Critique for Urban Landscape

 

since 10th August 1999

「武蔵中原=ウィーン」説の検証のために

 

鴨志田〜三輪緑山〜岡上〜玉川学園

横浜市青葉区の鴨志田公園から、寺家ふるさとの森を通って歩き、尾根歩きや、あぜ道歩きのミニ体験をするのは楽しく、しかも都会に近いことを忘れさせるほどの広がりをもった一帯だ。さらに、町田市の三輪緑山地区に歩き進む。この計画的に建設され、また、恐らく厳しい取り決めによって住民自らが律しているであろうこの地区は、さしずめ、サウスフィールズ&ウィンブルドン(ロンドン近郊)の雰囲気。

TBSの緑山スタジオを見下ろす尾根道がある。恐らくこの屈曲した道は、鶴川街道(真光寺長津田線)の旧道で(古地図で確認の要あり)、今は自転車・歩行者(+ペット??)のみが通れる散歩道になっている。カネをかけてきれいに整備されている。自動車・オートバイの通行をかつては許していたが、今は排除されているものと推察される。

町田市三輪緑山から、新道の交差点を西側に渡り、複雑に市境の入り組んだこの一帯を歩くのが、もっとも楽しいひとときだ。横浜市青葉区緑山と川崎市麻生区岡上(飛び地)の境界が尾根道になっていて、この尾根道から岡上の方向を見渡すと、広い範囲で市街化調整地区の畑・果樹園・緑地となっているので、都心からほど近い場所とはとても思えない、とても豊かな緑の原風景。小生のこれまでの東京近郊散歩体験からいってもベスト1の風景だ。かなたの地平線は、多摩ニュータウン方面の里山の緑。そして、地平線は水平ではない、丸い!と感じるほどの開かれた視野がある。かつて、プラハのカレル橋たもとから眺めたマラー・ストラナの風景を、わざと地平が曲がった形状に描き、その絵を丸めるとコーヒーカップになるようなものを仕上げたことがあった。この岡上の風景からは、地平を曲げて描くことは間違いではなく、むしろそちらのほうが正しい!という確信をもつことができる。

その尾根づたいにさらに西に歩くと、再び町田市の領域に入る。尾根の豊かな緑の森の中に玉川学園がある。自然環境の面では最も恵まれた学校ではないだろうか?小田急電車に乗ってこのあたりを通りすぎているだけでは知ることのできない、都会の中の桃源郷だ。

(05年5月8日)

  

世田谷代田

下北沢の尾根への斜面に寺院があり、その墓地の敷地をかすめるように建設された環状7号線。この道路はまさにこの尾根を切り裂いており、その掘割構造のところに小田急線の鉄橋がある。小田急は、梅が丘まで複々線の高架線としてリニューアルされており、世田谷代田近辺も、いずれ上下2段の地下方式複々線となることにより、沿線風景が一変することになっている。そのせいで、世田谷代田の現駅には新規投資されず、「昭和」の残り香といった趣だ。寺院から住宅街の中を抜けて、駅に至る道沿いも、「昭和」の中に、ぽつぽつと「平成」風の住居が散らばるといった感じだ。

環状7号線の騒音さえ気にならなければ、井の頭線の新代田駅から世田谷代田駅に向かって歩くときには、何かを感じさせるものがある。井の頭線の東松原駅から羽根木公園を抜けて、新装なった梅が丘駅に向けて歩くときのいい感じとはまた違うけれども、悪くはない散歩道だ。

(05年4月10日)

 

アブダビ、ドゥバイ・・・2都物語

アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビと、ドゥバイ(ドバイ)。近年、とみにドゥバイが意気盛んで、アラビアンタワー(Burj Al Arab)やメルカート・モールが象徴するようなゴージャス、ラグジュアリアスな雰囲気で何歩もアブダビをリードしている(ように思われるが・・・)。でも、生活に便利で、低料金のタクシーで気軽に市内を移動できるアブダビのほうが好きだ。

