ベルリンで観た「ばらの騎士」ー疎外と孤独

2002/11/ 3 3:10

メッセージ: 706 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

今まで何度かR.シュトラウスの「ばらの騎士」の舞台を観てきましたが、私が渡欧中の9月末にベルリンのStaatsoperで観た「ばらの騎士」の舞台のような特殊な印象を抱かせる演出は過去の私の体験の中にはありませんでしたし、ちょっと考えさせられるものがありましたので、今回はそれをレポートします。 演出を担当したのはニコラス・ブリーガー(Nicolas Brieger)で、この演出のpremiereは95年だったようですが、私がこの演出を観るのは今回が初めてでした。

 

観ていてつくづく感じたのですが、この演出において登場人物は全て何らかの形で「疎外」されているか、あるいは「未成熟」な人間かのどちらかのキャラクターとして描かれています。この2つがキーワード、とさえ思えたくらいです。 第1幕の元帥夫人(Marschallin)の白がまぶしいばかりの部屋からして、一種の冷たさを感じさせ、そこでの元帥夫人の相手のオクタヴィアンは、自分の意志を持たない未成熟な青年としての描かれ方です。ですから、元帥夫人の疎外された孤独感というものが、結果として強く打ち出されています。そしてオックス男爵、彼も単なる暇人の好色漢ではなく、貴族社会から疎外された男という雰囲気。途中で彼等に歌を披露する歌手の車椅子にのったままの歌は、まるで深夜に乗客のほとんど通らぬパリのメトロの駅の通路で、1人見事な歌を歌っている孤独なイタリア人、という雰囲気です。元帥夫人が抱くのは諦観ではなく、現代において疎外された人妻のつぶやきでしかありません。

 

第2幕でのゾフィーは年齢はともかくとして、実際の精神年齢は子供でしかありえず、床で1人ゲームに耽っているという状況。そこに登場するのは銀のばらを持ってきたオクタヴィアンですが、通常の演出とは異なり、オクタヴィアンを出迎えるはずのファニナル家の人間はおらず、舞台上でたった2人、オクタヴィアンとゾフィーとの孤独な出会いからして、2人の未成熟な男女の遭遇でしかありません。ここでの2人の遭遇、そして以降の彼等の恋愛はあくまでも、子供の未熟さという領域を出ることがありません。

 

第3幕の最後、元帥夫人が自分の身を引いていくシーンでも、あの未熟なオクタヴィアンは依然として元帥夫人を求め、彼女の後を追い、そして彼女の助力を求めようという姿勢そのものですから、最後のオクタヴィアンとゾフィーの二重唱は、2人の愛が確固としたものとは感じられず、今後この2人には紆余曲折がある予感がしましたね。このカップルが本当の意味で成熟していき、本当の愛を理解するためにはどうしても「ばらの騎士―続編」が必要だと思いました。少なくとも今回の演出を観た限りではそれを強く感じます。やはりもう一度ホフマンスタールが、続編の台本を書く必要がありそうに感じます。「セビリアの理髪師」から「フィガロの結婚」というパターンを、もう一度「ばらの騎士」でも行なわれる必要がある感じましたね......。

 

「ばらの騎士」というオペラの真の主人公は元帥夫人であるのは間違いないでしょうね。そして彼女の内面の心境の変化というのがこの作品の重要なテーマでしょう。しかし、その彼女の存在を、ある意味では社会化した(つまり、社会の中での疎外、孤独というものに置き換えた)ものを感じさせる今回の演出、なかなか興味深いところです。現代社会の中での人間存在の疎外化、そしてその中で成熟できぬ分子化された個々人、そういう問題をはしなくも感じさせていたのが、このブリーガー演出だと思いました。 以下、当夜の主なキャストです。元帥夫人(Tina Kiberg)、オクタヴィアン(Katharina Kammerloher)、ゾフィー(Illeana Tonca)、オックス男爵(Bjarni Thor Kristinsson)、ファニナル(Andreas Schmidt)他、指揮はミヒャエル・ボーダー(Michael Boder)、演出はニコラス・ブリーガー(Nicolas Brieger)。

 

(2002年9月29日 高橋尚子選手ベルリンマラソン優勝の日の夜  於 ベルリン ウンター・デン・リンデンのStaasoperでの上演を観て)

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パリで聴いたウィーンフィル演奏会

2002/11/ 4 1:47

メッセージ: 707 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

「....作家は自作を価値判断するのが全読者中いちばん不得意である。なぜかといえば、作家はふつう執筆のねらいをおおよそ自覚しているが、そのためにかえって、実際なしとげたもの、つくりあげたものを見る眼が雲ってしまうからである。」

これは、ドイツの文芸評論家の大御所であるマルセル・ライヒ=ラニツキ(Marcel Reich-Ranicki)の自叙伝(Mein Leben)の記述ですが、あるコンサートのあと私はこの記述のことをちょっと思い出しました。9月18日に出張の合間にパリのシャンゼリゼ劇場 (The'a^tre des Champs-E'lyse'es)で聴いたウィーンフィル(Wiener Philharmoniker)の演奏会で演奏されたシュトラウスの交響詩「英雄の生涯」での印象です。当夜の指揮は、クリスティアン・ティーレマン (Chriatian Thielemann)。

 

さて、このコンサートの前半ではメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲と交響曲第5番「宗教改革」が演奏されましたが、これはなにか一本筋の通った演奏になっており、ちょっと感心しました。ティーレマンの指揮もフレーズをやや短めにとって音楽を追い込むような瞬間もあり、なかなか刺激的なメンデルスゾーンだと思いました。しかしまあ、それ以上ではなかったかもしれない。 ところが、後半に演奏されたシュトラウスの「英雄の生涯」、これは実に奇妙な印象を与える演奏でしたね。どういう点でそうだったか?

 

この曲の過去の名演でいえば、東京やベルリンで聴いたカラヤンの演奏とか、なんと同じこのシャンゼリゼ劇場で昔聴いたケンペの指揮とか、そういう演奏はこの作品に対して確固とした設計図があったように思います。雄弁な大芝居のカラヤン、全体を俯瞰した上で全てを音楽そのものに委ねたケンペ....。 ですから私はこの作品の指揮は、そういう「設計図」をいかに具体的に音楽にしていくかが重要なのだ、と思っていました。ところが当夜のティーレマンの指揮で聴いていると、はたして彼がそういう確固とした設計図を描いているかどうかが疑わしく感じられるのです。フレーズを短くとるのが主体になっているのか、などと思わせておいて意外な場所でルバートを入れたり、うんとオケを抑えてつぶやきのような効果をあげてみたり、また英雄の「戦場」のシーンでは打楽器を必要以上に鋭く鳴らせてみたりなど(ここでのウィーンフィルの音はすさまじかった!)。 テンポを落としているくせに英雄の「引退」の部分がよそよそしく聴こえるのは奇妙でしたが、おもしろいのは「完成」にあたるはず部分についてはテンポを再び上げるくせにレガート気味に弦を歌わせてみたり.......。 いろんなことやっているのですが、そういうこと全てが音楽上の表現ポテンツの変化とあまり一致していないのですね。 

 

それやこれや、つまりティーレマンは設計図らしいものを描いておらず、部分部分にこだわった指揮をしているに過ぎないように感じます。ウィーンフィルは壮大によく鳴り、全体としてオーケストラの雄弁さが光る演奏であり、漫然と聴いていれば、後半のシュトラウスも前半のプロ同様に、一本筋の入った演奏にも聴けなくもないし、作品が作品だけにかなり楽しめたことも事実であるのですが。

