「イェドヴァブネ事件」, Zyklon-B, etc

2002/ 8/16 4:38

メッセージ: 620 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

bernardsstarさま

 

住民によるユダヤ人虐殺で最近になって話題になったのが、ポーランドの「イェドヴァブネ事件」です。以前の投稿で紹介させていただいたことがありますが、再度御紹介させていただきます。

http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/jedwabne.htm

この事件に関しては、確かNHKがNHKスペシャルにて一度放送が予告されたはずですが、放送延期になったままのはずです。延期に特別の理由もないとは思いますが。

 

もともと住民にanti-Semitismの傾向の強い国、たとえばハンガリー、ルーマニア、ウクライナ、リトアニアなどではかなり住民によるユダヤ人の虐待行為が起こっていますね。特にルーマニアにおけるホロコーストに関しては、これはなかなか興味深いところですし(大変不謹慎な話ですが)、最近になってかなり詳しい本も出版されてきました。大変に奇妙なことに、隣のブルガリアというのは非常にanti-Semitismが弱いというのが興味あるところです。

 

そしてまた問題なのは、ドイツ軍の手先になったウクライナ兵、リトアニア兵の暴虐ぶりは、これは相当なもののようです。実は数年前のBBC放送で、こういうケースに深く切り込んだ番組が放送されていますが、日本でも放送されたのでしょうか?

 

ハンガリー、ルーマニア、ウクライナにおけるホロコースト、これについて投稿するとなると、私も決してネタがないわけではなく、パンドラの箱を開けたようなことになりかねませんので、なにかの機会に別の音楽の話題に引っ掛けて書いて見たい気がします。ただ一言だけ。ブカレスト(ブクレシュティ)でのホロコーストの残虐性は想像を絶するものがあります。

 

比較の例として適当かどうかわかりませんが、Zyklon-Bを用いた絶滅収容所での大量処刑も、殺される時の瞬間的苦痛感は相当なもののようで、ガス室内で上部の空間に逃げようと、他人を踏みつけて暴れるユダヤ人がほとんどで、そのために処刑終了後ガス室を開放すると、ユダヤ人の死体の頭が潰れているのが何体もあったようですね。いかにもの凄い苦痛であるか、その一例としては、親が自分の子供されはねのけて、そして我が子の頭さえ平気で踏みつけてまで、上部空間に逃げようとするほどの苦痛だそうです。親が我が子を抱きつつ死んでいく、などというような甘いものではないようです。

 

ところがですね、ブカレストでのホロコーストはそれ以上の苦痛なのですよ! ネット上では非常に問題あると思いますので、殺し方を紹介するのはやめます。これに関しては、真面目な本が2冊ほどありますが(日本語ではありません)さすがの私も具体的な書名を挙げるのはやめておきます。

 

ただしかし、私がユダヤ人だったら、「お前、アウシュヴィッツとブカレストとどちらで殺されたいか?」と聞かれれば、喜んでZyklon-Bのほうを選択しますね。それほどまでに言語を絶する殺害方法なのです!

 

どうもパンドラの箱が開きつつあるようです。 ですのでこれでやめておきます。(とても音楽カテの話題を大きく超えた話となってしまいました。)

これは bernardsstar さんの 612 に対する返信です

 

la_vera_storiaさま

2002/ 8/16 8:35

メッセージ: 621 / 1477

投稿者: SPINATPOLKA2 (女性/オーストリー)

 

お返事有り難うございます。

 

御面倒な質問をしてしまったようでごめんなさい。

あまりにもまちまちな資料、納得のゆかない写真などが気になってしまい……別にヒトラーの成績などが知りたい訳ではないのです。

公の目にとまるものに、何故確信の無い事柄を書く書物が多くあるのだろうという常日頃の疑問がまたここで頭をもたげたのです。

 

その後にbernardsstarさんの書かれた

>シュテファン・ツヴァイクのザルツブルクの山荘は国境をはさんで、この「悪魔の山荘」と向かい合っていたそうですね。

 

というのも、ああまたそのように誰かが書いたのだろうか、とつい思ってしまいました。

向かい合うも何も、かたや標高1800メートル以上にある山の上の山荘、四方の下界をはるか彼方迄見おろせるあの山荘と向かい合うものなんてあり得ない事、でもこの著書からは全く違った意味が出てしまうような気がします。

 

それにしてもあそこからの景色は素晴らしいものでした。私の訪れた時は天気もよく、世の中全てを見おろせるような気分、まさに世界の1番上に立ちたかった山荘の主を表しているように思えました。

ヒトラーうんぬんより、展望台としては素晴らしい場所ですね。ただSalzburgの賑わいの光りを確認するのは不可能だろうと私も思います。

 

興味ある方が興味あるところを訪れることに不快感など感じるわけはありません。どうかお気づかいなさいませんよう。

私の時は、足を運びたくもない人物の山荘へ1緒に車で行って欲しいと言われた為に戸惑ったのですが、実際には見晴し台という題目のほうが大きく、当時のヒトラーの栄光を見せるような場所ではなかったことが(少なくとも私にとっては)救いでしたし、この目で見て来たことは良かったと思っています。

 

しかしながら、今回の水害を近くで目の当たりにし、いかなる人間が栄光を築こうとも、自然の力には勝てないのだとつくづく感じさせられました。

これは la_vera_storia さんの 619 に対する返信です

 

昔日のブダペストとプラハ

2002/ 8/18 1:37

メッセージ: 622 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

「リンツから来た男」の続きを書こうと思って準備していたのですが、ちょっと休息させていただき、最近ふと思い出した記憶について書きます。

 

Wende 後は、プラハ、ブダペストをはじめとする「旧東欧諸国」を訪ねられる日本からの旅行者も増えました。特にこの2都を訪問される方の多くは、ウィーンにも立ち寄られるようですね。私が最初にウィーンに(両親に連れられて)行ったのは確か66年で、まだ子供だったのですが、その後75年からは欧州での遊学時代から就職以降、頻繁に行くようになりました。そういう70年代からWendeまでの時代のウィーンといえば、どこかに行き止まりの閉塞感があったような気がします。「行き止まり」というのは、西側の行き止まりであり、どうしてもその向こう側には鉄のカーテンの存在を感じた、ということかもしれません。

 

現在も勿論ですが当時も、ウィーンのスタンドでは東欧(当時は社会主義)諸国の新聞が売られており、私は買わないまでも、そういう新聞の第1面を繁々と眺めていたものでした。大部分は共産党などの機関紙的機能を持った新聞でしたので、チャウシェスクやホーネッカーの写真とかが載っていましたが、今言うのもなんですが、そういう新聞は非常に「神秘的」に見えたものです。彼方の世界の動向を知る唯一の手段のように思えたからです(言葉もわからないくせに)。

 

当時も(今も)、私は好奇心に溢れていましたので、75年の早春に早速ウィーンからブダペストに行くことにしました。ウィーンでヴィザ取得後のある日、ブダペスト行きの列車に乗りました。前日に雪がかなり降ったせいか国境近くになると、あたりの一面の銀世界。「ああ、本当にこの先には何があるのだろう?」と思ったものでした。しかし、そこに不気味な監視塔があるのを見て、身が引き締まったものです。 そうやって到着したブダペストといえば、おもちゃみたいに貧弱な自動車が走っており、融けた雪が泥となって、道は惨憺たる状態であり、建物は確かに立派ではあるが薄汚い汚れが目立っていました。人々の表情も冴えない....。

 

とはいうものの、しばらく歩いていくと、さすがにオーストリア=ハンガリー帝国時代の雰囲気をどこかに感じさせるたたずまいが否応なく感じられてきました。それは別にオペラハウスとか、ドナウと国会議事堂の風景とか、バシリカのあるあたりの中心部の世紀末建築の建物とか、そういうものよりも、街でなにげなく入ったカフェでより多く感じましたね。全体に非常に薄暗く、内装も実にくたびれていましたが、時間がゆったりと流れる空間であったところが、かつての「良き時代」を彷彿とさせるものがありました。 国立歌劇場や、リスト音楽院の大ホールなどでのコンサートでの聴衆の雰囲気も、なにげないところに、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の影響の雰囲気を感じないといったら嘘になるでしょう。

 

夜遅くホテルに入って、部屋のラジオをオンにすると、ウィーンからの放送が聴こえてきました。あの独特の柔らかいドイツ語でした。それを聞いた途端、「ああ、このブダペストとウィーンは近いんだなあ!」と実感した次第。 鉄のカーテンを超えたこのブダペストと、向こう側にあるはずのウィーンとの、距離の収縮を一気に感じてしまった瞬間でした。

 

しかしWende後の東欧は非常に変ってしまいました。勿論、人々は自由と豊かさを手に入れ、街もきれいになり、自動車の排気ガスの悪臭も無くなりました。しかし、異邦人の私個人の旅行者としての勝手な気持ちを率直に言わせていただければ、「最近の東欧は本当につまらなくなった!」の一言です。鉄のカーテンで仕切られていようが、深いところで感じたオーストリアとの文化的つながり、そういうものを政治的緊張の裏側に感じることのできた時代に東欧に行った者の立場からすれば、そうしてもそう言いたい気がします。

 

たとえばプラハにおけるカフカの存在。現在のプラハではカフカを大々的に売りに出していますね。記念館だか絵葉書だか知りませんが...。かつてはそうではなかったですね。しかしカフカを読んだ旅行者にとっては、あのかつてのプラハの街角の「カフカ的空間」はしかりと感じたものでした。ドイツ語で書いたカフカを今ごろ観光資源に売り出すとは、これ如何?