UAEに自分自身の事務所を持つとすれば、たぶん、アブダビにするだろう。

ドゥバイは、旧市街の南西方向の海岸線沿いに豪華・ハイテクを極めたアメリカ的な街作りを進めている。それはアメリカの都市のもつ欠点(マイカーによる移動が不可欠)を内包しながらの発展(とも言える)。

UAEには現在鉄道はなく(ドゥバイで、都市内輸送目的の新鉄道を建設中)、アブダビ、ドゥバイ間の移動は、マイカー・レンタカーか、小型のバスを使う。バスの料金は不思議なことに、アブダビで乗車すると20ディルハム(約600円)、ドゥバイで乗車すると33ディルハム。約2時間の乗車になる。

アブダビ、ドゥバイ間の片側4車線ハイウェーを走るバスの車窓〜果てしなく続く平らな砂漠〜を見ながらイメージしたBGMは・・・、八神純子の80年代前半のカセットから、「You&I」「Naturally」「シークレット・ラブ」「1年前の恋人」・・・。砂漠と、真っ直ぐに伸びるハイウェーがUSAを思い起こさせ、また、バスを追い抜いていく車の多くが日本車のロゴを見せながら走り去っていくことが、80年代の「東京近郊」でのドライブを思い出させた。

(04年5月23日)

 

ヴィリニュス(VILNIUS)

初めて訪れたリトアニアのヴィリニュスとカウナスの印象は・・・小生のこれまでの旅行の中でベスト! いま、「リトアニア ページ(Lithuania Page)」を、この「美しき南武線と中欧」HPの中に開設しようと考えています。

これほどまでに美しい建物の街区をもった都市で暮らすコストは本当に安い。チェコの「シュコダ」製のトロリーバス(ワンマン運転。女性運転手のときもあります)はどこまで乗っても1リタ(約35円)。一般のバスは女性車掌が乗務していて、0.7リタ(以上、03年9月、ヴィリニュスにおける現況)。(トロリーバス路線はシベリアの諸都市にも数多くあるらしい。はまってしまいそう!)

それに反して、日本の中で「首都感覚」を味わえる、「千代田区」「港区」で生活するコストって、なんと高いことでしょうか?定年後は可能ならヴィリニュスに住もうかな?って、考えてしまいます。

リトアニアの詳細は、将来開設する「リトアニア ページ(Lithuania Page)」に記載しようと考えておりますが、ひとつ申し上げておきたいことは、ヴィリニュスの本屋で買ってきたCD「Pasokime! 2」(「ジャンプしよう!」という意味。sの上にはチェコ語のように特殊記号「v」がつきます)に収録されていた2曲が印象的(日本人好み)だったこと。

10曲め、IRMA(イルマ。女性歌手)が歌う 「Laiko kalendorinai」 (リトアニア語にちょっと自信がありませんが、多分、「カレンダー通りに」という意味)。2003年の新曲。日本的というより、中国的と言えるメロディーライン。

15曲め(サービス曲)、男女コンビの、GINTARE JAUTAKAITE (ギンタレ・ジャウタカイテ。女性。Eの上には特殊記号「・」がつきます)と、ARVYDAS NAVIKAUSKAS (アルヴィダス・ナヴィカウスカス。男性)が歌う 「Kregzdutes, Kregzdutes」 (クラグジュドゥテス、クラグジュドゥテス 「つばめよ、つばめ」 zの上には特殊記号「v」が、2つめのeの上には特殊記号「・」がつきます)。1973年の曲らしい。切ないメロディー。ギンタレの高音の歌声が素敵でした。

(03年9月21日)

成田&佐倉

成田方面に初詣に行った。京成電鉄の宗吾参道駅で降り、今回の主目的ではなかったが、宗吾霊堂(真言宗)を初めて訪れた。宗吾は江戸時代の聖人だ。ここでは詳しくは書かないが、この記事を御覧になった方は実際に訪れてみることをお勧めする。このような霊堂を建立し、霊をなぐさめ、遺徳を称えるのは当然であり、(ヨーロッパでは、聖人を音楽で称えるのはごく普通のことだが)歌劇「SOGO」が作曲されていいのでは?と考えた。