 

さて、冒頭に紹介したマルセル・ライヒ=ラニツキの自伝の記載ですが、エルンスト・ブロッホが戦後ガルミッシュにシュトラウスを訪ねた際に、「エレクトラ」について話題を出すものの、シュトラウスは自作の素晴らしさについてよく理解していなかった、というエピソードを紹介しています。 全読者中(全聴衆中)でもっとも自作の価値判断に不得意である作家(作曲者)......。 まるでティーレマン指揮のシュトラウスは、そういう作曲者の「迷える価値判断」を体現しているかのような指揮をしているのかもしれません。楽しめたのは事実ですが、しかし奇妙な「英雄の生涯」だったという気持ちを抱きつつ劇場をあとにしました。夜のひんやりとした空気の中、アルマ・マルソーからセーヌ河岸に出るとエッフェル塔が鮮やかに光っていたのが印象的。

(2002年9月18日 於 パリ シャンゼリゼ劇場での演奏会を聴いて)

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ベルリンで聴いたウィーンフィル

2002/11/ 4 4:03

メッセージ: 709 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

今回の出張&休暇旅行中にパリに引き続いて、もう一度ウィーンフィルを聴く機会がありました。それは9月30日ベルリンのフィルハーモニーホール (Philharmonie, Grosser Saal)での演奏会で、指揮はニコラウス・アルノンクール(Nikolaus Harnoncourt)。 曲目は前半がドヴォルザーク(ドヴォジャーク)のスラヴ舞曲op.46-8、交響詩「金の紡ぎ車」、後半がスメタナの「我が祖国」より、交響詩「ヴィーシェフラド(高い城)」、「モルダウ」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲op.71-1.及びop.72-2というチェコ音楽のプログラムでした。

 

なんと言ったらよいか、このコンサートはアルノンクールの個性が良くも悪くも出た演奏会でした。登場するやいなや(といっても当日は指揮台は無しだったと記憶)、いきなり情熱的なスラヴ舞曲op.46-8を芝居々気たっぷりに指揮して聴衆をいきなり圧倒。 次に何をするかと思ったら、聴衆のほうに向き直って、次に演奏する交響詩「金の紡ぎ車」について約15分近く聴衆に「講義」。それぞれいちいち、「このモティーフは、かくかくしかじかを意味して....」と説明し、そのモティーフのところをいちいちオーケストラに演奏させるという念の入った説明。その説明も詳細を極め、聴いていて私などはこの「講義」を聴いているだけでもうこの曲の演奏はいらないな、などという皮肉を言ってみたくなった次第です。15分以上の「講義」のあと全曲演奏。しかし、ああやってアルノンクール大先生の講義を受けてみたところで、「金の紡ぎ車」という曲に格別の理解が深まったような気持ちにはなれない。それよりも、感興がそがれてしまったという感じでした。

 

後半最初のスメタナの「高い城」についても、開始前にアルノンクール大先生は再び「講義」を開始。「最初のハープの調べは、吟遊詩人の語りを意味して....云々」。そして実際にハープで演奏させます。確かにスメタナは自筆スコアに「吟遊詩人云々」ということを書いています。しかし私に言わせれば、あれは「昔々あるところに」と、歴史を遡るということイメージを表現している、ということで十分。さすがの大先生も「モルダウ」に関しては説明はほとんど省略で、この2曲の演奏に入りました。「高い城」の演奏、ちょっと個性的でしたね。冒頭のハープのあとは平板に主部に入ってしまい、あっけにとられてしまうし、とんえもないような箇所にパウゼを入れたりもします。「モルダウ」では、さすがにウィーンフィルの弦の美しさが生きていたものの、中間部ではアルノンクールの指揮が芸の細かさに欠けており、単なる経時部にしか聴こえない。曲最後の2つの音を伸ばすのはおもしろいと思いましたが、結局は曲の平坦化となってしまった。最後のスラヴ舞曲を2曲(op.72-1, 72-2)、これはさすがにスラヴのメランコリーを感じさせました(彼の「講義」はここでは生きていた!)。こういうメランコリックな表情は、ウィーンフィルはうまいと思いました。 やはり旧ハプスブルク帝国からの血のつながりのようなものを感じざるを得ませんね。 ベルリンの聴衆は以前から、ウィーンフィルとか旧東独のオケに非常に暖かい拍手をするのですが、当夜の拍手も実に盛大でした。まあアルノンクールもベルリン出身ですしね。 (彼が「講義」の中で,<Ich bin auch ein Berliner !>と言ったら、満員のフィルハーモニーの聴衆が大喝采でした)。

 

さて、当日ちょっと気になったのは、ステージ上のウィーンフィルのメンバーに3人女性がいたことです。1人はハープで、当然今までいたのですが、もう2人(ヴァイオリン)の女性は、あれはもう正式団員になのでしょうか? コンサートが終了したあと、ポツダム広場近くのホテルに戻ってバーで飲んでいたら、なんとウィーンフィルのメンバーが数人が入ってきました。話し掛けてみたら、なんとこのホテルに泊っているとのこと(後から知ったのですが、私の泊っていたホテルが今回のコンサートのスポンサーの一つだった)。 いろいろと彼らと雑談しましたが女性団員の件、喉まで出かかったのですが、とうとう言い出せませんでした。 翌日朝、朝食を取るためにカフェテリアに降りたら、ウィーンフィルの団員ばかりがいて、そこいらじゅうあのウィーン訛り。「ひょっとしてここはウィーン?」という錯覚を感じたまま、コーヒーを口にしました。

(2002年9月30日 於ベルリン、 フィルハーモニーホールでの演奏会を聴いて)

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カンディンスキーとシェーンベルク

2002/11/ 4 5:59

メッセージ: 711 / 1477

投稿者: imyfujita

 

この二人をテーマにしたホームページを作っています。曲は 6 Kleine Klavierstucke op.19 6つのピアノ小曲集で、絵は、「空の青」です。どちらも大好きな作品なので結び付けてみました。よかったらご覧ください。

http://members.aol.com/mocfujita/air.html

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ハースとクラーサの弦楽四重奏曲

2002/11/ 4 8:53

メッセージ: 712 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

ハースの2&3番、クラーサの唯一のSQをホーソーンSQが演奏するCDで聴きました。1921〜1938年に作曲された作品群ですので、シェーンベルクのSQや、バルトークのSQとの対比で曲作りを考えてみる必要がありますが、特にハースの作品は、バルトークの作風に近いという印象を持ちました。

 

このCDを聴き終えたのちに、別のCDでシェーンベルクの2番を聴いてみたのですが、さすが、シェーンベルク!聴き手を虜にする才能!と感じました。それは、ハース、クラーサの作品もよく出来てはいるものの、5分程度の長さの楽章がとてつもなく長く感じられたのに対し、シェーンベルクの作品は聴き惚れているうちにあっという間に終了したからです。やはり、音楽作品は後者のようなものであるべきと、思いました。

 

ハースはヤナーチェクの弟子なので、ヤナーチェクのもつモラビア土俗的小宇宙音楽を発展させてほしかったといった印象・・・です。

 

ところで、ハースとクラーサはテレジン収容所に入れられたのち、音楽家であったことから、しばし音楽を題材にしたナチスの宣伝政策に利用され、役目が終わったのち、アウシュヴィッツ(オシフィェンチム)に送られました。このように、ユダヤ人音楽家は、音楽の才能によって、処刑が先送りになったり、あるいは、ホロコーストを生き延びたりしたケースがありました。