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

昔日のブダペストとプラハ(終)

2002/ 8/18 6:02

メッセージ: 623 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

現在のプラハといえば、bernardsstarさんも御自身の訪問についてお書きになっていたように、どうしても文化その他の商業化の荒波が急に押し寄せてきたという危機的側面は感じますね。(bernardsstarさんの御意見に、この点まったく賛成です。)そしてやっぱり、悪い意味での Tourism繁栄の弊害というかなんというか....。

 

現在あの有名なカレル橋の両側に、絵を売る人々が現れたり、物売りがいたりなどしていますね。ところが、あの社会主義時代のカレル橋といったら、それこそスッキリ、スカッとしていて対岸まで一直線の爽やかというか、両側に障害物などなく通行人も少なくて爽快な感じでした。まああの当時のチェコ(スロヴァキア)の全体主義には、そこに秘密警察の大きな役割もあり、チェコ人にとっては最悪の時代ですが、異邦人旅行者にとっては、当時のプラハは大変に魅力的でしたね。ただし、あのヴァ−ツラフ広場の端で69年に、あのJan Palach

http://archiv.radio.cz/palach99/eng/palach.html

が焼身自殺した場所の周りには、それとなくあたりに私服の警察がたむろしていましたね。その場所には萎れた花が少しだけそなえられていただけでしたが。当時のあそこは本当に不気味だったというかスリルがあったというか...。現在あの場所に行くよりも、より一層当時のほうが事件の悲劇性が感じられました。

http://archiv.radio.cz/palach99/eng/aktual1.html

日本人の旅行者などほとんど見かけなかったのも70年代のプラハでした。

 

ブダペストも、その後に何度も訪ねることとなり、弾痕の残る56年ハンガリー動乱の「激戦地」なども探訪したのですが、しかし不思議に89年の民主化後はそういう意欲が薄れてしまいました。住んでいる人には悪いのですが、しかしブダペストもプラハも(そしてベルリンも)、現在はスリルを感じる場所ではなく、ひったくりとかスキンへッズとの遭遇がスリルになってしまった!

 

そういう場所からウィーンに戻ってくればあの70年代半ば頃からして、日本人は多かったですね。以下に別トピに書いた当時のウィーン国立歌劇場のことをアップしておきます。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=MU&action=m&board=1834581&tid=9a5a4ada4ja5aa a5za5ibanija1a2bfm5a4ejibcbdja1aa&sid=1834581&mid=1672

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=MU&action=m&board=1834581&tid=9a5a4ada4ja5aa a5za5ibanija1a2bfm5a4ejibcbdja1aa&sid=1834581&mid=1673

 

あの時代の東欧がなつかしいといったら怒られますが、しかし私の本心では「政治的緊張の裏側にこそ、それに対抗しようとする文化・芸術の眼に見えない真の力を感じる」といったところです。(チャウシェスク時代のルーマニア、3回ほど訪問しましたが、チェウシェスクの独裁体制があれほどひどかったとは、行った当時はわかりませんでした。ブカレストはブダペストやプラハのように魅力ある街ではありませんでしたが)

 

自分の足で歩いてこそのプラハ、ブダペストであり、そうしてこそハプスブルク帝国との関連の歴史を考える糸口を掴めますね。 そういう場所に団体ツアーで行く人がいるとは!  昔も今も Tourismというのは何と埃っぽいものなのかというのが率直のところです。あの2都には一番似合わない旅行のやり方でしょう。

 

さて、では時代を世紀の転換期のウィーンに戻り、ウィーン世紀末文化とMan of the 20th Centuryとの関わりについて、次投稿にて(数日後)再開させていただくこととします.....。

これは la_vera_storia さんの 622 に対する返信です

 

団体旅行でした

2002/ 8/18 9:45

メッセージ: 624 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

すみません.私達夫婦が新婚旅行で東欧にいったのは、大手旅行会社主催の団体旅行でした.そちらが最も忌むべき人々の一部だったわけですね.

いったのは自由化になった次の年で,まだ今日聞こえてくるほどのスキンヘッズの台頭,急激な資本主義化のゆがみは見えてこず,人々は素直に自由になった事を満喫していました.そして西側からの旅行者(主にフランス人とアメリカ人)をもてなそうと彼らなりに一生懸命でした.

旅行のコンダクターも、パンフに無いところでも、自分のの裁量で全体主義の傷跡やユダヤ人の痕跡などに連れていってくれ,系統立てた(当時の情報量としては)説明をしてくれました.

結局その場所で何を思い,考えるかはその人次第でしょう.

私は50年の共産主義のあとの急速な資本家の中で、試行錯誤する現在の東欧の文化人にこそシンパシーを感じます.

これは la_vera_storia さんの 623 に対する返信です

 

プラハ

2002/ 8/19 1:01

メッセージ: 625 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

僕以外の、ここのトピの常連さん、トピ主様は、みなプラハに行っていらっしゃるのですね。いずれ行ってみたいのですが、今は海外旅行に行けそうにありません。プラハについての本は、最近岩波新書からでましたね。

http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30906662

今のところは、上記の本や、その他の本の中で想像上で旅行しようと思います。

プラハではありませんが、我が家にある、社会主義体制下の国の状況を紹介した書物

には、1974年に、最近引退したクルト・ザンデルリンクを筆頭に、様々なドイツ主にベルリンの芸術家・団体が来日して日本において行われた、昔父が行ったと思われる「ベルリン音楽祭」の分厚い公式ガイドブックがあります。しかし、このころ、日本と東ドイツは国交樹立し、そのため巻頭に東ドイツの駐日大使、文化関係の長みたいな人の言葉が乗っていることもあり、読んでみると当然のことながら東ドイツを肯定的に記述することが目立ち、客観性に欠けるように思われます。

これは nx_74205defiant さんの 624 に対する返信です

 

ペーター・ルジツカのシュレーカー

2002/ 8/19 1:13

メッセージ: 626 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

先日買ったCDを早速聞いてみました。聞いてみるとルジツカ氏は、指揮者としては、音楽をグイグイ進めるというよりは、音を細かくすみずみまで表すというタイプです。というわけで、シュレーカー独特の、装飾的なオーケストレーション、響きを堪能するには、このCDはもってこいだと思います。

曲は、歌劇「イレローネ」への1,2,3幕への前奏曲、ある大オペラのための前奏曲、ソプラノと大管弦楽のための2つの歌、大管弦楽のための4つの小品です。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

プラハ、(旧)東ドイツ

2002/ 8/19 5:48

メッセージ: 627 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

田中充子著で、プラハのアール・ヌーボー建築の写真集も出ていますね。

 

旧・東ドイツは僕もまだ行ったことがありません。冷戦の頃は暗い印象をもっていましたが、ベルリン、ワイマール、ドレスデン・・・と魅力的な街は数多いというのが今の印象です。それにしても、この間のドレスデン水没は残念。

これは gur1zem2korn3 さんの 625 に対する返信です

 

ホロコースト

2002/ 8/19 21:11

メッセージ: 628 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

ポーランド、ウクライナなどには、昔からポグロムがあったことも指摘されるべきことでしょうね。

 

ナチスドイツの「ホロコースト」に限って言えば、

アウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」ができるまでは、ポーランドでは主としてトラックの排気ガスによって殺害していたそうです。

 

最近、色々なヒトラー本を読んでいるのですが、彼に対する評価は「狂人」であり、また、「競争相手の弱みにつけこんで出しぬくことに関しては天才」というのが、最終見解といったところでしょうか?

 

ハンガリー、ルーマニア、ウクライナ、リトアニアの20世紀前半の歴史とからめて、音楽家の動向を調査・研究するのは非常に興味深いテーマですね!