次に、成田市台方の麻賀多神社を訪れた。麻賀多の語源には諸説あるようだが、私としては、古代インドの「マガタ王国」が語源と考えたい。この神殿の紋は「六芒星」だ(この眼で確認した)。神殿の左側には関東一の杉の大木、右側には「天之日津久(あめのひつく)神社」がある。(*)

そのあと、伊都許神社、(成田市船形の)麻賀多神社を経て、成田市街まで行き、(実は私にとって初の参詣になるのだが)成田山新勝寺を訪れた。本殿付近は大変な人出。でも境内は大変に広く、本殿・参道以外の一帯には散策するにも十分なゆとりがあった。光明堂付近から成田山公園の窪地越しにながめた「平和の大堂」の景色は、とても感慨深く、青空(成田空港を飛び立った飛行機が浮かぶ)をバックに雄渾な姿を見せていた。写真ではとてもそのイメージを表現できるものではなく、実際に見るのが一番なのだが、いずれ、(小生の画力で表現できるか心もとないが) 絵として結実させてみたいという気持ちになった。

そのあとで、佐倉へ。この街は、これまでは、成田空港を利用して海外旅行する際に、京成電車の快速<>特急の乗り換えでホームに降り立つ程度だったのだが、街に出て、まずは、旧川崎銀行佐倉支店(大正7年築)をエントランスホールとした、佐倉市立美術館の威容に驚く(現代建築とネオルネサンス様式の融合か?)。次に訪れた(佐倉の)麻賀多神社は、神殿の紋は「六芒星」ではなく、「三つ巴」だった(この神社のことを解説している、ある本に記載ミスがある)。その後、佐倉城址公園を経て、国立民族歴史博物館(年末年始のため休館中)へ。佐倉城は、江戸時代初期に土井利勝が築いた城で、明治維新後に建物はことごとく破壊され、太平洋戦争が終わるまでは、軍が施設として占有していたとのことだ。実にもったいないことをしたものだ。恐らく、何らかの理由で明治政府は佐倉の栄えある歴史を破壊したかったのだ。もし、城を核として佐倉が繁栄し発展し続けていたとしたら・・・、千葉県全体のイメージも大きく変わっていたのではないかと思える。浚渫工事により、(利根川から印旛沼、鹿島川を経て入港した)外洋船を城の出丸のところに接岸させることも技術的に可能だったはずで、もしそのように歴史が動いていたらこのようになったであろうという華やかな光景(東洋のベニス?)を想像するといとおしくなる。この鮮やかに彩られた「想像画」をいずれ描いて、このHPにアップロードしてみたい。

(*) 「以前のコンテンツ」に記載している「三浦半島=イタリア半島」「東京湾=地中海」説の発展で、「成田 or 佐倉=エルサレム」と考えてみたい。

  (03年1月2日)

 

墓地

何故、墓地は嫌われるのだろうか?特に、不動産を購入するときに。静寂でいい場所のようにも思える。ウィーン、プラハなどでは観光名所になっているではないか?東京&近郊においては、青山墓地、谷中霊園、外人墓地(横浜市・中区)などのファッション化した場所を除いて、墓地は基本的には「嫌われ者」だ。

「生あるものは滅す」。誰もがいずれは「お世話」になり、収納される場所として、墓地が都市の一光景として認知されたときに、「東京&その近郊」は初めて、成熟した都市として世界から認められることになるのではないか?   (02年9月28日)

 

表参道

「太陽の季節ビル」とでも呼びたくなるような原宿のビルを見たのち、表参道の通りを歩く。久しぶりに。変わっていないものは変わっていないし、変わっているものは変わっている。少なくとも、ダイヤモンドホールのビルは、明治生命のビルになっていた。表参道の交差点から遠くないところに、青山善光寺の伽藍があることに初めて気がついた。東京&近辺に何十年も住んでいるのに、これまでこの寺の存在に気がつかなかった。この寺の境内から墓地の向こうに、アニヴェルセル表参道の、アール・ヌーボー風の寺院(チャペル)を見るとき、これが本当の「表参道」なのか?と、思った。これこそが、ラフナニノフのチェロソナタの第2楽章・第2主題を聴くときの感慨(憂愁)と通じるものがある光景だった。この寺の伽藍は改築予定という。改築されたあと、どのような姿になるのかは、知らない。   (02年8月24日)