 

最近、公開された映画「ピアニスト」(ポラィンスキー監督)では、このようにして何度も命を救われたポーランドのユダヤ人ピアニスト、シュピルマンをアドリアン・ブロディ(この俳優の演技の評判は今イチ)、命を救った側のドイツ人将校ホーゼンフェルドをトマス・クレチュマンが演じています。ホーゼンフェルド自身は後にソビエト軍によって処刑されたとのことです(小生はポーランド映画通ではありません。たまたま入手した情報です)。

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テレジンの作曲家の歌曲

2002/11/ 6 2:39

メッセージ: 713 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

こんにちは。お久しぶりです。

ハースの話しが出てきたのでちょっと。

今,テレジンの作曲家たちの歌曲の楽譜を集めています。(もちろん歌いたいからですけど)それぞれ個性的な曲調の人たちなのですけど,ホロコーストに遭遇したと言う要因が無かったら,この時代まで伝えられていたかと言うと,ちょっと疑問な人もいます。

彼等の中では,ヴィクトル・ウルマンが最も現代的な,ソフィスティケートされた音楽を作った気がします。(アーヴィン・シュルホフのジャズ調の協奏曲もとても面白いのですが)

彼等のドイツ語やチェコごの歌曲の中にあって,ギデオン・クラインの『子守唄』だけは、何語かわかりませんでした。

日本のバイオリニストがライフ・ワークのようにして弾き続けている曲ですが,楽譜に振ってある歌詞が,今まで見たことのないつづりなのですね。

他所の掲示板で訪ねたら,「イディッシュ語ではないか」とのお返事が来たのですが。・・・・ネットで捜しても,歌詞の入った歌としてのCDはないようですし,ちょっと困ったものです。

これは bernardsstar さんの 712 に対する返信です

 

クラインの『子守唄』

2002/11/ 6 23:56

メッセージ: 714 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

nx_74205defiantさま

 

小生、最近は毎日深夜まで働かされておるのですが、近日中に調査を完了したく。

台詞の断片かなにか手がかりがあると、助かります。

これは nx_74205defiant さんの 713 に対する返信です

 

ありがとうございます

2002/11/ 7 3:47

メッセージ: 715 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

ありがとうございます。

件の楽譜はプラハのテンポラ社のものを,boosey&hawkesが出版している物です。

作詞者はemmanuel harussiと言う人で,1929,テルアビブと説明書きがありました。

 

sch'chaw b'ni sch'schaw bimnucha

al na tiw ke mara

aljadcha joschewet imcha

schomeret miko ra

 

と、続きます。

メロデイは、今世紀初頭,ウクライナのラビに寄る物で,クラインはアレンジだったそうです。

素朴なメロディにドビュッシーさながらの透明感のある和声が施され,とても印象的な曲です。

今のところニューヨークの非営利団体「レオナンダ」と言うところから出ているのが,唯一の歌入りCDのようですが,国内のショップでは取り扱いが無いそうで,さりとて英語のフォームから個人輸入するのも難しく,途方にくれています。

これは bernardsstar さんの 714 に対する返信です

 

シャイー指揮のマーラー第3交響曲を聴いて

2002/11/ 8 1:52

メッセージ: 717 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

「今更何を言い出すのか?」と笑われそうですが、私はつくづく「マーラーの音楽には不思議な力が宿っている」と今夜あらためて痛感した次第です。

 

今夜(7日夜)、サントリーホールでマーラーの第3交響曲を聴きました。演奏はアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団(Koninklijk Concertgebouworkest)、指揮はリッカルド・シャイー(Riccardo Chailly)、コントラルトはナタリー・シュトゥッマン(Nathalie Stutzmann)、合唱はウィーンのアルノルト・シェーンベルク合唱団、その他。

 

シャイーという指揮者は80年代には(西)ベルリンの放送交響楽団の指揮者で、その時に私はベルリンで何回か彼の指揮を聴いています。ザルツブルク音楽祭でのヴェルディの「マクベス」を聴いたのもその頃。その時からの印象として彼の指揮は、肉の太い厚めの音、そして比較的濃い色彩の音楽をやる人だと思っていました。今夜聴いた限りでも、基本的にそういう音楽は変っていませんでした。こういうシャイーが今夜のようにマーラーを振ってみて出てきた結果としては、まず一つの楽章が単一の色合いと表情で表現される傾向が強いこと。しかも、マーラーの音楽にある5次元性というか、過去の記憶と現在の体験を音の強弱や楽器の色合いによって共時化させるという要素は減退することとなります。そういうことと大きく関係してくるのですが、マーラーの音楽の中にある「刺激性」「神経症的観念」などというものはあまり感じさせてくれず、音楽そのものが明るさや楽天性という傾向を帯びてくる....。 こういう彼の音楽は、熱烈なマーラーファンには物足りないかもしれませんね。  さらに今夜のコンセルトヘボウ管弦楽団は、いろいろと演奏に細かい疵がありましたね。長大な第1楽章では弦のアンサンブルが乱れがちだったし、それ以降の楽章では木管の入りのタイミングが少々ずれていたり、あるいは金管がちょっと不安定な箇所もありました。たおやかな音色が魅力である弦楽器については、最初はちょっと精彩がなかった....。 コントラルトのシュトゥッマンは急な代役だったせいか、舞台で楽譜を持っている姿からして、やや自信のない様子(結果としてはそれは杞憂でしたが)。 つまり全体としては、やや演奏の精度に甘さがのこる....ということになったはずなのですが....。

 

ところが聴き終わってみて、本当に充実した感動がありました。なにか心が浄化された感じだった.....!  やっぱりこの第3交響曲の終楽章(Was mir die Liebe erzaehlt)という楽章の音楽の持っている美しさが、不思議な力をもって心の浄化作用をしたのだということなのかもしれません。どうもうまく言えないのですけれどね。以前では、バーンスタイン、メータ、アッバードなどの演奏が私には印象深かった。特にメーターがイスラエルフィルとパリで演奏した時のこの終楽章は、この世のものとも思えぬ耽美的な演奏だったのが思い出深いです。 それにしてもこの終楽章の美しさ!

 

今夜のシャイーの指揮では、非常に濃厚に歌わせようという意図がよくわかりましたし、さすがにコンセルトヘボウの弦がそれによく答えていました。

 

いったいなぜあれだけ演奏に細かい疵があっても、聴衆に「ああ、音楽を聴いたなあ」という感じを抱かせるのか? このオケになにか特別な力があるからなのでしょうか? 会場の聴衆の拍手、実に盛大でした。

(2002年11月7日 サントリーホールでのコンセルトヘボウ管弦楽団来日公演初日を聴いて)

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マーラー演奏の伝統とオランダ文化

2002/11/ 8 1:58

メッセージ: 718 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

よくこういう言い方があります、「どこそこのオーケストラには誰某の作曲家の作品演奏の伝統がある」。 こういう場合の「伝統」というのは非常に曖昧な場合が多く、もし仮に突っ込みを入れるとすれば、比較的容易です。そもそも「伝統とは何か?」という問いですら、答えは簡単ではありません。マーラー演奏についての「伝統」ということであれば、コンセルトヘボウ管弦楽団にはそれがある、という一般的な認識もあるかもしれません。このオケとマーラー(作品/演奏)についての関係の深さは事実ですし、そういうことをいちいちここで挙げるのは省略します。音楽ファンなら常識ですからね。 ではたとえば、ベルリンフィルにマーラー演奏の伝統があるのかと問われれば、「否」と言うのが正解でしょうね。ウィーンフィルについても、「否」といったほうがよいと思います。それよりもまず、このコンセルトヘボウ管弦楽団の特質とは何か?