これは la_vera_storia さんの 620 に対する返信です

 

プラハへの夜行列車

2002/ 8/20 1:41

メッセージ: 629 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

社会主義時代の東欧への個人旅行は、なかなかスリルがありました。旅人の側に、それなりの知識が必要だったということも言えるかもしれません。 以下、そのほんの一例です。チェコ(スロヴァキア)全体主義全盛時代の話です....。

 

あれは確か79年か80年頃のことですが、例によって私はヤナーチェクのオペラ見物を目的として何度目かのプラハ訪問のために、当時の西ドイツのニュルンベルクから夜行列車に乗ってプラハに向かいました。毎度のことながら、コンパートメント一室(6人用)を一人で占領して、ゆったりとしていました。ところが、国境近くのなんとかという駅から、金髪の絶世の美女が乗車し、私の乗っている車両の通路を行ったり来たりしていましたが、いきなり私のいたコンパートメントのドアをあけ、「ここに御一緒してもいいですか?」と私に聞いてきました。私は彼女があまりにも美しかったために、「どうぞ、どうぞ」と招き入れました。 その時、私の頭には「なぜ他に空いているコンパートメントがあるのに、わざわざここに来るのか?」という疑念を感じなかったわけではありませんでしたが。 でもその女性は、「人がいるほうが安全だ。」などと言い訳しましたので私も「なるほど」と思ったわけです。

 

彼女とは確か、なんだかんだで一時間近く話しをしました。なんでも、彼女は母親がプラハにいるので会いに行くとのこと。私も、プラハでは何度も行ったことがあり、今回もヤナーチェクの新演出を見るために行くのだ、というような話をした記憶があります。さて、深夜0時を過ぎた頃、国境では例によってパスポートとヴィザのチェックがありました。そのチェックも無事終わり、係官が姿を消して少々した頃、彼女は怪訝そうな顔をして、「おかしいですね...。両替をしてくれる人が来ないですね...。 困った。」とつぶやきました。 当時の東欧社会主義国へ西側から列車で入る場合には、当局によって一定金額の強制両替が課されていましたから、その係官が来ないというのは、もうけものなのです。 

 

民主化後に初めて東欧に行かれた方にはこの事情の説明が必要になりますが、当時の社会主義東欧の通貨と、西側通貨(Hard Currency)とは、通貨の実際の価値を無視した形での公式の換算レートが決まっていたのです。たとえば、西ドイツマルク1DMに対しては、東ドイツマルク(Ost Mark)で1マルクとか。そして、東側通貨を西側から持ち込むとが、西側に持ち出すというのは法律で禁止されていました。 しかし、西側の大都市の両替所では、公然と東側通貨の両替をやっていたわけです。そういう場所では、公式レートの5分の一とか十分の一程度で、安く東側通貨が買えたわけです。 私も、そうして安く買った東側通貨を違法に東側に持ち込んで、楽譜や本などを買っったり、豪勢な食事などもしていたのです。ドイツ人なども、西ベルリンの両替所でOst Markを買い込み、東ベルリンに入るというのは、かなり頻繁に行なっていたようです。

 

さて....夜行列車のコンパートメントで美女と同室し、プラハに向かっていた私のポケットにも、ミュンヘンで安く買ったチェコの通貨が入っており、この夜もとうとうチェコスロヴァキアへの「通貨違法持込」に成功したのでした。 美女はやがて話にも疲れたのか、片側の座席に横になって寝てしまいました。 私は彼女の寝顔にうっとりしつつも、やがてウトウトとして眠りについたのでした。

 

さて私と金髪美女を乗せた列車は、そうして漆黒の闇の中、ボヘミアの草原をスロースピードでプラハに向かったのですが....

 

(to be continued)

これは nx_74205defiant さんの 624 に対する返信です

 

プラハへの夜行列車 (終)

2002/ 8/20 3:27

メッセージ: 630 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

(前投稿よりの続き)

さて、とうとう列車は早朝まだ薄暗いプラハに到着しました。私と例の美女は互いに「良い御旅行を!」と言葉を交わし、駅のホームで別れました。私は少し名残り惜しい気がしましたが、早朝のプラハのヒンヤリとした空気を吸うと、もう彼女のことは忘れてしまいました。長いホームを歩き、駅の建物の構内に向かいました。「さて、腹が減った、どうしようか?」などと立ち止まって考えているうちに、ふと構内の片隅に目をやると、コンパートメントで一緒だった美女の姿がありました。母親との感激の再会、などというシーンではなく、非常に地味な服装(当時のプラハでは皆そうでしたが)の男女とヒソヒソ話をしている様子。 そのうちの一人が、チラリと瞬間的に私のほうに視線を向けたような気がしました。 私は、ちょっとだけ変な予感がしました....。

 

とにかく腹が減っているので、朝食を食うべく駅の構内から外に出ました。通りを渡ったところにホテルがあるのに気がつき、「あのホテルだったら、この時間でも朝食にありつけるかな」と思い、ゆっくりと通りを渡る私。  ホテルに入ろうとすると、視野の片隅に先程駅であの美女とヒソヒソ話をしていた女性の姿。 また何か、わけのわからない不安感がよぎりました。 ホテルのフロントで聞いてみると、まだカフェテリアは開いていない、とのこと。しょうがありませんのでホテルを出ましたが、あの地味な服装の女性はホテル入り口から少し離れた場所で、まるで私を待ってでもいるかのように立っていました。 ますます私の中に増す不安....。

 

とにかく空腹でしたので、ヴァ−ツラフ広場の通りに出て、例のJan Palachの焼身自殺した場所のあたりを一瞥したあと、広場のゆるやかな傾斜を旧市街方向に歩きはじめました。「そのうちどこかに、立ち食いの店でもあるだろうから、そこで朝食としようか」、との気持ちでブラブラと歩きましたが、私のスピードに合わせるが如く、例の地味服の女性は、あきらかに私をマークしている様子。さすがの私も、これは公安警察に尾行されいる可能性が高いと理解しました。

 

「困った....。 腹も減るし、とにかくなんとかせねば。」と思ったところに、労働者のおっさんたちが何人か、ソーセージにしゃぶりついている立ち食いの店を発見。 「よし、ここで腹こしらえをしよう!」と思い立ち、店に入りカウンターのおばさんに注文しようとし、ポケットに手を入れて、あのミュンヘンで入手した闇金を出そうとした瞬間、私の頭にあることが閃きました。「ここで金を出すのは変ではないか? 駅での両替はやっていないので、そもそも建前上はチェコの通貨など所持していないことになっているはずだ。ここで金を出せば、すなわち通貨の違法持込を証明するようなものだ。」 私はあわてて向きを変えて店を出ようとすると、例の地味服の女性の他にもう一人の男が一緒に、通りから私の行動を注視してる姿があった!  私は緊張したまま、旧市街広場近くまで早足で歩き、ちょうどオープンしたばかりの両替所でパスポートを出して、DMをいくらか両替しました。気がついてみると、あの男女の姿は消えていた...。

 

私が想像するに、あの夜行列車の同じコンパートメントに乗り込んできた美女は、チェコ警察の手先でしょう。夜行列車の乗客の一人(私)をターゲットにして、コンパートメントで話を聞いて、おそらく私がチェコ通貨を所持しているらしいことを感知した...。 係官には最初から、列車内強制両替には来ないようにしておいた...。 プラハの駅で治安警察に私の様子を話し、私がプラハ駅で両替をしなかったのを見計らって、私服警察は私の尾行を始めた...。 列車でも両替していない、プラハ駅でも両替していない私が、どこかの店で金を払う瞬間をとらえて、即刻尋問、逮捕するつもりだった...。「お前、その金はどこで両替したのか! 両替証明書を出してみろ!」...ということになるのでしょう。 罪状は、チェコ通貨の国外からの違法持込(外国為替管理法違反?)。あれはいわゆる、おとり捜査の一種だと思いますが....。

 

私の勘ぐりすぎ....?  そうではないと思いますが....。 社会主義時代の東欧個人旅行は、絶えずこういうこととの背中あわせだったのです...。「お前、それでも昔の東欧を旅行するほうがいいのか?」との問いには、「やっぱり昔の旅行のほうがよかった。」という本音は変りませんが....。

 

* nx_defiantさん、ごめんなさい! 団体旅行を貶めるためだけにああ書いたのではありません。個人旅行であれ、団体旅行であれ、要は行く人の積極的、能動的な姿勢が一番大事なのだと思います。一人旅している人だって、本当にどうしようもない人がいますね。私は何度も遭遇しています。

これは la_vera_storia さんの 629 に対する返信です

 

迫力ある・・・

2002/ 8/20 20:25

メッセージ: 631 / 1477

投稿者: lv_vl2002

 