 

 

駒沢大学駅の周辺

目黒区、東が丘の住宅地の方向から、東急・田園都市線、駒沢大学駅に向かって歩いていくと、中々ここちよい気分にさせる。246号をはさんで反対側の弦巻1・2丁目の近くも、感じのよい一帯だ。ただしこの駅(地下駅)の周辺は少々ごみごみとしている。駅に下っていく、上部が開放された階段からのアプローチがある、マクドナルドの店舗だけが、唯一、洒落た感じを与えてくれる。「マクドナルド・シンフォニー」なる曲を作曲してみたい!この店に入った瞬間に湧き上がったこの願望・イメージが、僕のライフワーク候補をもうひとつ、ふやしてしまった・・・。     (02年7月28日)

 

川崎市・浮島

無味乾燥の化学コンビナート。一般的常識から言ったら、「美しい都市景観」の範疇には属しない場所だろう。しかし、つい最近、羽田空港のターミナルビル屋上から、次々と降下・着陸してくる旅客機を眺めていたときに、多摩川の河口部の対岸に続く「浮島」のプラント群が、中欧の古都市の尖塔にも似て、それなりに「美しい景観」をかもしだしているという「錯覚」(?)にとらわれたのだった。ブルタヴァ川の景観をもとに作製した立体絵画と同じものを、この浮島−多摩川河口部で作り、その意味を理解されることができたとしたら、新しい美を発見したということできるのではないか?    (02年6月24日)

 

東京(明治時代)

3月、川崎市民ミュージアムで開催されていた、「明治の版画 ― 岡コレクションを中心に」を見に行った。これらの版画が描かれた当時の東京は何と美しい都市であったのか!というのが率直な印象だった。特に、中島石松画の「東京名所 新橋より銀座街を望む夜景(1901)」の、(現在の博品館あたりか)アールヌーボー様式の建物が「何か」を主張しているように感じられた。    (02年4月21日)

 

鳩ヶ谷

埼玉高速鉄道の「鳩ヶ谷駅」は街外れにあり、旧市街はそこから東に歩いて10分弱の位置にある。江戸時代からの宿場街だが、川越のように保存状態の良い古い建物が集積していないため、観光客を呼び込むのにはやや力不足という印象を受ける。ただ、俗化・高層化はまだ進行していないので、古い街並みの保存・再生は今からでも間に合いそうだ。由緒のある神社、仏閣であり散策に好適なのは、氷川神社と地蔵院(真言宗智山派)。そこで発見したのは、参道の中心軸と本殿の中心軸とが一致していないのが、日本的な控えめな社寺の建築様式なのでは?という仮説だった。

旧市街の中心は、「郷土資料館」だと言っていいだろう。「鳩ヶ谷宿」の展示もさることながら、鳩ヶ谷の生んだ2人の偉人、小谷三志(不二道の指導者)と大熊氏広(近代彫刻の先駆者)の展示は、ぜひとも立ち寄ってみる価値のあるもの。特に大熊氏広の作品(国立博物館のライオン像など)は、小生には、高村光太郎の作品群よりもずっと好ましく、価値のあるもののように思える。   (02年2月24日)

 

 

武蔵新城

南武線の高架駅から降りると庶民的な商店街の街。中央線の「高円寺」や「西荻窪」に似ていると言われるかも知れないが、駅からだだっ広い平地が続き、そこに家々が密集している「高円寺」、「西荻窪」と異なり、新城は、北の方角には多摩川べりの散策地があり、南・南西方には日吉や久末、橘(影向寺の辺り)の丘陵部の緑が見える、変化のある地勢の街であり、好きな街だ。この地理的な配置によって、新城は、方位学的な見方で、「商業・文化の中心地」となりうる資質をもっているのではないかと考えている。(「多摩川」を「ドナウ川」に、「久末」を「カーレンベルクの丘」になぞらえることによって。)