 

やはり、その音の<たおやかさ>だと思います。特に弦楽器、そしてその中でもヴァイオリンの音が特徴がありますね。柔らかくて、しかもしなやかですね。「そよそよ」という梢を渡る、そよ風のように聞える瞬間すらある....。 しかし私はこのオケ、かなりの回数聴いていますが、あえて言わせて頂くならそれは「燃えないオケ」というのがもっと本質的な特質だろうと思います。これは決して悪い意味でではありません。いつも冷静な落ち着きを保っており、決して忘我的状態にはならない.....、そういう点に特徴があるように思います。ショルティ、ジュリーニ、テンシュテットで聴いた時ですらそうでした。 ですから聴き方によっては、もっと音楽にのめりこんでほしいという感じもする瞬間がある。(そういう点ではウィーンフィルは、指揮者次第で熱くなるオケですね)

 

私は以前、この「燃えないオケ」という印象を、アムステルダムに数年住んでいる日本人の人にぶつけてみたことがあります。その人の答えはこうでした。「オランダという国は、国土がみな平地であり山や丘が無いでしょう。もしたとえばドイツやオーストリアのように山や丘があれば、そういう山や丘の向こう側に何があるのだろういう<憧れ>に似た気持ちを持ちますよね。こういう<憧れ>というものが次ぎには、そういう未知のものを熱望するという感情に発展しますよね。それが<ロマン主義>の源ですよ。ところがオランダにはそういう<山の向こう側にある未知のものへの憧れ>を持ちようがありません。平地ばっかりですからね。」という答えでした。 なるほど......。 熱くなりようがないのかもしれない.....。 でも、そのこととマーラー演奏とどういう関係があるのか?

 

今夜(7日夜)のようにマーラーで若干の疵のある演奏をしても、結果としては聴き手を圧倒するのは何故なのか? (もしベルリン・フィルがあれだけ疵のある演奏をしたら、やはり同じ結果となるのか?) 私があえて答えを考えてみると、それは作品に対する姿勢というか、つまりマーラー作品に対する倫理的目標、理想像のようなものを無意識的に実践しているからだ.....などと言ってみたい気がします。一時的熱狂ではなく、恒常的倫理目的意識? こういうものが、「大人の音楽」なのでしょうかね....。勿論オケのメンバーは「生活のために演奏している」と言うのが本当でしょうけれどね。

 

さて、先ほどのアムス在住の方の説を、今度はフランドル文化の特質解明に援用してみるとどうなるか? たとえばあのフェルメール....。これとレンブラント、ルーベンスを比較して、フランドル絵画への探求の旅に出るのはどうか? 海が、山や丘の替わりになれないのか? いや、そもそもあのオランダ人ゴッホは、「熱い」画家ではないのか? 「熱く」なったのは南フランスに行ってからなのか? あのゴッホに、表現主義の萌芽をみることができないのか?

 

まったくトピずれになってきました。今夜はここまでにします。

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オランダ

2002/11/ 8 22:39

メッセージ: 719 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

人口密度高く、資源なし。古くは植民地で栄え、今は欧州の窓口役を買って出る口銭で生きていますね。

 

でも、メンゲルベルクや、バーンスタイン&コンセルトヘボウなど、マーラー演奏に関しては高い評価を得ています。

 

オランダ人は、いわゆる金髪白人の典型ともいえる人達ですが、金銭がからまない人間関係では、そんなに悪い人達でもなさそうです。

 

デザイン、絵画、ファッション等の世界では、国民の水準の高さを感じます。

これは la_vera_storia さんの 718 に対する返信です

 

シュトラウス「ばらの騎士」再説

2002/11/ 9 0:21

メッセージ: 720 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

かつて私はこの「ばらの騎士」ほど「読み替え演出」及び「時代設定の変更」が難しい作品はないのではないか、と思っていました。しかしそうはいっても現代の演出家は手を変え品を変え、いろいろな新規の工夫をこらしているようです。そういう例として、今からもう10年近く前になるでしょうか、ベルリンドイツオペラであのゲッツ・フリードリヒが両大戦間のワイマール共和国時代の話、という設定で新しい演出をほどこしました。あの当時「ばらの騎士」をベルリンでゲッツ・フリードリヒが演出するというニュースを聴いて私は、「これは非常に心配だな」と懸念した記憶があるのですが、いろいろと舞台上での不手際があったものの、それなりに一応の格好のついた演出になったのを観て、非常に驚いたことがあります。

 

考えてもみれば、本来「ばらの騎士」という作品の社会的文化的時代背景としては、爛熟した社会、つまりある文化圏(国/地域)において政治的、経済的、社会的発展の頂点に達したあと(つまり、ある社会的制度が完成の域に達する)、その頂点の峠を越えてやや衰退に向かうという時代.....そいうい時代に爛熟した文化(社会)が生まれる....そういう時代背景で成り立っている作品のように思います。ワイマール共和国については、いわゆる世紀末の時代が第一次大戦で一応のピリオドを打ったあと、19世紀後半の市民階級(ブルジョワ)の層が拡大し、いわゆる都市生活者という階層にまで「市民階級」というステイタスが拡大し、一気に文化芸術活動のエネルギーが爆発した時代でした。そして少なからぬ部分に退廃的な要素を含んでいた.....そういう時代背景を逆手にとってフリードリヒが「ばらの騎士」の演出の背景とした、こういう点はおもしろいと思いました。(さすがの彼も、100%をワイマール時代を背景とさせることはできませんでしたし、しょっちゅう舞台を色々といじっていたようです。)

 

また今回、私がベルリンのシュターツオーパーで観た演出、これは基本的に時代設定の変更はないものの、そこに現代人の孤独、未成熟さ、そういうものを垣間見せてくれた演出であり、私もそれなりに興味深く観ることができました。

これは la_vera_storia さんの 706 に対する返信です

 

マーラーとオランダ(音楽番外編)

2002/11/ 9 1:39

メッセージ: 721 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

オランダとマーラーの関係ではちょっと番外編になってしまいますが、マーラーがあのフロイトの診察を受けたのはオランダのライデン(Leiden)でのことだったはずですね。フロイトの側から漏れ伝わってくる情報によれば、マーラーがimpotentになったために診察が必要だった....という事情があるとのこと。

 

オランダはヨーロッパの中でも外国人に対して非常に寛容な国ですね。ただし難点は.....食事があまりおいしくないことだと思います。だいたいにおいて料理がうまい国というのはたいていカトリックの国ですね。オランダというのは、私の記憶では確か人口比ではプロテスタントよりもカトリックのほうが若干多かったはずですが、しかし社会的ファクターとしては「新教国」というイメージを対外的におしたてています。

 

オランダの港町ロッテルダムの隣町はベルギーのアントワープです(ちなみに反対側の隣町は国際司法裁判所のあるデン・ハーグ)。ロッテルダムからアントワープまでは車で1時間もかからないのですが、国境を越えただけで急にレストランの食事がうまくなるのが本当に不思議でした。ところが、このアントワープという街、議会は確か極右政党が第一党だったはずです。ヨーロッパの地方自治体の議会で極右政党議員の割合の一番多いのがアントワープだそうです。ちなみにフランスのマルセイユやニースも極右政党議員の数は多いですね。

