleで重なった1年について、前者は3年、後者は5年生だったということですね。当時の学校制度はわかりませんが、現在では5年の時に学校を変わる可能性がありますから、同じようにヴィトゲンシュタインも5年からリンツの学校に入って来たと仮定して、同い年のヒトラーは留年した年もあることになりますね。

例の写真はクラス写真ではなく、学年を混ぜ合わせた生徒の写真でしょうか。中にはひどく幼い顔も見られます。

そして、ヒトラーは4年生にあがれずシュタイヤーの学校に転校、(フランス語)が常に"F"では上級は無理だったのでしょうか。あの成績表は年令と年号しかないので、学年がだぶっているかは不明、最後の年のものはシュタイヤーのものでしょうが、それ以前のものはリンツのものなのでしょうか。あたらしい絵画の教師によって良い評価が得られたということもあるかと…想像するときりがありませんが。

 

そして新しいギムナジウムも去らざるをえなくなり、マトゥーラ(高校卒業試験終了)の経歴がなかったことがその先のつまずきにつながっていったのですね。わが闘争も御紹介のページで初めて読み、建築科への入学の道も閉ざされた理由を知りました。

 

何もかもつまづきながら成長したコンプレックスが彼の思想形成の根本にあったということなのでしょうか。

教養とか人柄とかにはおよそ程遠いあの人物についていった人々がいた時代、全く信じがたいことです。

ナポレオンのことには全く無知ですが、いかなる人物とも比べるに値しないと思う程の憎悪をヒトラーに対して抱いています。

これは bernardsstar さんの 606 に対する返信です

 

ホロコースト問題論点(大トピずれ御容赦!)

2002/ 8/14 4:06

メッセージ: 609 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

bernardsstarさま

 

私が現在進行させていただいている「リンツから来た男」のシリーズでは、なんとか音楽の話題を中心にしつつ、ナチズムとホロコーストに触れていきたいと欲張った「企画」にさせてもらっています。「リンツから来た男」はあと3回ほど投稿させていただき、次はこのテーマの「後半戦」として、「ウィーン世紀末を生きた芸術家が、ナチズム、ホロコーストの中で、運命の見えない糸に翻弄される人間のドラマ」というテーマで投稿させていただきたいと存じます。あくまでも音楽ということを中心点に置いて投稿いたすこととしますので、御容赦下さい。

 

今夜はトピずれをお許しいただき、簡単にナチズム、そしてホロコーストに関する議論のうち、いつつかの対立座標軸を整理して提示させていただくこととさせて下さい。あくまでも私が個人的に感じているところでは、以下の対立点が重要と思われます。(他にもあるでしょうが、私は以下の3点が重要だと思っています)

 

(1)ホロコーストは過去の他の歴史的虐殺行為と比較して特異なものか否か?

(2)ホロコースト(最終的解決-Endloesung)は、一環とした政策的プランのもとに行なわれたのか否か?

(3)ヒトラーは第3帝国における本当の意味での指導者だったのか、それともシステムの中では弱い独裁者でしかなかったのか?

 

まず(1)については、過去トルコがアルメニア人に対して行なった大量虐殺行為等と、ホロコーストとには違いがあるか否かなどという点になります。ホロコーストが特異的であるのは、近代国家システム、官僚システムによって行なわれたからホロコーストは他の歴史的大量虐殺とは異なると考えれば、ホロコーストは特異的であり、かつナチの罪は空前絶後と言えると思います。しかし、システムを用いた大量虐殺も、混乱の中での偶発的虐殺行為も、人間が大量に殺されるという点では結果的に同じであり、人殺しのやり方によって罪の軽重に違いを言うのは意味がない、などと考えればホロコーストは特異的とは言えないことになります。もし後者の立場を取れば、ホロコーストそのものもhistorizeされ得ることとなります。

 