新城の商店街には、掘り出し物を買える店もある。アルカリ電池をとても安い価格で売っている店もある(デジタルカメラの使用によってアルカリ電池の購入量がふえているので、助かる)。新城の商業区域の中心をなすアーケード、「あいもーる ARCO」の入口の角地は空き地のままになっている。ここにはビルを建てずに、プラハの旧市街広場にあるような、壁面装飾の「からくり時計」(プラハのは、「天文時計」と呼ばれている)を設置すれば、客寄せになり、商店街全体の活性化につながると思うのだが?  (02年2月3日)

 

 

港北ニュータウン

車で動くにはとても面白い街。年取っても安全に運転できるのなら、ここの一戸建て住宅に住んでみたいという気がする。建築デザインの観点からいえば、平面的な集合住宅群も、ちょっぴりアールヌーボー風に三角・丸の意匠を施しただけで、港北NTではなんとなく洒落た印象を与えるから不思議だ。

また、どんな不況の時でも、港北NTをドライブすると、「大丈夫」という気になるのが不思議なところ。「すみれが丘南」交差点角の「マクドナルド」は、「アルカード中原」の「マクドナルド」と並んで、僕の好きな店のひとつだ。  (02年1月25日)

 

 

プラハ

荘厳な建物に取り囲まれたときの立体的な印象を聞かれたら、「とにかく、その場所に行って、感じてみてください」としか言えない。旧市街広場、共和国広場、レットナーの丘、フラッチャニ(プラハ城のあるあたり)、・・・・・・とにかく散歩道には事欠かない街とみた。冬の朝、しんと静まりかえっている頃合に、カレル橋やレギー橋を渡るのは、忘れ難い記憶として残った。

レットナーの丘から、また、「高い城」(ヴィシェフラット)から、ブルタヴァ川を見下ろしたとき、この街は、川の曲がりに立地したんだということを考え、同時に日本にそのような街はあるのか?と思ってしまった。小出とかがそうなのかも知れないが、川の曲がりの美しさを基礎として都市美を発展させたとはとても思えない。

最近、田園調布の近くの「多摩川台公園」を歩いたときに、「第4号古墳」のあたりから見下ろした多摩川の曲がり(もと、巨人軍の練習場があったあたり)は、「高い城」から見下ろしたブルタヴァ川の光景を反転させたような感じに見えた。であるならば、対岸の中原区は、プラハの「スミーホフ」地区に該当する(多摩堤通りには、路面電車を走らせる必要がある)。中原区が「スミーホフ」地区ほどの起伏をもたないことが、返す返す残念だった。 (02年1月11日)

 

 

仙川

京王電鉄の仙川駅周辺は、本来、成城学園前(小田急)と対になるべき地理的条件にありながら、どちらかというと地味・泥臭く、わずかに、白百合女子大学と桐朋学園のみが高級感を与える要因となっていた。そもそも、小生はこれまで仙川駅の周辺を歩く機会が全くなく、ドライブしていて、甲州街道から町田街道に抜ける際に仙川を通過したときに、「道が狭い」という印象を受けたわずかな体験があるのみだった。

最近、初めて「仙川」の周辺を歩いた。仙川駅の北側の仙川(川の名前)沿いの道(緑ケ丘団地の脇)の歩道を歩くのは、中々良い雰囲気のあるものであったし(鉄柵のデザインにも工夫)、何よりも、仙川駅の南側に出来た新道沿いに出店した、「ユニクロ」、某カフェーの店舗を見ながら歩くのは、楽しいことだった。仙川の旧道は、「道が狭い」、「ごちゃごちゃしている」という印象を与えるが、旧道から少し離れると、駅にかなり近いところでも、空き地・畑が結構残されているため、ハイセンスで広い新道を開設しやすかったのでは?という気がした。