 

このアントワープ街のあるベルギー北部、言語はフラマン語であり、オランダ語とほとんど同じですね。パリのオフィスにアントワープ生まれの女性がいましたが、彼女に言わせると、ベルギーのオランダ語(要するにフラマン語)は、オランダ本国のオランダ語よりも古い言い回しが残存しているそうです。これっていうのは、カナダのケベック州のフランス語のほうが、フランス本国よりも古い言い方が残っているのと似ていますね(といっても私はケベックの作家の本は読んだことがないですが。) ああ、それからJames Ensorというフラマン語圏生まれの画家の発音ですが、パリのオフィスのフランス人2人に読ませてみましたところ、異口同音に「ジャムス・アンソル」と発音していました。ただし<アン>にアクセントをつけていましたね。アントワープ生まれの女性の読み方は、「ハメス・エンソール」でした。 それからロシア語でのハムレット、私の耳では「ガムリェット」と聴こえましたが....。 bernardsstarさんの話題にしていたGの音ですが、オランダ語では「ヘ」の音ですね。Gentというベルギーの街も、現地では「ヘント」と発音しています。おもしろいことに一昔前のベルリン方言(ドイツ語)ではGuten Tagは<フーンターハッ>と聞えました。G/Hの音の対応、おもしろいものですね!

これは bernardsstar さんの 719 に対する返信です

 

クライン「子守唄」の歌詞解読(こじつけ)

2002/11/10 14:17

メッセージ: 722 / 1477

投稿者: bernardsstar

 

情報提供いただいた歌詞、一体、何語だろうと首をひねったのですが、まず、「イディシュ語」ではないと考えました。「イディシュ語」であれば、かなりドイツ語に近い構造をもっているはずですが、全く、ドイツ語らしいところはありません。「ヘブライ語」は難しすぎて小生の手に負えません。そこで、じっとこの歌詞を見つめていたら、もしかすると、スラブ語をごちゃごちゃにし、省略・訛りを加えたりして合成した文章(暗号)ではないか?という気がしてきました。以下は、小生の持っている、チェコ語、スロヴァキア語、ポーランド語、ロシア語の辞典、それに英語、ドイツ語の辞典の助けも得て(残念ながら、ウクライナ語・古代スラブ語の辞典は持っていません)、小生がこじつけた「bernardsstar流」の解釈です(信用しないでください)。

 

「それ(注:何かの女性名詞)のジュース、名の日のジュースは、しかしながら、(ユダヤ教の)改宗者に与えられるものである。しかし、ヨシュアがお食べになったものには、(エジプトの)ラー神の乳のことが述べられている。」

 

注釈をしますと、

sch’chaw は、チェコ語の「シチャーヴァ=ジュース」であろうと考えました。以下、全て小生の想像です。

bniのbは本来は、vかwであり、niは、何かの女性名詞の前置格。

imnuchaは、「jimeninyイメニーニィ(チェコ語)=名の日」。指小形かも?

alは、チェコ語の「aleアレ=しかし」。

na tiwは、na tych「taが複数前置格でtychに変化するのはポーランド語」 

maraは、ユダヤ教の改宗者です。

aljadcha = ale + jad + cha jadは「食べた」の意味の語幹です。

joschewetは、「ヨシュア」としか解釈できませんでした。

imchaは、(一番こじつけ度が高いですが)ロシア語の「Имется」(存在する)。

 

schomeret:ネットサーチすると、ローザ・エプシュタインというドイツ文学者に、この名の作品がありましたが、それ以上の情報はネットではわかりませんでした。スロヴァキア語に「ショムラート(ショムラーチ)=ドイツ語のbrummen, murren」という単語があり、独和辞典によると、「ブツブツ言う」という意味ですが、もともとの意味は経典の中で「予言」するという意味ではないかと想像しています。なお、イスラエルのキブツに「ショムラート(shomrat)」という名のキブツがあり、ホームページも出しています(要、ヘブライ語の読解力)。

 

mikoは、mleko(チェコ語などのスラブ語で「乳」)。

露和辞典によると、ラー(太陽神)は、格変化しません。

これは nx_74205defiant さんの 715 に対する返信です

 

第3帝国下のユダヤ人オーケストラ

2002/11/11 3:00

メッセージ: 723 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

なるほど....難しいですね...。 ただ私もbernardsstarさんのおっしゃられるように、これはイディッシュ語ではないと思います。イディッシュ語というのはドイツ語さえある程度わかれば、聞いていて意味がわかることも多いですね。クロード・ランズマン監督の有名な映画に「ショア」というのがありますが、この中でホロコーストの生き残りの何人かにインタヴューしたなかでイディッシュ語で答えていた人がいましたが、ある程度こちらも聴いていてわかるのですね。 さて、そうなるとやはりヘブライ語のように思いますが....。

sch'chaw b'ni sch'schaw bimnucha....

ヘブライ語の音のように思いますが。韻をふんでいるのでしょうかね。それからnx_74205defiantさんのおっしゃられるCDは以下ですね!

http://www.downtownmusicproductions.org/pages/coth01.html

Wiegenliedをaudio sampleで聴いてみましたが、不思議な美しさがあります。

 

第3帝国下でのドイツで、ユダヤ人文化同盟(Juedischer Kulturbund)のオーケストラとその音楽家たちについて、最近おもしろい本で出版されました。

The Inextinguishable Symphony - A true story of music and love in Nazi Germany (by Martin Goldsmith)

John Wiley & Sons,Inc. 2000

http://www.jewishsightseeing.com/books/goldsmith/the_inextinguishable_symphony/s d9-14-01inextinguishable_symphony.htm

という本で、とうとう邦訳が発売になりました。一気に読ませる本ですよ。

http://www.shc.co.jp/book/4-916199-44-8.htm

 

一方のポーランドでは、ワルシャワゲットー内においてもユダヤ交響楽団というオーケストラが結成されており、ゲットー内の映画館(Kino Femina)をホールとして使用してコンサートをやっていたそうです。あるコンサートのおり、少女がオケをバックにシューベルトのアヴェ・マリアを歌った時のことですが、「18歳の少女の歌うアヴェ・マリアの強くて透明な声はホールの壁を突き抜けて、聴いている私たちの上にあるはずの空にまで届いたようだった。聴衆は泣いた。私も泣きました。」と、Janina Baumanという女性は回想しています。

 

この映画館兼コンサートホールはワルシャワ蜂起のあとのドイツ軍のワルシャワ壊滅作戦のなかで当然破壊されてしまったのですが、戦後同じ場所(現在のSolidarnosci通り115 番地)に同じ映画館として再築されています。そしてその名前の戦前と同じKino Femina であり、ポーランド民主化前の社会主義時代にイスラエルフィルがバレンボイムの指揮で記念演奏会がこの映画館で行なわれたそうです。私も旧ゲットー地区をかなり歩き回った際に、このKino Feminaに出くわしましたが、あまりに粗末な映画館なのにビックリしました。以下に現在の写真があります。

http://www.webfeats.com/Poland/p100499/Dscn0082.jpg

http://www.femina.com.pl/kina/femina/foto.php3?picname=femina1.jpg

これは nx_74205defiant さんの 715 に対する返信です

 

ベルリンで聴いたアルバン・ベルク (1)