はじめまして、東欧が気になる今日この頃です。旅行やスポーツの掲示板をみていましたがここも内容が濃いですね。

la_vera_storiaさん、すごい体験談です。映画やプラハの春に出てきそうな。。。スリルありますね。チェコの人達はだからヒソヒソ話すんですよね。

これは la_vera_storia さんの 630 に対する返信です

 

渡米後のマーラー指揮の「トリスタン」

2002/ 8/23 19:06

メッセージ: 632 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

私が「リンツから来た男(3)」(message601)にて書きました、マーラーがウィーンを去って渡米した件について、渡米後のマーラーの指揮活動、特に「トリスタンとイゾルデ」のマーラー指揮のMET公演の様子が、「ワーグナーのオペラに詳しい人」というトピ(message907,908)で紹介されています。

 

投稿者の方(harimaoさん)が非常に丹念にに当時のNYでの批評をフォローしていらっしゃいますので、是非御参照下さい。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=MU&action=m&board=1834581&tid=a5oa1bca50a5ja 1bca4na5aaa5za5ia4kbedca47a4a4jfd&sid=1834581&mid=907

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=MU&action=m&board=1834581&tid=a5oa1bca50a5ja 1bca4na5aaa5za5ia4kbedca47a4a4jfd&sid=1834581&mid=908

渡米後のマーラーに何が起こったのか、などなどについて興味は尽きないところですね。世紀の転換期にウィーンで活躍した作曲家、指揮者がアメリカに渡ったあと、自己の芸風に変化を生じたのか? 生じたとすれば、それはどのようなものなのか? そういう問題意識を持つのもおもしろいと思います。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

レニ・リーフェンシュタール

2002/ 8/23 22:28

メッセージ: 633 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

今日朝日新聞の夕刊に、映画監督のレニ・リーフェンシュタール女史に対してフランクフルトの検察庁から、民族扇動と、死者に対する名誉毀損で捜査を開始したという記事が載っていましたね。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

リンツから来た男 (補稿)

2002/ 8/24 1:55

メッセージ: 634 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

さて、私は「リンツから来た男」(2)の投稿の中で、ウィーン帝室歌劇場の戦前の上演記録はネット上にはない、などと書いてしまいましたが、とんでもない間違いでした。以下に、1897年から1907年までの(要するに、マーラーの総監督時代)ウィーン帝室歌劇場のスケジュールがあります。

http://www.gustav-mahler.org/english/mahler/calendar-f.htm

このサイトを開けていただき、左側の1905-1906のシーズンのところを指定していただいたあと、Go をクリックするとスケジュールがあらわれます。確かに1906年5月8日(May 8 1906)の公演は「トリスタン」であり、指揮者がマーラーであることがわかりますね!

 

アドルフ青年の最初のウィーン滞在は、2,3 週間だったようですから、上のスケジュール表でそのあたりの他のヴァーグナーの公演を抜き出していけば、すでに紹介させていただいた5月9日(May 9 1906)の「オランダ人」(シャルク指揮)のほかは、5月20日(May 20 1906)の「ローエングリン」(やはりシャルク指揮)があります。この「ローエングリン」も観た可能性が強いと思われますね。しかし、5月27日 (May 27 1906)の「リエンツィ」(シャルク指揮)となると、これは日程から言って観たかどうかは微妙ですね。

 

アドルフ青年の友人のアウグスト・クビツェク(August Kubizek)が後年語ったところによれば、彼がウィーンに出てきてアドルフ青年の下宿に滞在するようになった以降(1908年の秋頃らしい)は、この2人はヴァーグナーの作品が上演される時は、必ず観にいったそうです。(多分、立ち見席でしょう。) そういうことから考えて、そしてさらにすでにリンツにて「リエンツィ」を体験しているという事実から言って、アドルフ青年の1906年の最初のウィーン滞在中に、5月27日(May 27 1906)の「リエンツィ」を観た可能性がないとは言えないでしょうね。むしろ、これを観た翌日にリンツに帰ったのではないか、という想像を抱きたくなります。(それにしても、5月8日の公演は「カルメン」であり、指揮者はワルターというのにはびっくりしました。)

 

さて、次投稿では「リンツから来た男」(4)として、ヒトラーとマーラーとの関係について書くことにいたします。そして、いかにヒトラーが、マーラーという名前を脳裏に刻みこんでいたかについて、書くことにいたします。このあたりの話は、ヒトラー伝記作者、ヒトラー研究家の「死角」となっている点のように思われますので...。世紀末ウィーンの音楽文化の絶頂期にウィーンを訪れ、その空気を十分に吸ったアドルフ青年。 歴史は残酷なものです....。

これは la_vera_storia さんの 598 に対する返信です

 

Re:レニ・リーフェンシュタール

2002/ 8/24 7:48

メッセージ: 635 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

http://www.asahi.com/international/update/0823/006.html

 

情報ありがとうございます。上記のように、朝日WEBにも記事がありました。

 

100歳を迎えたこと自体は祝うべきことなのでしょうが、「悪」の根は絶っておかないと、将来のドイツに禍根を残すということなのでしょうね。

これは gur1zem2korn3 さんの 633 に対する返信です

 

Re:ウィーン帝室歌劇場の上演記録

2002/ 8/24 7:56

メッセージ: 636 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

貴重な情報ありがとうございます。ウィーン帝室(宮廷)歌劇場の当時の公演の実態にはとても興味をもっていたので、興味が尽きないといったところです。

 

マーラーは「メトロポリタンオペラ」では「トリスタン」をカットして上演したとのことですが、ウィーン帝室歌劇場で彼が初めて指揮したときは、ノーカットのうえ、スタートが遅かったので、終了したのは未明になり、そのことに対して不満を漏らした聴衆もいたそうですね。

これは la_vera_storia さんの 634 に対する返信です

 

Re : Leni Riefenstahl の「美学」

2002/ 8/24 14:43

メッセージ: 637 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

Leni Riefenstahlという人は、やはり「美の追求者」であることにはさほどの異議なないかもしれません。ロマンチストの側面も否定できないかもしれません。

http://www.zeit.de/2002/35/Leben/200235_traum_riefenstha.html

ハリウッド関係者を中心に、アメリカでは評価も高いようですね。以下経歴。

http://www.german-way.com/cinema/rief.html

公式HPすらありますね。

http://www.leni-riefenstahl.de/deu/indexd.html

 

彼女の代表作と言われる、あのナチス党大会を描いた「意志の勝利」(Triumph des Willens)を、私も観たことがありますが、題材がヒトラーとナチでなければ、あれは実にたいした映画だと思いますね。音楽で言えば、「新即物主義」の傑作というところでしょう。別の面から言うと、あれはワイマール文化の行き着いた先というかなんというか。この映画は、現在のドイツでは一般での上映はできないはずだったと記憶していますが。

 

彼女はドイツのポーランド侵攻(1939)にあたって、ドキュメンタリー制作のためにポーランドに行ったそうですが、彼の地のあまりに悲惨な状態を見て、5日間で「職場放棄」したとのこと。戦場そのものを撮るのは、彼女の美学とは違うのでしょう。ナチ時代を美化した戦後の発言に関しても、「私も被害者だった」などというような偽善者ぶった発言よりは、まだ理解できるような気がしないでもない。彼女の(映像)美学、生き方、いずれにしても、あれはドイツ人であって、決してオーストリア人の美学ではないように思います。

 

どうでしょう、ドイツでも一般上映を解禁してみては? 「過去への清算」というのなら、一度解禁して正面でそれらとを向き合ってみるのは意味ないことではないと思いますが。 「我が闘争」も出版させてみたらどうでしょう? まあ、ドイツではそういうものを直視、克服するというやり方で「過去への清算」を行なったということなのでしょうが...。

これは bernardsstar さんの 635 に対する返信です

 

洪水の被災者への救援等

2002/ 8/26 17:05

メッセージ: 638 / 1477

投稿者: Beck_Messer (45歳/男性/de)

 

何人かの方とは「お久しぶり」、そのほかの方とは「はじめまして」になります。以前この掲示板に出入りしておりました。

 

このトピックは、中部ヨーロッパの話題が多く、また今回の洪水にも言及され、心配されている方もいらっしゃいますので、関連することを書きこませてください。

 

音楽関係で被害の大きいのは、プラハの国民劇場と、ドレスデンのゼンパーオーパーで、ともに地下が冠水し、舞台機構がかなりやられたもようです。それぞれ寄付を募っています。ここで直接口座番号を書くのは控えますが、プラハは下記の劇場のHP、ドレスデンは財団のHPに寄付の送付先が書かれています。

 

プラハ国民劇場

http://www.narodni-divadlo.cz/

ドレスデン・ゼンパーオーパー

http://www.semperoper.de

同財団

http://www.semperoper.de

 