仙川から南に歩いていこうとするとき、台地上を歩いて、いつのまにか、「成城学園」の高級住宅街に入っていくか、あるいは、野川沿いの低地に降りるかの選択がある。前者を選んで、祖師谷公園や、喫茶店・レストラン・(有名な)とんかつ屋に寄ったりするのも一法だが、野川に降りるのも、予想以上の面白さがあり、ぜひお薦めしたい。NTT研修センターの脇の急坂を降りると、バス道路を横切るが、このバス道路の成城学園前方向は、急斜面を斜めに登っていく坂になっており、この坂を登って行きたいという気にさせる魅力的な坂道だ。「いずれはこの坂道を登ってみよう」と思いながら住宅街を抜けると、工事中のサッポロビールのグランドを巻く道があり、その先は、(改修中の)谷戸橋のたもとになっている。谷戸橋から成城学園前方向に登っていく道も、やはり素敵な坂道だ。この坂道も選ばず、野川沿いの遊歩道を川下方向に歩くと、特に西岸(小田急喜多見電車基地の脇)の遊歩道は、贅沢なまでに整備されていて、歩いているのが嬉しくなるほどだ。対岸に見える成城学園の台地の下の住宅街は、ビクトリア風(コロニアル風?)など、敷地の広い、素敵な造りの家が多く(また、新しい家々が造られつつある)、それを見ながら野川沿いに下っていくのは、「意外な楽しみ」を超えた満足感をもたらすものだった。  (01年11月29日)

 

 

 

相模原

相模原市内を初めて重点的に歩いてみた(これまでは、用事で短時間寄ったり、通過したりするだけだった)。

「相模大野と、橋本が2つの核」という評価が最近はなされているようであるが、「MeWe」の内装には感心したものの、橋本周辺はまだ寂しいといった感じがした。

一方、相模原駅(以前、訪れたときは地平駅だったが、橋上駅に変わっており、「さがみ夢大通り」に降りる歩道橋が整備されていた)から、南に歩いて、駅入口の交差点で折れて16号沿いに歩き、西門の商店街を経て、「淵野辺駅」に達するまでの行程が、やはり、いかにも相模原らしいという印象を与えた。横浜線の北側を米軍が占有していることが、相模原の都市計画上の弱点と考えられやすいと思うが、一方で、(きっと米軍の指示・要望もあったのだろうと思わせる)米国の郊外都市風の街路作り(紅葉の散り始めた街路樹が良し)が、相模原の魅力を形作っているのでは?と考えた。

相模原に遠方からの客をもっと呼び込む方法として、碁盤目状に形成されたブロックのうちのひとつに、ギリシャ正教寺院風のモニュメンタルなビルディングを建設してみては?と思った。それも、建築費をけちらずに、できるだけ豪壮な造りに よってだ。国や地方公共団体が特定の宗教を支援することは禁じられているが、ギリシャ正教風であれば、ギリシャ文化(真善美の三位一体)の理想に近づくためのモニュメントということで許容されるのではないかと考えたからだ。都市の形成過程において、巡礼地、門前町など、宗教が深くかかわってきたことは否めない。ところが、「政教分離の原則」によって(それ自体は、小生も大事なことであると考えているが)、国・地方公共団体の建設する公共施設が無味乾燥・画一的になってしまったからだ。豪壮な造りにすることは予算増大を招くが、それは、将来的に観光客の増加による税収増・雇用増によって、補われるのではないか?(恐らく、ギリシャ正教風のモニュメントは過疎地に建設しても無駄で、大都市近郊に建設してこそ、意味がある。川越の古い街並みが客を呼び込んでいるような感じで、相模原に人が集まる)

相模原を散策したあとに(淵野辺駅の周辺も中々良かった。この駅から町田方向に見える、横浜線沿いの並木のところ(中々ロマンティック!)に、青山学院大学が建設中である)、鴨居駅で横浜線の電車を降り、鶴見川の堤防をずーっと歩いて、ついには綱島まで達した。この堤防は「散歩」「ジョギング」「サイクリング」のメッカとなっているようで、多くの方々とすれちがった。川向町のあたりから、鶴見川越しに、新横浜の街や、ワールドカップ用のスタジアムを眺めた時、その光景は、アラビア湾に浮かぶバーレーン(マナマ)の街を見渡したような印象を与えた。きっと、新横浜プリンスHの丸い構築がそんなイメージを与えるのであろう。新羽の横浜市営地下鉄・車両基地の脇を歩くのもまた良し。新たな発見があり、興味深い散策コースだ。  (01年11月23日)