2002/11/12 23:49

メッセージ: 724 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

ベルリンのジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt)....この広場に立つといつも特別の感慨を持ちます。かつてこの場所は東ベルリンでしたが、私が最初に訪れた70年代半ばには、戦争の傷跡が実に生々しく、まるでドイツ敗戦は昨日のことだったのかという錯覚すら覚えたほどでした。あのカール・フリードリヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel)設計のシャウシュピールハウス(Schauspielhaus)も破壊されたままの無残な状態で、その外壁の彫刻の残骸が広場にころがっていたし、ドームの上部も破壊の痕跡を生々しく残していました。あたり一体に人の気配すら感じられないこの広場に立つと、寒々とした気持ちになったものでした。その後の80年代半ばのDDR時代に、このシャウシュピールハウスは再建され、2つのドーム(Franzoesischer Dom, Deutscher Dom)も修復され、ドイツ統一後は付近にホテルやレストランもぼちぼち現れ、現在はベルリンの名所のひとつとなっています。(以下、現在の様子を御覧下さい)

http://berlin1.btm.de/infopool/jsp/d_sw_gendarmenmarkt.jsp

以下でこの広場の変遷を絵葉書で御覧になることができます。

http://www.andreas-praefcke.de/carthalia/germany/berlin_schauspielhaus.htm

 

さて、現在はコンツェルトハウス(Konzerthaus)と名を改めた旧シャウシュピールハウスでドイツ統一記念日の前夜(10月2日)、ベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester)のコンサート(Konzert zum Tag der Deutschen Einheit)で前半にアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲(「ある天使の想い出に」)を聴きましたので、私の当夜の印象を書き込みたいと思います。 当夜の指揮はエルアフ・インバル(Eliahu Inbal)、ヴァイオリンはドミートリ・シトコヴェツキー(Dmitri Sitkovetsky)。尚、後半のプログラムはショスタコーヴィチの第5交響曲でした。 (実はこのコンサートの前に Friedrichstrasseをぶらぶら歩き、ある本屋で一冊の本を見つけ、その本をちらほら立ち読みしましたが、その本の記載のことがどうしても当夜のコンサートの間中、頭から離れませんでした。このことは次回投稿で触れます。)

 

さて、当夜のベルクのヴァイオリン協奏曲の演奏、まったくもって見事なものでした。まず感心したのはインバルの指揮。かつてのこのオーケストラからは考えられぬくらい、各パートの解析度が鮮明であり、遅いテンポで細部にまで注意を払っているのがよくわかりました。マノンの描写である前半部分からして音が非常に透明であり、その後のいわゆるオーストリア的な雰囲気の漂う部分では、各パートを自由に遊ばせ、のびのびとした演奏。かつての彼よりも指揮振りはやや簡素になっているものの、要所の指示はむしろ細かいという様子です。曲の後半、いわゆるマノンの病気と死の表現、不協和音で始まる箇所ですが、これがまた冷徹にしてかつ充足しているといってよいか、迫力はあるものの誇張には感じられない。ですから、この後のコラールから終結部分までの美しさが一段と映えたように感じました。それにしてもこのオケ、かつてはこれほどまでに透明で美しい音は出していなかったと記憶しています。 さて、ヴァイオリンを弾いたシトコヴェツキーですが、これが非常に線の太い演奏でしたね。バックのインバルの指揮が終始、精密かつ洗練された音楽を奏でているのに対し、シトコヴェツキーのヴァイオリンは「現世的」というかなんというか、いわゆる音の表情の変化が感情と共時的というか....前半の「マノンの肖像」と後半の「病と死」を一本の太い線でつないでいました。ですから通常の演奏は、前半部分の生前の若く美しいマノンが後半は病んで死に至るというドラマであるのに対し、当夜の演奏ですと、すでに前半の生前のマノンの姿にすでに死が投影されている....という表現として聴こえてきました。飛躍して考えてみればベルク自身が無意識的に、自己に迫りつつある死と、少女マノンの死を重ね合わせている...などとも考えたくなってきます。

 

休憩時間に2層のテラスに出ると、暗くなったジャンダルメンマルクトでは、誰かがサックスを吹いていました.....。 冷気にあたりながらその音を聴いていると、私の頭の中では、しきりと4つの単語が繰り返されます。

Frisch, Fromm, Froehlich, Frei,.......    (次投稿へ続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ベルリンで聴いたアルバン・ベルク (2)

2002/11/13 0:39

メッセージ: 725 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

(前投稿から続く)  さて、このコンサートの後半のショスタコーヴィチの第5交響曲も大変な名演奏であり、いたく感心してしまったのですが、トピの範囲を超えますのでここではいっさい省略します。

 

アルバン・ベルクという人は、作品の中に過去のいろいろな女性との想い出を作品の中に隠しているというのは、かつてからよく知られた話です。例えば、「抒情組曲」(Lyrische Suite)では、人妻ハンナ・フックス=ロベッティン(Hanna Fuchs-Robettin)との愛の想い出が封印されているということがアメリカに在住していたハンナの娘の所有していたスコアのベルク自身の書き込みの内容から完全に明白となったケースは有名です。そしてこのヴァイオリン協奏曲、これも単にアルマ・マーラーの娘のマノン・グロピウスの死を悼んでのレクイエムという単純な話ではないことが、かつてから言われていましたね。この作品にもハンナとの愛の想い出が反映しており、それはベルク(23)、ハンナ (10)という数に反映されており(たとえば、第1部最初の10小節はアンダンテ導入部であり、第2部アレグロにおける23小節目は運命のリズムであり、そしてこの作品は10 x 23 = 230小節で終わるとか)、また彼の初恋の女性であるマリー・ショイヒル(Marie Scheuchl)の影もちらほら見える....などということです。作曲家というものがこういう形で、過去の想い出(それもあまり公にできない恋愛関係など)を作品に反映させ、かつ封印してしまうという心理はよくわかる気がします。

 

ベルク自身この作品についてはマノン・グロピウスの死 (1935年)以前より構想を持っており、その最初の構想ですでに2部分からなる構成を考えていたようです。しかし、J.S.バッハのコラール(Es ist genug)を使用しようと思ったのは、比較的後の段階のようですね。しかしこの最初の構想段階で、驚くべき事実があるようです。私がベルリンでこのコンサートの前に本屋で立ち読みしたその本の以下の記載は本当に事実なのか(以下、私がベルリンでこっそり書いたメモをで再構成)....?