なお、私のドイツの口座と日本の知人の口座を使って、日本からの寄付を簡単にかつ手数料なしでドレスデンに送金する方法があります。また、プラハに関しては、この9月に現地へ行く人がいますので、この人に託すことができます。もし、これらの劇場を助けたいという方がいらっしゃれば、どうぞプロファイルにあるメールアドレスまでご連絡下さい。

 

このトピックにはいろいろと興味深いお話が並んでいて、ちょっとくちばしを突っ込んでみたいという誘惑にもかられるのですが、本日はこれで失礼させていただきます。

これは gur1zem2korn3 さんの 617 に対する返信です

 

Re:洪水の被災者への救援等

2002/ 8/26 21:47

メッセージ: 639 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

小生、昨日、オタカル・オストゥルチル率いるプラハ国民劇場が1933年にウィーンで録音した「売られた花嫁」の復刻版CDを聴いたところ。ぜひとも立ち直ってほしいです(ドレスデン・ゼンパーオーパーも)。寄附、検討させてください。

 

http://www.narodni-divadlo.cz/

には、被害は機械装置だけで5000万コルナを超えると書かれてありました。

これは Beck_Messer さんの 638 に対する返信です

 

ありがとうございます

2002/ 8/27 20:49

メッセージ: 640 / 1477

投稿者: Beck_Messer (45歳/男性/de)

 

bernardsstarさま

 

御関心をお寄せ下さり、ありがとうございます。国民劇場のHPは、英語とドイツ語の更新がされておらず、洪水の件ではチェコ語でしか情報がありません。私はチェコ語がだめなので、そんなに大きな被害が出ているとは知りませんでした。ちなみに、ゼンパーオーパーのHPも、英語の方は翻訳ソフトで作ったような文で、ちょっと理解しにくいものです。やはり担当者が夏休みなのか、緊急事態で間に合わせに訳したのでしょう。

 

国民劇場は、予定通りに9月はじめから上演が行われるのでしょうか。ドレスデンは当分上演中止で、オーケストラコンサートを別の場所で開いたりするもようです。なお、昨日からHPに洪水後の写真が掲載されています。

これは bernardsstar さんの 639 に対する返信です

 

Re:洪水被災者への救援

2002/ 8/28 22:48

メッセージ: 641 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

Beck_Messer さま

 

お久し振りです! 以前、ヤルゼルスキの件で、いろいろと意見交換させていただいた者です。

 

さて、今回の貴地の水害、音楽ファンにはとりわけショッキングなTV映像が放送されており(ゼンパーオーパー周囲、プラハ国民劇場周辺etc)、あの地に行った経験のある者からしてみれば、今回の災害の規模の大きさを認識するに十分なほどの映像でした。劇場その他の施設、早い完全復興を切に願っています。

 

私は来月中旬より仕事と休暇の関係で、3週間ほど渡欧する予定になっており、貴地にも行く予定が入っています。寄付につきましては、現地にて行なうことを考えており、再びいくらかでも正常化されたドレスデンやプラハの街に再会いたしたいものだと願っています。

 

Beck_Messerさま、それにしても数ヶ月前の貴地(ひょっとして貴都市?)でのショッキングな事件といい、今回の水害といい、2002年は厄災の年となってしまいましたね....。

 

機会がありましたら、また是非いろいろと御教示下さい。

 

敬具

これは Beck_Messer さんの 638 に対する返信です

 

リンツから来た男 (4)

2002/ 8/29 0:57

メッセージ: 642 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

なぜこのトピでアドルフ・ヒトラーという人物を話題に出したかということですが、それは彼の「ウィーン時代」と呼ばれる時代こそ、世紀末・20世紀初頭におけるウィーンの音楽文化の黄金時代と重なるということと当時に、アドルフ・ヒトラー自身がそういうウィーンにどっぷりと浸っていた、ということを再確認したいからです。

 

「アドルフ・ヒトラーのanti-Semitismは彼のウィーン時代に育まれた」というのが一般的認識のようです。それはあの「我が闘争」第1巻第2章の中の有名な以下の部分の描写があまりに印象的だからだ、といったら過言でしょうか? 以前紹介させて頂いたサイトより、関連部分を抜き出します。

(原文)

Als ich einmal so durch die innere Stadt strich, stie? ich plo"tzlich auf eine Erscheinung in langem Kaftan mit schwarzen Locken.

 

Ist dies auch ein Jude? war mein erster Gedanke.

 

So sahen sie freilich in Linz nicht aus. Ich beobachtete den Mann verstohlen und vorsichtig, allein je la"nger ich in dieses fremde Gesicht starrte und forschend Zug um Zug pru"fte, um so mehr wandelte sich in meinem Gehirn die erste Frage zu einer anderen Frage:Ist dies auch ein Deutscher?

(英語訳)

Once, as I was strolling through the Inner City, I suddenly encountered an apparition in a black caftan and black hair locks. Is this a Jew? was my first thought.

For, to be sure, they had not looked like that in Linz. I observed the man furtively and cautiously, but the longer I stared at this foreign face, scrutinizing feature for feature, the more my first question assumed a new form:

Is this a German?

 

ウィーン時代のヒトラーがどのような生活を送り、どのように考えていたかについては、資料として重要なものは2つ。ひとつは勿論、彼自身の「我が闘争」(Mein Kampf)であり、もう1つは彼のリンツ時代からの友人であり、ウィーン時代にも下宿を同じくしていたアウグスト・クビツェク(August Kubizek)の回想本(Adolf Hitler, Mein Jugendfreund)です。残念ながら私はこの後者の本は読んでおりませんので、以降の投稿では関連著作での引用部分から内容をお伝えすることとします。

 

さて、比較的最近まで研究者はヒトラーのウィーン時代というものに特別の関心を抱いていなかったようです。ですので、ヒトラーが滞在していたウィーン時代にはどのような作曲家が何を作曲しており、歌劇場では誰が指揮しており.....などということにはまるで関心を抱いていないようです。画家を目指していたアドルフ青年がいた同じウィーンで、あの青年画家リヒャルト・ゲルステルがシェーンベルク夫人のマティルデと不倫関係に落ち、それが原因で自殺したのが1908年の秋というのも興味深い話です。「ドイツ語圏における最初のフォーヴィスト」などとも称されるゲルステルの絵画については、アドルフ青年が知っていた可能性は非常に低いとは思いますが....。 私が邪推するに、ヒトラー(及びナチズム)の研究者は、「ヒトラーのanti -Semitismはウィーンで育まれたということにしておこう」、という暗黙の了解があったのではないか、などとも思ってしまうのです。「我が闘争」でヒトラー自身が語っているのだから、それはそのまま信じておくことにしようという態度があったのではないか? しかし本当に「我が闘争」の内容を信じてよいのか? それが事実なのか? どうもそうではないようです。

 

しかしその前に、ウィーンに戻ってきた母親を亡くしたアドルフ青年がその後どうなったかが問題です。次の投稿では、今となてみればひょっとして20世紀のヨーロッパの歴史を変えたかもしれない出来事(本当に小さな出来事なのですが)を紹介させていただきます。それは1908年2月、Hofoperでの出来事です。

(次投稿へ続く)

これは la_vera_storia さんの 601 に対する返信です

 

リンツから来た男 (5)

2002/ 8/29 3:07

メッセージ: 643 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

さて、1907年の秋にアドルフ青年はウィーンの美術学校を受験しますが失敗。(この時の試験官にユダヤ人がいたために、ヒトラーはanti- Semitismを持つようになったという説があるそうですが、この時の試験官には1人もユダヤ人はいなかった!) 翌年の再受験の準備に取り掛かっていました。ところが、アドルフ青年に千載一遇のチャンスが回ってきたのでした。

 

それは、リンツでアドルフ青年に好意的だったマグダレーナ・ハニシュ(Magdalena Hanisch)という女性が、1908年初頭にウィーンにいる友人に手紙を書いて、アドルフ青年をウィーンの工芸学校の教授であるアルフレート・ロラー (Alfred Roller)に紹介してくれるよう依頼の手紙を出したのです。このアルフレート・ロラーこそ、アドルフ青年が最初のウィーン訪問の際に体験した Hofoperにおけるマーラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」の上演で、舞台装置監督を務めた人物なのでした。

http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.r/r759515.htm

マーラーはすでに1907年秋に歌劇場総監督を去っていましたが、ロラー教授は依然としてHofoperで舞台装置の総責任者であり、マーラー/ロラーのコンビの舞台装置は健在だったのです。以下でロラーの舞台の様子を見ることができます。まず、シュトラウスの「エレクトラ」

http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.data.image.r/r759515b.jpg

次にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」

http://www.theatermuseum.at/flash/page/sammlung/handzei/gallery/h-page16.htm

そして後年、ヒトラーの推薦を受けて行なった1934年のバイロイトにおける「パルジファル」第3幕の舞台です。

http://richardwagner.free.fr/roller.htm

 