 

 

港区、渋谷区、世田谷区、川崎市、高津区、相模原市・・・

僕のテリトリーを以下の地域に定める。日本国の東京都:港区、渋谷区、世田谷区、目黒区、大田区、世田谷区。神奈川県 川崎市(中原区、高津区、多摩区、・・・・)、相模原市。海外では、中欧5国(オーストリア、チェコ、ハンガリー、スロバキア、ポーランド)に加え、ウクライナとする。この地域を選択させていただいたのは、僕にとっては、これらの地域を歩き、また、これらの地域をイメージするとき、自分自身の想像力が自由に闊歩し、幻想的な光景を浮かび上がらせてくれるからだ。

僕は、インターネット・サイトによくある「地域情報」を超えた、「地域美学」「地域哲学」とでも言うべきものを目指したい。もちろん、何ということもない「地域情報」から何かある別のイメージがぐんぐん広がってくるわけだから、個々の「地域情報」は、目指そうとする「地域美学」「地域哲学」の重要な構成要素だ!! 「世田谷区のマクドナルド○○○○店では、共通バスカードを提示した客にディスカウント価格でメニューを提供する」といった、「たわいない」情報が、僕にとって重要な価値をもつということを理解していただけるだろうか?

また、恵比寿から駒沢通りを、港区方向に向かって歩き、ゆるやかなカーブを曲がり終わって、殺風景な首都高速道路のガード下でT字部にぶつかったとき、僕の心の中に、「この道がこの先、プラハに通じていたならば!」という願望が湧き上がったということを理解していただけるだろうか?     (01年11月17日)

 

ガリチア(ウクライナ)のボロフタ駅

「Poland Page」を御覧になった方は、僕が「ガリチア」にも興味を持ち始めたことに気づいていらっしゃることでしょう。この記事の中で紹介した「ガリチア・サイト」(英語)をつぶさに御覧になれば、ウクライナ語(キリル文字)で地名が詳しく記載された、ガリチア地図のコンテンツが含まれていることがおわかりのはずです。

ウクライナは平面的な国と空想していたが、南西部のガリチアにおいては、カルパチア山脈の山並みに抱かれた一帯であるということが、僕のイメージ想起力を大きくふくらませている。この一帯に、ウクライナ語でBOPOXTA (ポーランド語で、Worochta)と表記する小さな町がある。この町の存在を知ったのは、ウィルヘルム・ディヒターの自伝的小説「コィン・パナ・ボーガ(主なる神の馬)」の中で、作者の父が結核治療のために訪れたサナトリウムのある町としてである。

このボロフタの駅には、上下線合わせて、1日にたった9便しか列車がやってこない。これを「不便」と感じるのか、ノスタルジアと感じるのかは、人それぞれだろうが、とにかく、僕はこの時刻表(ポーランド語でロスクワト)のサイトが気に入った。

http://www.republika.pl/lskywalker/podroze/ukraina/rozklady/uz_worochta.htm

列車番号

始発駅 ― 終着駅

到着時刻

出発時刻

6718

ボロフタ ― リボフ

606

ラホフ ― リボフ

4:10

4:13

6619

イワノ・フランコフスク ― ラホフ

5:41

5:46

6671

コロミャ ― ラホフ

10:30

10:33

6622

ジロビェ(ドゥボヴォイェ?) ― イワノ・フランコフスク

10:28

10:34

6621

イワノ・フランコフスク ― ラホフ

12:57

12:59

6618

ラホフ ― コロミャ

6620

ラホフ ― イワノ・フランコフスク

17:17

17:20

6672

ラホフ ― コロミャ

21:00

21:03

605

リボフ ― ラホフ

22:34

22:38

6617

コロミャ ― ボロフタ

0:07

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