(2)については、2つの説があります。ひとつは「意図派」(Intentionalists)と呼ばれている研究者の説であり、これはヒトラーが若い時からのユダヤ人観に基ずくユダヤ人絶滅計画を実現するための長期計画が存在し、政権を奪取するのも、第3帝国が侵略行為を行なうのも、すべてはEndloesungが目的である、という説です。それに対して、「機能派」(Functionalist)と呼ばれる研究者の説は、ヒトラーにユダヤ人絶滅計画を立てる能力などなく、ドイツ人の生存空間を確保するために侵略膨張行為を行なう過程で、もともと存在したanti-Semitismを背景に、ユダヤ人などが場当たり的政策遂行のターゲットとされた、という説です。実証的で有力な研究者の多数「機能派」に属するようです。「機能派」の説明ならば、ユダヤ人以外の民族、たとえばロマの大量虐殺の理由はすんなり説明できそうです。 しかし、大虐殺という結果の重大さが、依然として「意図派」の主張の根拠になりうるという面もあります。

 

(3) については、第3帝国内におけるヒトラーの役割での評価の問題です。もしヒトラーという存在が単なるお飾りにしかすぎず、権力構造としては官僚機構が幾重にも重ねられ、さらに国防軍、SS、ヒトラーの側近達、資本家、などが織りなす複数重構造が第3帝国の本当の姿だととらえれば、ヒトラー個人の力は実際は小さかったことになります。しかしあくまでもヒトラー個人が絶対的独裁者なのだと考えれば、第3帝国におけるヒトラーの存在意義と責任とは巨大なものだ、という認識となるでしょう。

 

上記(2)と(3)を深く調べていきますと、現在の世間一般のナチズム及びヒトラーに対する認識はあまりに幼稚とさえ思え、研究すればするほどこの問題は一筋縄ではいかないことがよく解ってきました。とりあえず今夜は、ナチ及びヒトラーに関する私なりの論点を併記するにとどめておきます。トピずれ、失礼いたしました。

これは bernardsstar さんの 606 に対する返信です

 

SPINATPOLKAさま

2002/ 8/14 4:18

メッセージ: 610 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

私の投稿をお読みいただきありがとうございます。申し訳ありません、今夜はちょっと疲れましたので、1,2日後にSPINATPOLKAさん御指摘の件についてレスをいたしたいと存じます。ただ、あのヒトラーとウィトゲンシュタインが写っている写真は、やはり合成写真だと思います。といいますのも、あの写真のアドルフ少年は、あれは確か10歳の時の写真の顔だと思います。

 

申し訳ありません。必ずレスいたしますので、今夜はこれまでとさせて下さい。

これは SPINATPOLKA2 さんの 607 に対する返信です

 

ホロコースト

2002/ 8/14 5:49

メッセージ: 612 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

la_vera_storiaさま

 

ナチスドイツの占領地区(オーストリア、ポーランド、ウクライナなど)において、ナチスドイツの兵隊も驚くような、住民による自主的なホロコーストがあったと報告されています。これによって、ヒトラーの罪が軽くなるわけではありませんが。

 

(昨晩の投稿で、お名前を記入することを失念し、失礼しました。)

これは la_vera_storia さんの 609 に対する返信です

 

 

SPINATPOLKA2さま

2002/ 8/14 5:53

メッセージ: 613 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

>昨年、日本からの年配のかたの訪問者が、サルツブルグ見学のついでに、そこからわずかの国境を超えた山頂にあるヒトラーの山荘を見学したいとおっしゃり、「悪魔」の山荘を訪れるにあたって非常な抵抗を覚えました

 

シュテファン・ツヴァイクのザルツブルクの山荘は国境をはさんで、この「悪魔の山荘」と向かい合っていたそうですね。

これは SPINATPOLKA2 さんの 607 に対する返信です

 

ヒトラーと絵画

2002/ 8/14 9:09

メッセージ: 614 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

僕の手元にある本で、昔父親が買ったと思われる、図書出版としての、朝日新聞社が出版した「朝日新聞日曜版 『世界名画の旅』4 ヨーロッパ中・南部編」(1989年7月20日第1刷刊行)に、ヒトラーと絵画に関する章が載っていました。

 

ここでは、シーレとの関連で述べられていますが、いくつか述べてみようと思います。ヴィーンの美術アカデミーの資料室には、シーレの成績表とヒトラーの入試結果があるようで、ヒトラーはシーレが合格した翌年とその次の年に受験しましたがいずれも不合格でした。

 

ヒトラーもシーレと同様、ヴィーンのリングの外の多くの失業者、浮浪者の姿を目にします。

 