ロラー教授は大変丁寧な返事をハニシュ夫人のウィーンの知り合いに書き、以下のように述べています。

「ヒトラー青年に、私のところに来るように言いなさい。その際には、作品(絵画)を何枚か持ってくるように。その作品を見てあげよう。そうすれば、きっと最適のアドヴァイスをしてやることができるだろう。歌劇場の私のオフィスで会ってやろう。入り口はケルントナー通り側にある。午後12時半から6時半までの間ならば毎日結構だ。もし私がオフィスにいなければ、使用人が私に電話で連絡するはずだ。でも、その時間帯に私がオフィスにいないなんてことは稀だ。もし運悪くそういう時にあたったら、決して落胆せずに翌日でもまた来るように。」

ロラーの非常に親切な手紙の内容を知ったアドルフ青年は狂喜し、とうとう1908年2月のある日、Hofoperのケルントナー通側入り口に向かうのでした。18歳の青年の手にはロラー教授からの手紙をしっかりと握り締められていました。

 

ところが,とんでもないことが起こったのでした。以下、ヒトラーが後年、エドゥアルト・フラウエンフェルト(Eduard Frauenfeld)という人物に語ったことが、Der Weg zur Buehne (Berlin 1940)という本に載っているそうです。この記載を紹介します。

「Hofoperに着いた。ところが、急に勇気を失ってしまい入り口に入らず、引き返してしまった。しばらく悩んだあと、恥ずかしさを振り切って再び入口に向かった。そして階段に突き進んだ。でもそこまでだった。 誰かの<おい、そこの若い人!いったい何の用なの?>という声が聞えたが、口の中でぶつぶつ言い訳をしてあわてて逃げ出してしまった。非常に動揺し、それを静めようとして、手紙を破ってしまった。」

 

アドルフ青年はとうとうロラー教授に会うことができませんでした。もしこの時、彼の心に魔がささなかったら、そして仮にロラー教授に会っていたら.....ひょっとしてアドルフ青年の運命が変っていた可能性があるでしょうね。後年のアドルフ・ヒトラーはなかったかもしれない...。

 

1934年2月、すでにドイツの首相になっていたヒトラーは、ベルリンの首相官邸にアルフレート・ロラーを招きます。当時ロラーは70歳。ヒトラー首相はその時初めてロラー教授と直接会ったのでした。ヒトラーはロラーに語りかけます。

 

「あなたが舞台装置を担当したトリスタンを観た。その後も、ワルキューレ、薔薇の騎士、エジプトのヘレナも観ました。どれもとても素晴らしかった!」

(Bericht Alfred Rollers ueber seine Reise nach Bayreuth und Berlin im Februar 1934)

 

運命のいたずらといったらいいのでしょう?

これは la_vera_storia さんの 642 に対する返信です

 

Re:洪水の被災者への救援等

2002/ 8/29 13:13

メッセージ: 644 / 1477

投稿者: Waldtaube (34歳/男性/USA, Maryland)

 

 直接ゼンパーオーパーと国民劇場の話題ではないのですが、Beck_Messerさんの書き込みに便乗して最近見つけたいくつかのHPを紹介させて下さい。

 

http://www.czechcenter.com/Floods2002.htm

 

 ここの"A Tribute to Relief Workers - Benefit Concert at the National Theater"という項目によるとプラハの国民劇場では9月1日にチェコフィルによる、洪水被害救済に尽力した人々をたたえる慈善コンサートが開かれるようです。

 

 以前別のトピで触れたことがありますが、ドレスデンのフラウエン教会の再建(美しいドレスデン旧市街で否が応でも目に入ってくる未だ爆撃で破壊された姿のままで立っている教会)に尽力しているロックフェラー大学のギュンター・ブローベル教授の財団のHP

 

http://www.friendsofdresden.org/

 

でも寄付を募っています。

 

http://www.friendsofdresden.org/fnews.htm

http://friendsofdresden.org/flood.htm

 私はこのページではじめてドレスデン中心部の洪水被害を俯瞰したのですが、10数年前にその美しさに息をのんだツヴィンガー宮一帯が冠水している映像は衝撃的でした。

 

 再建中のフラウエン教会自体もゼンパーオーパー程ではないものの被害が出ています。教会再建への寄付は上記のページからクレジットカードで簡単に出来るようです。

 

 経済再建の途上にあるこれらの国と地域の洪水被害からの復興を願っています。

これは Beck_Messer さんの 638 に対する返信です

 

 

Re:洪水の被災者への救援等

2002/ 8/29 16:19

メッセージ: 645 / 1477

投稿者: Beck_Messer (45歳/男性/de)

 

Waldtaubeさん

 

有意義なサイトの御紹介ありがとうございました。聖母教会は川にも近く、また工事途中でもあったので、地下の礼拝堂に浸水でもしたら大変なことになるところでしたが、防災設備が万全であったためか、軽めの被害で済んだようでした。

 

http://www.semperoper.de/l_7/index.htm

前にも紹介したゼンパー歌劇場のHPですが、この写真の上の"Fotogalerie ansehen"をクリックすると、被災後の写真が出てきます。

 

http://de.news.yahoo.com/020820/3/t/2x1vo.html

この写真はいつまでネット上にあるかわかりませんが、かなり衝撃的です。

http://de.biz.yahoo.com/020817/3/2wwiw.html

こっちはWaldtaubeさん御紹介の写真と同じような 洪水の全貌です。

 

la_vera_storia さん

お久しぶりです。その節は貴重なお話をありがとうございました。こちらへおいでになったら、ゼンパーと国民劇場を是非支援して下さい。そう、数カ月前の事件は私の住んでいる町で起きました。それも、1年ばかり毎週訪れていたギムナジウム、見慣れた校舎の中での出来事で、言葉を交わしたことのある先生も犠牲になりました。のどかな小都市なのですが、ここに来て以来、ネオナチ騒動、シュタージ騒動、そして今年の事件と、いろいろと事が起きます。

 

このトピの投稿者の皆様

含蓄に富んだ投稿をいつもありがとうございます。この先も楽しみにしています。ここが読むに値するほとんど最後の一つのトピックではないでしょうか。

これは Waldtaube さんの 644 に対する返信です

 

残暑、お見舞い申し上げます

2002/ 9/ 1 16:55

メッセージ: 646 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

la_vera_storiaさま

 

いつもいつも貴重な情報をいただき、ありがとうございます。

 

>私は来月中旬より仕事と休暇の関係で、3週間ほど渡欧する予定になっており、

 

うらやましい限りです。小生のほうは、この週末もあっという間に過ぎ、明日から会社で再び揉め事に巻きこまれる日々が続きます。

 

それにしても、残暑が厳しい今日この頃。頭脳の回転も鈍りがちで中々、良いアイデアも浮かんできません。

秋にかけ、小生はこれから特に以下の点をさらにつきつめていこうと考えています(従来とほとんど変わっておりませんが)

 

ボヘミア、モラビア、スロヴァキア、その他、旧ハプスブルグ領内出身でウィーンで活躍した音楽家、音楽関係者の係わり合い。ハンガリーも当然関心がありますが、その前提としてハンガリー語も学習したいという気持ちがある一方で、ハンガリー語は、チェコ語・ポーランド語どころでなく難しいといわれていることからちょっとためらっています。

 

チェコ語・ポーランド語の読解ができると、ロシア語の読解は容易なので、ロシア語で書かれたマーラー研究のサイトがないかな?ぼちぼち探してみようと考えています。

 

いずれにせよ、枯渇した頭脳のリソースと枯渇した自由時間を振り絞って、何らかの成果を報告していきたいと考えております。

これは la_vera_storia さんの 641 に対する返信です

 

リンツから来た男 (6)

2002/ 9/ 2 0:42

メッセージ: 647 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

アドルフ青年がロラー教授に会うという千載一遇に機会を、自らが原因で逃してしまった日から数日後、リンツから彼の友人であるアウグスト・クビツェク (August Kubizek)がウィーンにやってきました。1908年2月22日頃のことのようです。アドルフ青年は友人を西駅(Westbahnhof)にて出迎えます。当時の鉄道記録によると、リンツからウィーンまでは列車で6時間必要だったとのこと。そして、友人到着は夕方だったようです。アドルフ青年はクビツェクを西駅近くのStumpergasseの下宿に案内したのち、すぐに友人をウィーン見物に連れ出したようです。アドルフ青年に連れられてクビツェクが初体験したウィーン、この2人の歩いた道をたどってみると、私(la_vera_storia)は実に興味深いことに気がつき、今回はそれを書かせていただきます。それにあたっては、ウィーン中心部の地図が必要ですので、以下を参照していただくこととします。

http://info.wien.at/d/spez/plan/uebersicht.html

 