ベルク自身このヴァイオリン協奏曲を構想した段階で、彼は日記にこのコンチェルトの構想をしたため、さらにFFFFというイニシャルを書いているとのこと。そしてその日記にさらに、<Die 4 Satzen : Frisch, Fromm, Froehlich, Frei>と書き残しているそうです。そしておおまかな枠組みとしては、音楽の進行を逆転させて以下の構想は維持実現された.....。

Frisch   Fromm  Froehlich  Frei

  W     V     U     T

     (Chorale)  Laendler  Andante

そしてこのFrisch(清潔な)Fromm(敬虔な)Froehlich(快活な) Frei(自由な)...この4語こそ、あのドイツ体操の父といわれるフリードリヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)を始祖とするドイツ体操協会(Deutscher Turnverein)の標語であり、かつ同時蔓延していたナチが奨励していた標語でもあったという事実....。 ベルク自身がナチに親近感を持っていた可能性さえ否定できず、こういう4語を何らかの形で自作にもち組むことによって、第3帝国下で自分の作品が演奏されるように画策した....(シェーンベルクがベルク未完の歌劇「ルル」の補作完成を断ったのは、「ルル」にanti-Semitismの臭いを感じ取ったからだ、という話があります)。やはりベルクといえども、機会主義者だったのか、という疑いが出てくる....。これはダグラス・ジャーマン(Douglas Jarman)という人の説ですが、しかし本当かな?この順番を逆転させているから、最終的にはこれはナチに対する拒否(rejection)なのだ、などという解釈はちょっと甘いのではないか?  しかしどうも気になるところです。そういうことが頭から離れないままコンサートに行って、実際にこの曲にあらためて接してみると、謎が謎を呼ぶ曲であるという感じはやはり残りますが...。

 

(2002年10月2日 於ベルリン ジャンダルメンマルクトのコンツェルトハウスでの演奏会を聴いて)

これは la_vera_storia さんの 724 に対する返信です

 

ありがとうございます。調べてみます

2002/11/13 1:25

メッセージ: 726 / 1477

投稿者: nx_74205defiant

 

皆様,謎の言語についてありがとうございます。今日、区立図書館からイディッシュ語とヘブライ語の辞書が入荷したとの連絡が入ったので,明日借りて調べてみます。

ドイツ語の歌詞はついているので,意味はそちらから調べればおおよそわかるとは思うのですが,やはり単語一文字ずつの意味がわからないと歌えないので。

la vera storia様,唯一の歌入りとはまさにリンク貼ってくださったCDです。

ただいま個人輸入で届くのを待っている状態です。ライナーに何か書いてあるといいのですが。

これは la_vera_storia さんの 723 に対する返信です

 

ポリーニの弾く新ウィーン楽派を聴いて(1)

2002/11/14 2:49

メッセージ: 727 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

今夜(13日夜)、マウリツィオ・ポリーニのピアノソロリサイタルに行ってきましたが、そこでヴェーベルンとシェーンベルクの曲が演奏されましたので、それについてレポートいたします。演奏されたのは、前半のプロのうちヴェーベルンは「ピアノのための変奏曲」op.27、シェーンベルクの曲はアンコール最後の「6つのピアノ小品」op.19でした。

 

さて、ポリーニといえばかつてより新ウィーン楽派、そして戦後の現代曲の演奏を得意にしているのですが、昨今のポリーニは好不調の波がかなりあり、その点は今夜も気がかりでしたが、少なくとも今夜のヴェーベルン、シェーンベルクに関してはそうした不安を感じさせることはありませんでした。まずヴェーベルンですが、ピアノの音そのものの純度がすばらしく、光の輝きと濃い影が交差した独特の世界が見事に提示されていました。この曲そのものは1936年、 Anschlussの2年ほど前の作曲であり、ヴェーベルンがその初演をたよりにしていたエドゥアルト・シュトイアーマン(Eduard Steuermann)はすでにアメリカに去っていました。アルバン・ベルクは前年すでに亡くなっており、シェーンベルクもアメリカに去っていた当時としては、オーストリアという場所における新ウィーン楽派の最後の輝きを体現している曲の一つかもしれませんね。

 

アンコール最後でのシェーンベルクのop.19ですが、この作品は以前からポリーニはよくステージで弾いており、私も彼のピアノでこの曲を聴くのはこれで何度目になるか。今夜は大変に珍しいことに、ポリーニが自分で聴衆に曲名を告げてから演奏しました(私の体験からいっても、ポリーニが曲名を告げてから演奏に入ったのを体験したのは初めてです)。今夜のアンコールでのop.19の演奏は、以前の彼の演奏と比較すると全体に静かな演奏だったと思います。聴いていて思ったのですが、だいたいピアノに限らず小品を集めて一つの作品にする場合には、普通は1ダース(12)もしくは半ダース(6)という数でまとめるのが普通ですよね。この op.19もその例外ではありません。しかしシェーンベルクはop.23(5つのピアノ曲)では5曲で一つの作品にしています。考えてもみれば当夜の op.19は、最初の5曲が一気に作曲されており、最後の1曲はマーラーの死の直後、シェーンベルクがウィーンでのマーラーの葬儀に出席した際の印象で作曲した.....こういう事実があります。ですから、もともとop.19もop.23と同様に5曲でひとかたまりの作品にする予定だったのかもしれません。しかしマーラーの死という事態によって当初の予定を変更し、6曲目を作曲したのかもしれません。しかし.....どうもひっかかりますね....。今夜のポリーニの静けさの漂う(非常に無気味な瞬間さえあった!)演奏を聴いていると、ひょっとして最初の5曲の作曲(1911年2月19日だそうです)時点ですでにシェーンベルクにはマーラーの死を予感した虫の知らせがあったのではないか? マーラーはその2日後の2月21日にNYで指揮台から降りた後(これが生涯最後の指揮だったはず)、重病となりパリを経てウィーンに運ばれたあと、5月18日に亡くなっています。そしてシェーンベルクは6曲目を6月 17日に作曲しています。今夜のポリーニの演奏を聴いて思ったのは、この6曲は全てマーラー追悼の意味を持っているのではないか、というような印象を受けました。全6曲すべてに「死の影」と「喪失感」を感じたのは、私は今夜が初めてでした.....。 今思い出したのですが、確かはポリーニはカラヤンの死の直後のザルツブルク音楽祭のリサイタルの冒頭で、「カラヤン追悼」ということでこのシェーンベルクのop.19を演奏していたはずです。その時は6曲を全部弾いたのだったか、それとも6曲目だけを弾いたのだったか、よく覚えていません。確か私は車の運転中に、このリサイタルをORFが放送したのを聴いた覚えがありますが.....。

 

さて、今夜のリサイタルであと素晴らしかったのは、前半に演奏されたシュトックハウゼンの「ピアノ曲 X \」の2曲でした(彼は新ウィーン楽派ではありませんが)。これが今夜の白眉でしたね。簡単に言ってしまえば、「音のない部分における雄弁さ」とでも言ったらいいでしょうか。ポリーニのピアノでシュトックハウゼンは何度か聴きましたが、こういう「沈黙の雄弁さ」を感じさせてくれたのは今夜が初めてでした。

(続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

ポリーニの弾く新ウィーン楽派を聴いて(2)

2002/11/14 2:52

メッセージ: 728 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

(前投稿より続く)

さて、もうこの際ですからトピ主様の御寛容を頂戴いたしたく、ついでに今夜のリサイタル全てについて印象を書かせて下さい。

 

最初はブラームスの「幻想曲集 op.116」からコンサートが始まりましたが、ポリーニはピアノの前に坐ると同時に猛然と弾き始めました。この曲集は全部で7曲からなり、ブラームス最晩年の作曲(1892年)なのですが、演奏会で取り上げられるのは比較的少ないのではないでしょうか? 私の感じでは、この曲集は第6曲目を除けば、比較的に「最晩年臭」が少ない曲なのではないかと常日頃思っていました。今夜の演奏では全体として響きが曇り気味であるように思いましたが、これはブラームスの書法自体に、どうも音の重なり方の重複のために響きを打ち消しあっているような箇所があるようで、ポリーニの責任ではないように思いましたが。 しかしそれにしても、1892年の作曲とはいっても、このブラームスに「ウィーン世紀末」の雰囲気は皆無ですね。あくまででもブラームス自身の内面世界を覗くだけであり、外に発散するような音楽ではありませんね。「世紀末芸術」の少なからぬ部分は、外への発散というものがあるのですが.....。