シーレとヒトラーは、ヴィーンでそれぞれ6つの場所に移り住み、リングの外に始まり、リングの外で終わっています。転居の足取りは1度だけ交錯していて、1908年には、ヴィーン市北部の鉄道駅をはさみ、わずか300メートルの距離に住んでいたようです。

 

この本が出版された1989年当時、イギリス南部のフロムに住むパース卿という人がヒトラーの描いた絵60点の絵を所蔵しているということです。この本には、そのコレクションのうちの1つ、ヴィーンの美術学校に提出され却下された、リングの風景を描いた水彩が載っています。

以上が、その本から受けた興味深い部分です。その水彩をみると、歌劇場や多くの大型の建築物を構図に入れるあたりは、後年のヒトラーの理想ともいえる「千年王国宮殿」を想起させますし、直線の長い道路の続くあたりは、日本の番組でも何回となく流される、軍隊の行進を思わせます。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

追記

2002/ 8/14 9:32

メッセージ: 615 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

音楽面でいえば、ヴェーベルンの、1930年代からの、国粋主義的な発言も有名ですよね。ヴェーベルンはナチスに入党はしませんでしたが、息子はナチスの活動に加わったり、娘は突撃隊の軍人と結婚します。

 

親族の名称で言えば、ツェムリンスキーは父親の名前が「アドルフ」ということで、すごくつらい思いをしたでしょう。

 

そして、グルリットに関しては、19世紀末に、父親が絵のタイトルの名付け親となった、べックリーンの「死の島」がヒトラーの買うところとなり、マンフレートは「文化ボルシェヴィスト」として迫害される。念のために述べますが、マンフレートの父フリッツは19世紀末の死去、ベックリーンも20世紀がはじまって間もないころの死で、ナチスとの関連は全くありません。

 

小生はクラカテで「マンフレート・グルリットのトピ」、古典文学カテで、「中世から現代まで扱った」「ドイツ文学の広場」というのを開いています。是非ご投稿お待ちしております。「グルリット」のに関しましては、グルリットとは直接関連はないけれども、これまでの投稿の中で何か知っていること、思うところでであっても結構です。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

中欧の水害被災者の方に

2002/ 8/14 21:27

メッセージ: 616 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

心より、お見舞い申し上げます。

プラハの国民劇場もブルタヴァ川沿いなので冠水しているのでは?と、気がかりです。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

朝日新聞の夕刊に

2002/ 8/15 23:16

メッセージ: 617 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

エルベ川が氾濫して、冠水したドレスデンのシュターツオーパーと近くにある宮殿の写真が載っていました。朝刊の国際欄では、プラハの日本大使館も、プラハ近郊の山中に移動したということが書かれていましたね。寄付金とかはどうなているのでしょう。

これは bernardsstar さんの 616 に対する返信です

 

今日のお買い物

2002/ 8/15 23:32

メッセージ: 618 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

今日は、東京に行って、コッホ・シュヴァンリリースのシュレーカーのCDを買いました。指揮は、ザルツブルク音楽祭総裁のペーター・ルジツカ(シュレーカー協会のHPでは、シュレーカー協会の理事も勤めていることがわかりました。)です。

 

また、最近は、ユーゲントシュティールに関する本を2冊買いました。ひとつは、TASCHEN社出版の、オットー・ヴァーグナー、コロマン・モーザー、ヴァン・デ・ヴェルデらによる家具等の写真集、もうひとつは、音楽の友社刊の、J・シュテンツル編、平島正郎、他訳「世紀末から20世紀音楽へ アール・ヌーヴォーとユーゲント様式」という本です。この本には、おそらく日本語で購入しやすい本としては、唯一と思われる、シュレーカーに関する論考が所載されています。あと、いずれ共立出版から出版されている、「リルケとユーゲントシュティール」という本も読んでみようと思います。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

Obersalzberg bei Berchtesgaden, etc

2002/ 8/16 2:05

メッセージ: 619 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

SPINATPOLKAさま

 

まず、今回の大雨による貴地の水害に関して、心よりお見舞い申しあげます。TVなどではザルツブルク、プラハ、ドレスデンなどの惨状が放送され、彼の地を何度か訪れた者として、あの映像を見るのは実につらいことです。一刻も早く普段の日常生活を取り戻せますようお祈りいたしております。