最初に連れて行ったのが帝室歌劇場(Hofoper)だったようです(訪問した場所は、クビツェク自身の回想本の紹介に沿います)。アドルフ青年の下宿 (Stumpergasse)からHofoperまでは、常識的に考えればマリアヒルフ通り(Mariahilfer Strasse)をリンクにむけて下っただろうと思います。そしてリンクにつきあたるとリンクに沿って歩いたものと思われます。Gumpendorfer Strasseを下ってリンクにつき当たった可能性も否定できませんが、ちょっと不自然に思います(ここのところは上の地図で表示するのは無理ですが、あまり重要な点ではありません)。さて、Hofoperに友人を案内したアドルフ青年は得意満面だったに違いありません。以下に、アドルフ・ヒトラーの描いたHofoper(現在の国立歌劇場)全体の絵がありますので紹介しておきます。

http://www.hitler.org/art/buildings/building4.jpg

この絵は本当にヒトラー自身の絵かどうか、100%の確信はもてませんが、しかし右下の彼のサイン(右下がりの署名)を見ると、本物のような気もします。ヒトラー自身の後年の署名を見ると(以下参照)

http://history1900s.about.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http%3A%2F%2Fwww.handw riting.org%2Fimages%2Fsamples%2Fahitler.htm

この絵の署名はよく似ています。さて、Hofoperのあとはシュテファン寺院に行ったそうですから、これは当然ケルントナー通り(Kaerntner Strasse)を歩いたことには間違いありません。さて、問題はシュテファン寺院(霧のために全景はみえなかったそうですが)に到着したあとのとです。このあと彼等はなんとマリア・アム・ゲシュターデ(Maria am Gestade)教会に行ったそうです。この教会は、現在でもウィーンの観光ルートには入っていない場所です。なぜこの教会に行ったのか? (以下、この教会の写真をアップしておきます。)

http://www.skyscrapers.com/deutsch/worldmap/building/0.9/134074/index.html

シュテファン寺院からマリア・アム・ゲシュターデ教会まで行くには、間違いなくグラーベン(Graben)から、アム・ホーフ(Am Hof)へ抜け、右折してTiefer Grabenを下ったに違いありません。(このTiefer Grabenには、ベートーヴェンがop.106のハンマークラヴィアソナタを作曲した場所、と壁に書かれた建物がありますが、おそらく事実ではないでしょう)

 

グラーベンをシュテファン寺院を背にした方向で歩く観光客100人のうち99人までが、あそらく突き当たりを左折してコールマルクト(Kohlmarkt)に入り、ミヒャエル広場(Michaelerplatz)に出て、ホーフブルク(Hofburg)の威容に触れるものと思われます。現在この広場には Cafe Griensteidlという昔日の名カフェが再オープンしていますが、あまりに無味乾燥なカフェでがっかりしてしまいます。ちなみにKohlmarkt は、あのショパンがウィーン時代に住んだ場所でもあり、その建物(もちろん建替えられていますが)には記念プレートもかかていたと記憶しています。

 

ところがアドルフ青年とクビツェクは、おそらくもう薄暗くなっていたにもかかわらず、Kohlmarktに左折せずAm Hof方向に直進し、人通りの非常に少ないTiefer Grabenを下ったのか? それは、アドルフ青年がどうしてもマリア・アム・ゲシュターデ教会を友人のクビツェクに案内したかったという強い動機以外は考えにく?

これは la_vera_storia さんの 643 に対する返信です

 

   

リンツから来た男(補稿)

2002/ 9/ 2 1:19

メッセージ: 648 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

*(前投稿、最後が少し欠けてしまいましたので以下に補足します)

 

(強い動機以外は考えにく)い。なぜマリア・アム・ゲシュターデ教会なのか...?  現在も夜になると人気のないあのあたりには、当時としても非常に暗かったに違いない。当時この教会をライト・アップなどしていたはずがない。なぜそうまでしてこの教会に友人を案内したのか.....?

 

*(資料)

1907年(すなわち、上記エピソードの前年)の統計数字として、以下の記載がありますので紹介いたします。

(1)ウィーン市内での自動車登録台数

    1,458台

(2)ウィーン市内での年間交通事故数

      354件

(3)ウィーン市内の建物(公共施設を除く)内照明の数としては、アーク灯176基、白熱灯657,625基(つまり1人1基という数になるようです。)ところが同じ時代のリンツでは、アーク灯は6基、白熱灯はゼロであり(つまり電化されていない!)、石油ランプしか存在していなかったとのこと。リンツからウィーンにやってきた青年にとっては、いかにウィーンという都市の夜に光がまぶしかったか、ということでしょう。こういうことは現代の我々にとっては、なかなか理解できないことでありますが。 ただ、アドルフ青年のウィーンの下宿では、依然として石油ランプを使用していたようです。

 

......とはいうものの、Tiefer GrabenやMaria am Gestade教会付近は、当時の夜は非常に暗かったということは間違いないでしょうね。現在もあまり明るくないですから。

 

なぜマリア・アム・ゲシュターデ教会なのか.....?

 

(続く....)

これは la_vera_storia さんの 647 に対する返信です

 

中欧的演奏とは? (ムーティを聴いて)

2002/ 9/ 3 0:20

メッセージ: 649 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

もし仮に「オーストリア的」、あるいはもっと拡大して「中欧的」な演奏というものがあったとして、それはどういうものだろうか、ということを今夜ふと考えていました。2日夜、サントリーホールにおけるリッカルド・ムーティ指揮のスカラ・フィルハーモニー(Filarmonica della Scala)のコンサートの帰りの車の中でのことです。

 

今夜(2日)の後半のプログラムはブラームスの第2交響曲でしたが、私は今回のムーティ指揮の2番で、「これでこのオケの演奏するブラームスの交響曲4曲を全部聴いたことになるなあ」とちょっとした感慨を感じました。最初は確かもう20年以上前にミラノで、このオケがショルティの指揮でスカラ座のステージで演奏した第3番と第4番。次はあれは確か91年だったかにオランダのロッテルダムでジュリーニの指揮で第1番を演奏したのを、わざわざパリから車を飛ばして聴きにいったのを懐かしく思い出しました。そして今夜の東京でのムーティ指揮の第2番。

 

今夜のムーティの指揮の演奏では、ここ十何年かの彼の傾向である「抑制の美しさ」の線上にありながらも、決して全体から遊離させないだけの部分的な強調なども聴こえます。しかし、全体のプロポーションとしては実に見事にコントロール、造形された演奏となっていたのには大変感心しました。彼が88年にウィーンフィルを指揮して、やはりこの2番を演奏したのを聴いたことがありますが、その時はまるで彫刻のように硬質な演奏が第3楽章まで続いたあと、終楽章は突如としてエンジンをフル回転させた指揮であり、それを聴いた私は、「随分と見え透いた指揮をするものだ」と感じたのは事実です。しかし今夜の第2番を聴くと、抑制されたなかにも実にのびのびとした呼吸が感じられ、終楽章も一気に駆け抜けるものの、そこには決して曲全体のプロポーションが崩れてはいませんでした。それに加えて今夜は、非常に淡い色調の歌が聴こえてきて、思わず私は「あれっ!? 今までのムーティにこんな色出せたかな?」などとも思いました。そして思わず、「これはオーストリア的なブラームスだな」とつぶやいた次第。そして、かつてのジュリーニがこのオケを指揮した第1番の名演奏を思い出したのでした。なにしろあれは確か55分もかかった、ある意味では「怪物的」な第1番でしたが、あの淡い色調の歌は本当に中欧の音楽を感じさせたように記憶しています。そして今夜のムーティの指揮....。

 

ショルティはどうだったかといえば、これは本当に逞しい第3番、第4番の演奏でした。オケを駆り立てて、実に迫真的な演奏だったし、あの時は満員のスカラ座の聴衆も大喝采でしたね。私も本当に堪能したのを覚えています。しかし.....今にして思えば、あのショルティ指揮の演奏には「オーストリア」ないしは「中欧」という要素、雰囲気は感じなかった....。 確かに名演ではありましたが。

 

おもしろいものですね、確かジュリーニはイタリアのシチリア島の出身、ムーティはナポリの出身。でもショルティはハンガリーのブダペスト出身だったはずです。オーストリアに一番近く、かつ中欧のまっただなかにあるハンガリー出身の指揮者の演奏に「オーストリア」を感じず、南イタリア出身のジュリーニやムーティの指揮に「オーストリア」を感じるとは....。

 

しかしそもそも、「オーストリア的演奏」「中欧的演奏」というのはあるのだろうか...?