 

このあとはヴェーベルン、そしてシュトックハウゼンでしたが、それらについては前投稿で書いた通りです。休憩後の後半はベートーヴェンのピアノソナタ嬰へ長調op.78、最後はピアノソナタへ短調op.57「熱情」。  さて、この後半のベートーヴェンですが、少々私にはわからないことがありました。まず op.78ですが、非常にサラリと弾いていましたし、そしてかつてのような強弱の大きな対比は影を潜めていました。また、op.57なのですが、非常にびっくりしたのは、あの「運命の動機」というものをまったく強調していない弾き方だったことです。(あえて、故意に控えめに弾いた?) さらにop.78 の演奏と同様に、音の強弱に幅がかつてほど大きくなく、全体に流して弾くというような感じさえありました。大きなルバートをかけた箇所があったのも意外でした。かつての彼にはなかったことですね。なにか今夜のような弾き方の行く末は、まるで墨絵のようなベートーヴェンの世界を目指しているかのような印象を受けました。ただしかしその一方、op.57の第2楽章から第3楽章への移行部では、爆発的な音量でピアノを鳴らしていましたが、そこだけ爆発したのはちょっと不自然のように感じましたが。 演奏に数ヶ所の疵はありましたが、さほど取り立ててどうこう言うほどのものではありません。Op.57などは、さすがにそれなりに盛り上がりましたし、さすがにポリーニだと思わせるものもあったのですが...。

 

私がちょっとひっかかった点は、ポリーニという人がいったいどういうベートーヴェン像を描いていて、どういう目標を持って弾いているかということが今1つわかりませんね。私はポリーニのような(少なくともかつての)、比較的カッチリとしていて硬質なベートーヴェンは割と好きですが、しかし彼ももう60歳ですので、年齢を重ねるにつれて新しいベートーヴェンの世界を聴衆に開示してほしいような気がします。ミスタッチ(wrong notes)がどうのこうの、音量がどうのこうのという議論は私はあんまり興味がありません。仮に肉体的な条件が問題になってくるようになれば、それを逆手にとる弾き方というものがあるはずです。たとえばクラウディオ・アラウなどはそういう点は実に巧みでした。逆にそういうものを表現の一部に取り込んでいましたね。

 

ポリーニはアンコールのベートーヴェンのバガテルを2曲弾いていましたが、年齢や経験の蓄積という要素はあまり感じません。弾き方はともかく、表現は若い時と同じです。考えてもみれば、ベートーヴェンという人は現在のポリーニの年齢(60歳)の時にはすでに死んでいました。ポリーニには、もっと年齢や経験を踏まえた、一段高い音楽を望むのですけれどもね。 とかなんとか言って.....でも結構楽しめたコンサートではありました。

(2002年11月13日 於 東京 サントリーホールでのポリーニ・リサイタルを聴いて)

これは la_vera_storia さんの 727 に対する返信です

 

 

アップ

2002/11/16 23:37

メッセージ: 729 / 1477

投稿者: gur1zem2korn3

 

ご無沙汰してます。

グルリットと歌劇「北欧のバラード」に関連して、シェーンベルクの北欧文学への関心について(ストリンドベルイ、ラーゲルレーヴ等々)、そのベルクへの影響について調べてみようと思います。

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です

 

世紀末ウィーン初演のフランスオペラ(1)

2002/11/17 4:40

メッセージ: 730 / 1477

投稿者: la_vera_storia (男性/beati possidentes)

 

「......当時の社会が望ましいとした若い女性の生き方とは以下のようなものだった。すなわち、間抜けで学問がなく、躾はあるものの無知で、好奇心はあるが恥ずかしがりやで、きっぱりとしたところがなく....(中略)....世間についての知識は当初よりなく、結婚にあたっては自分の意志を持たず、男の考えに従い、彼が希望するように躾けられることであった」(シュテファン・ツヴァイク「昨日の世界」より)

 

ツヴァイクの書いている内容は、19世紀末のハプスブルク帝国におけるブルジョワ中産階級に属する女性の生き方についてですが、これは別にハプスブルク帝国に限らない話であったに違いありません。しかし、あの精神分析で有名なフロイトの考え方の中心部分で、「性的欲求」、そしてそれに対する「抑圧」とが人間の行動一般を支配しているという考え方を育んだのが世紀末ウィーンであったことには興味深いと思います。そういう世紀末の雰囲気の濃厚なウィーンで1892年(つまりブルックナー第8交響曲初演の年)に帝室歌劇場(Hofoper)で初演されたオペラがあります。 それはあのドイツの文豪ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」(Die Leiden des jungen Werthers)を原作として、フランス人のジュール・マスネ(Jules Massenet)の作曲した「ウェルテル」(Werther)です。 そして初演の結果は成功だったのでした。 当時のHofoperの聴衆のうちどの程度が女性だったかわかりませんが、しかしこのオペラの登場人物であるシャルロット(主人公ウェルテルの恋人)の生き方を観て、当時のウィーンのブルジョワ階級の女性聴衆はかなりの共感を抱いたのではないでしょうか。

 

しかし.......私がついこの間の10月初めにベルリンのドイッチェオーパーで観新演出(Sebastian Baumgarten演出)の「ウェルテル」.....この演出と、初演当時のウィーンの社会道徳との隔たりの大きさ.....非常に驚くべきことだと思います。衝撃的な演出というのは現在ではどのオペラ作品の上演にも行なわれることであり、そういう意味では今回の「ウェルテル」の演出も、そのうちの一つにしか過ぎないかもしれません。しかし、こと原作があのゲーテの「若きウェルテルの悩み」である、という点で、通常の衝撃度以上のものを感じさせたようです。どういう点に今回の「ウェルテル」演出の新しさがあったのか.....?

 

最初に総括してしまいます。 本来この作品(原作)の大きなテーマの一つは、ウェルテルが自身の「内的規範」(道徳的規範)というものの重圧と葛藤するが、結果としてそれに押しつぶされてしまう、という点にあるはずです。 人妻となってしまってもシャルロットを愛し続け、ウェルテルが彼女と結ばれたいと願っても、それはシャルロットにとっては不倫でしかありません。駆け落ちできない、というのはあくまでもウェルテルの「内的規範」が禁じているといっていいでしょうね。 ところが今回のバウムガルテン演出というのは、この登場人物相互の関係を、そういう規範によって縛られた関係ではなく「刺激と反応」というものに置き換えてしまったようです。それらを全て、一種の「明示主義」によって舞台上に展開させています。以下に若干の例を挙げます。

 

第3幕にてウェルテルは、人妻となってしまったシャルロットに対して、<Je t'aime !>と繰り返して愛を求めます。シャルロットは彼の愛を受け入れる寸前で思い留まるシーンですが、このウェルテルの求愛は全てがシャルロッテに対する性的欲望として演出されていました。「愛 = セックス」という非情(?)なまでの演出! こういう性的欲望を最後に拒絶するシャルロットは、要するに自分が人妻だから拒絶するのではなく、今セックスをやりたくないので拒絶するにすぎません。シャルロットがウェルテルの愛をとりあえず受け入れる、ということはこの演出ではシャルロットが両脚を開きウェルテルがその間に乗りかかるという動作以外の何物でもありません。そして最後のところで拒絶するというのは、性行為の最終段階(さすがに私はこれは書けません)に至って、「彼から離れる」という具体的動作によって示されています....。(続く)

これは bernardsstar さんの 1 に対する返信です