 

さて、SPINATPOLKAさんからの鋭い御指摘、私もかなり参りました。まず最初に率直に申しあげておかなければならないのですが、他でもないこの私自身、Obersalzbergのヒトラーの山荘を訪れたことがあるからです。あの周辺は、いわゆる Berchtesgadenという「観光地」にもなっていますので、案外訪れられる方は多いのではないか、と思うのですが.....。(以下は Berchtesgadener LandのHPです。bernardsstarさん、以下のNostalgiefahrt、マーラーが乗っていてもおかしくないかもしれませんね!)

http://www.berchtesgadener-land.com/index.cfm?4C78C9DE03D244F99FCD23BF10F3E8AE

さて、私がObersalzbergここに行ったのはもう10年以上前ですが、やっぱり好奇心が理由の1つ、もう1つはある一冊の本の記述が非常に印象に残っていたからです。

 

ウィーンフィルの楽団長を務めたこともあるオットー・シュトラッサー(Otto Strasser)の書いた回想録に<Und dafuer wird man noch bezahlt>というのがありますが、その本の中で、1936-7年のザルツブルク音楽祭についての記載があります。反ファシズム、反ナチの姿勢でこの音楽祭に登場した巨匠トスカニーニがこの音楽祭に登場して「マイスタージンガ−」や「ファルスタッフ」を指揮したエピソードがかなり詳しく載っています。そういうAnschluss直前のザルツブルクの眼と鼻の先のObersalzbergに、ちょうどその時滞在していた人物の存在が、この音楽祭に影を落としていたことは当時は気がつかなかった、というシュトラッサー氏の記述が非常に印象的です。私は、果たして Obersalzbergから果たして祝祭劇場付近の光が見えるものなのかどうか、もし見えたとしたらヒトラーは果たして音楽祭の賑わいを見たかどうか、などなど変な想像力を頭に抱きつつObersalzbergに向かいました。ただ、途中で天候が急変して、山荘に着いた頃はどしゃぶりの雨となり、ザルツブルク方向を確認するどころではなくなってしまいましたが....。 (想像では、当時の光の量ではあの山荘からでは、賑わいを確認するなどは不可能に思いますが。)

>>In vita democrazia, ma in arte aristocrazia<<

というのがトスカニーニの口癖だったとシュトラッサー氏が書いていますが、1つの輝かしい時代の終わりの光を、ヒトラーが眺めていたかどうか、ちょっと気になります。現在では展示なども行なっているようですね。

http://www.obersalzberg.de/

以下、大戦末期にアメリカ軍があそこを占領した時の写真があります。

http://www.enteract.com/~rheller/ww2/berchesg.htm

 

それからSPINATPOLKAさんが、ひょっとしてまた不快な気分になられるかもしれませんが、私はヒトラーの生地のブラウナウ(Braunau am Inn)にも行って、実際に例の家を見てきました。まあ....なんというか...いわゆる好奇心というやつで、決して「聖地巡礼」などが目的ではありませんので、その辺を御理解いただきますよう...。これもWendeの前であり、まだネオナチ云々がそれほど報道される前のことですが、もし現在行かれるような方がいらっしゃったら、ちょっと気をつけたほうがいいかもしれませんね。まさか地元が観光名所にしようとしている、などということは決してないとは思いますが。

http://www.inidia.de/hitler_1889_geburtshaus.htm

 

それからアドルフ少年の学年、成績表、写真についてですが、現在何冊かの本にあたっているのですが、どの本も若干記載に差異があるようです。なんとか整理したいと思っています。(なにしろ留年した年数すら、若干の記載の違いがりますので)

何年目というのと、何学年というのを取り違えているのではないか、という本もあります。それから前にアップさせたアドルフ少年の成績表ですが、この最後の 1904-5がSteyrのRealschuleでの成績であるのは間違いないようです。そのSteyrでの美術教師は、かなりユニークな人だったようです。それから、少年アドルフも2枚の写真についても、本のよって若干記載が異なるようです。

これは SPINATPOLKA2 さんの 607 に対する返信です