これは bernardsstar さんの 646 に対する返信です

 

頑張れチェコのレーベル

2002/ 9/ 3 2:47

メッセージ: 650 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

先日楽譜を注文する時に店員さんから教えてもらったのですが,チェコのレーベル「スプラフォン」がドイツのベーレンライターに吸収され,扱う品物もだいぶ整理されるとのこと.

私にとってはアンチェル&チェコフィルのドボルジャークや、ガブリエラ・ベニャチコーヴァのアリア集のCD,テレジンで物故した作曲家達の歌曲のCDなど, 大事な版の供給源でした.まだまだご当地もののマイナーなオペラの全曲版など、出してもらいたいものがたくさんあります.

ただ,供給が不確実なのが難でしたが・・・.

チェコ、ハンガリー、オーストリアなどのご当地レーベル,がんばれ!

これは la_vera_storia さんの 649 に対する返信です

 

リサイタル情報

2002/ 9/ 3 10:37

メッセージ: 651 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

東京・千駄ヶ谷の津田ホールにて、10月30日午後7時より、「長島剛子ソプラノ・梅本実ピアノ リートデュオリサイタル」が行われます。サブタイトルには「世紀末から20世紀へ part2」とついていて曲目は

シェーンベルク シュテファン・ゲオルゲの「架空庭園の書」による15の歌曲作品15 いわゆるシェーンベルクが初めて完全に無調でもって作曲したものです。

シュレーカー 森の孤独、お化け

マルクス ノクターン、風車他

となっています。全自由席で4000円で、問い合わせ先は八田健男音楽事務所03−5384−3757です。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ラジオ情報

2002/ 9/ 3 18:16

メッセージ: 652 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

今、夕刊のラジオ欄を見てて気づいたのですが、今日午後7時からのNHK/FMのベストオブクラシックで、天羽明恵さんのソプラノリサイタルが、放送されます。そこでは、ヴィクトール・ウルマンの「5つの愛の歌」が歌われます。テキストは女流詩人のリカルダ・フーフによるものです。このテキストにはハンス・プフィッツナーも作曲していて興味深いです。ちなみに、天羽さんは、以前もこの歌曲をリサイタルで歌っていて十八番となっているようです。また、天羽さんは東フィル定期やリサイタルでグルリット作品にも傾倒されています。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

忘れないうちに

2002/ 9/ 3 21:29

メッセージ: 653 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

ラジオできいた感想を忘れないうちに書こうと思います。放送は、リサイタルの録音と、NHKでのスタジオ録音を組み合わせたもののようです。ウルマンの方は、スタジオ録音でした。冒頭で、「天羽さんは幅広いレパートリーを持っていらっしゃる」と紹介されていましたが、番組でもそれを裏付けるかのように、早坂文雄、山田耕作、シューベルト、シマノフスキ、ウルマン、ベルク、バーンスタイン、ドニゼッティ、プッチーニ、リヒャルト・シュトラウスと幅広く扱っていました。さて全般的に聞いてみての感想は、天羽さんの、驚異的な高音と、優れた歌唱法に驚いてしまい、松川氏の伴奏にも感心し、ソロ・リサイタルを聞いてみたいと思うほどでした。さて、ウルマン作品ですが、5曲あり、1、2曲目はメランコリックで、幻想的でもありました。3曲目は、打って変わってダイナミックでいかにも表現主義的で、強音を効果的に使っていました。シュトラウスの「エレクトラ」を思わせる感じがしました。4、5曲目は、静かに叙情的に始まりながらも、後半に盛り上がりやうねりがありました。5曲全体は、シェーンベルクに師事していたとはいえ、どことなく調性的に聞こえました。そして、フーフのテキストがロマン主義時代のものなのか、歌曲は幾分ロマンチックな感じがしました。また、シマノフスキの歌曲が聞けたことも収穫でした。

これは gur1zem2korn3 さんの 652 に対する返信です

 

ラジオ番組のご感想、ありがとう

2002/ 9/ 3 22:29

メッセージ: 654 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

gur1zem2korn3さま

 

本日は、勤務先の飲み会で、聴けませんでした。シマノフスキは、N響が歌劇「ロジェ王」を取り上げるように、ブームですね。

 

ところで、僕は、グルリット「軍人たち」(ゲルト・アルブレヒト指揮)のCDを最近買い、1枚目はこの前の週末に聴き終えました。ドイツ表現主義の特徴がよく現れた作品ですね。2枚目を聴き終えたら、gur1zem2korn3さんのトピに感想を投稿させていただきたく。

これは gur1zem2korn3 さんの 653 に対する返信です

 

リンツから来た男 (7)

2002/ 9/ 4 2:03

メッセージ: 655 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/瞬間覚醒中)

 

アドルフ青年が何故、その日の午後にウィーンに到着したばかりの友人を案内して、マリア・アム・ゲシュターデ教会に行ったかについては憶測以上のことは言えません。リンクを歩いて帝室歌劇場まで行く間にすでにこのウィーンという街のリンクに沿った建物の偉容を堪能し、歌劇場のあとのシュテファン寺院の壮大さに触れ、そしてグラーベンではやはりその両側の建物の佇まいに驚いたでしょうが、その後で見るマリア・アム・ゲシュターデ教会とは違和感があります。 この教会自体は後期ゴシックの傑作だと言われていますし、事実その姿は美しいものです。(幸運にも、第2次大戦でも無傷でした)私は数度この教会を訪れていますが、その印象としては、ある種の結晶化された美しさを感じたものです。現在のウィーンを堂々と見せているリンク沿いのいくつかの建物の世界とはまったく異なる世界であり、この教会の姿には「美的秩序」といったようなものを感じるのです。そういう意味で言えば、友人が到着したその日にこの教会に案内したというのは、アドルフ青年もなかなかの審美眼を持っていたのだ、と結論するよりしょうがありません。1900年頃のこの教会の写真がありますので、御参照下さい。

http://www.members.aon.at/mederitsch/alfred/wien100.htm

皆様方のなかでウィーンに行かれる御予定のある方がいらっしゃいましたら、是非時間を作ってこの教会に行ってみて下さい。ウィーンの「穴場」だと思います。ただし私のお薦めは、吐く息が白くなるくらい寒い曇った冬の日の午前中に行かれることをお薦めいたします。そういう条件のそろった日にこそ、一段とこの教会の美しさを感じることができます。これは私の体験から言えることですが。1908年の2月22日、おそらく寒かっただろうと思います。あたりも薄暗くなっていたのだろうと思います。想像するに、マリア・アム・ゲシュターデ教会は、リンツからやってきた青年たちにとって、非常に美しく見えたことだけは間違いないでしょうね。

 

さて、アドルフ青年とマーラーとの関係についてもっと触れておかないと完全なトピずれになってしまいますね。アドルフ青年がウィーンに滞在中にマーラーの指揮に接したのは1906年5月8日の「トリスタン」の上演一度きりだという意味のことを前に書きました。先に御紹介させていただいたウィーンのHofoperの上演記録を見ていきますと、

http://www.gustav-mahler.org/english/mahler/calendar-f.htm

もう一度だけチャンスがあるようにも思います。アドルフ青年はこの時期には、ヴァーグナー作品の上演以外はHofoperに行くことがなかったということですので、マーラー指揮でのヴァーグナー上演で、アドルフ青年がウィーンに滞在していた時期にぶつかるのがもう一度だけあります。それは1907年9月15日の「ワルキューレ」です。アドルフ青年はこの年の9月の初旬に再びウィーンにやってきてましたから、このマーラー指揮の「ワルキューレ」を観るチャンスはあったでしょう。しかしアドルフ青年に後に友人クビツェクにはワルキューレの話はしておらず、また美術学校受験日が迫っていたという事情があることから、私は彼は「ワルキューレ」は観ていないと考えます。マーラーのHofoperにおける最後の指揮である、同年10月15日の「フィデリオ」については、アドルフ青年は母親の看病のためにリンツに戻っている間ですので、観ているはずはないでしょう。ということは、ヒトラーが体験したマーラーの指揮は、1906年5月8日の「トリスタン」一度だけだ、ということになります。

(続く....)

これは la_vera_storia さんの 647 に対する返信です

 

20世紀前半ドイツ文化関連イベント

2002/ 9/ 6 0:24

メッセージ: 656 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

水戸の近代美術館で「ドイツ表現主義展」が開かれるようです。http://www.edu.pref.ibaraki.jp/kinbi/

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

イベント情報2

2002/ 9/ 6 0:55

メッセージ: 657 / 1477

アバターとは?

投稿者: gur1zem2korn3

 

東京国立近代美術館にて、来年の1月から3月にかけて「ヘルマン・ムテジウスとドイツ工作連盟」展というのが行われるようです。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です